大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学(後に復学を許されたが戻らず)。この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。明治維新に際しては小松清廉の推挙により明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽くした。同年、三枝綾子と再婚。明治3年(1870年)に参議に補され、1872年(明治5年)には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。1873年(明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。1874年(明治4年)には、ウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置、大隈重信が総裁、佐野常民が副総裁となり、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議、設立し、自ら初代院長となった。自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。ただ、明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。明治20年(1887年)、伯爵に叙された。大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。 同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した。右脚の切断手術は、ベルリン大学医学部で日本人初のドクトルを取得した順天堂医院院長の佐藤進や大隈夫妻の主治医であるドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって行われた(「ベルツの日記」)。明治29年(1896年)、 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年に辞職した。明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。結局、組閣からわずか4か月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。明治41年(1908年)11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。第一次護憲運動が興ると政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織(第2次大隈内閣)。与党は立憲同志会、大隈伯後援会→無所属団→公友倶楽部、および中正会である。時の大隈内閣は、文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこない、翌年1月には外相・加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。ただし、その後日本側は、第五号の7項目を除外した。この間の1月12日には、乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人に爆弾を投げられているが、爆弾が不発だったために事無きを得ている。内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るが、政権は次第に国民の支持を失っていった。改造の際に「いったん辞表を提出し天皇の慰留により留任」というこれまでの藩閥政治家と同様の型をとったことやそれに対する弁明も批判された。さらに政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月、遂に内閣は総辞職、以後大隈も政界から完全に引退した。退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。また、再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。この間、大正5年(1916年)7月14日に侯爵に陞爵され貴族院侯爵議員となる。大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田の私邸で死去、1月17日に私邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。大隈の墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にある。しかし、例外もある。大日本帝国憲法の御署名原本の中の内閣総理大臣以下国務大臣の副署の部分で、『大隈重信』の文字だけがあまり達筆ではない。内閣総理大臣以下国務大臣の副署は自署でなければいけないので、外務大臣の身である大隈の貴重な直筆であることがわかる。大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、主に大礼服姿のものとガウン姿のものに分けられる。
出典:wikipedia
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