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江本孟紀

江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)生まれ、同県高知市出身の元プロ野球選手(投手)。現役引退後は野球解説者、野球評論家、政治家、タレント、俳優、実業家として活動している。元民主党高知県連顧問、元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(2期)(スポーツ平和党→自由の会→フロムファイブ→民政党→民主党)。株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。警官の実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが、野球に打ち込んだ。高知商ではエースとして1964年の秋季四国大会決勝に進出、小坂敏彦のいた高松商を降し優勝を飾る。1965年の春の選抜への出場を決めたが、部員が不祥事を起こしたため辞退。同年夏の高知大会も出場停止処分によって参加できなかった。その後、第1回プロ野球ドラフト会議で西鉄ライオンズから4位指名を受けるが、元々大学進学希望だったため入団を拒否し、法政大学経営学部へ進学した。この時の西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であったため、4番で投手の自分が4位指名で、3番打者の浜村が1位指名であることに納得できなかった、とされているが江本はこれを否定している。大学時代は1年生の春からベンチ入りするも、監督の松永玲一の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチ入りからも外れ、半ば退部状態となった(後に松永とは和解する)。東京六大学リーグ戦通算14試合に登板し6勝1敗、防御率2.35、39奪三振。法大の1年先輩には「法政三羽ガラス」の田淵幸一、山本浩司、富田勝、同期には東京六大学リーグ戦で史上最多の通算48勝を挙げた山中正竹をはじめ、黒田正宏、堀井和人らがいる。大学でのプレー後、社会人野球熊谷組へ進む。第41回都市対抗野球大会に出場。在職中には、公共事業の入札に参加した事もあった(『おれ、紆球曲球』より)。のドラフト外で東映フライヤーズに入団。初年度のは中継ぎしか出番がなく1勝もできなかったが、同年オフに南海ホークス監督の野村克也が才能を見抜き、佐野嘉幸と共に、高橋博士との交換トレードで入団僅か一年で移籍する。江本は「東映よりは全然よかった。東映は恐ろしかったもん。張本さんに白さんに大杉さん。南海は門田とか黒田とか、堀井とか同級生がいっぱいいたし。全然違和感がなかった。」と語っている。期待の証として野村に背番号16を与えられた。移籍後の初挨拶のとき、いきなり野村に「おまえには10勝以上してもらうからな」と言われて驚愕するも感激。「プロでまだ1勝も出来ないでいた自分にこんな期待をかけてくれるなんて」と思ったが、実は野村のこの一言は、負けん気の強い江本の性格を知り抜いての策だった。野村のこの一言に発奮した江本は移籍初年度のに背番号と同じ16勝を記録し、一躍ホークスのエースになった。先発・中継・リリーフを無難にこなし、には前期最高勝率及びプレーオフ進出に貢献、プレーオフ第5戦9回2死に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、高井保弘を迎えたところで救援、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。しかし、それまで抑えの切り札佐藤道郎が投げており、江本は急遽登板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。江本は「野村さんがいなかったら今の自分は完全に存在していない」と常々語っている。にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。阪神タイガースの江夏豊と投げ合い、翌オフに両投手はトレードされた(ホークスからは島野育夫、長谷川勉、池内豊。阪神からは望月充を加えた4対2の交換トレード)。その際、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解し、1993年に江夏が覚せい剤取締法違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い、服役中も度々刑務所に面会に訪れて江夏をサポートするという間柄になった。ホークス時代に「ノムさん(野村克也)のリードのせいで打たれた試合で腹が立ったのでベンチでノムさんをヤジった」とのエピソードがある。ベンチで誰も止められないほど荒れ狂う江本を止めたのはコーチの古葉竹識の「おい、やめとけよ」の一言だったという。一見すると温厚で紳士然としている古葉のドスの効いた一言に江本は我にかえるほどの恐怖感をおぼえたという。阪神移籍後初のキャンプでは甘いマスクで女性ファンの人気を集め、キャンプ地は押すな押すなの盛況となった。阪神ではエースとして活躍するも、オフに起きた江川事件で巨人からトレード移籍してきた小林繁にナンバーワンエースの座を奪われる(小林の移籍した1979年、小林は22勝、江本は12勝だった)練習は手抜きの名人だったという。その後、監督の中西太の起用に不満を募らせ、先発で登板した8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(甲子園球場)の8回表途中に交代を命じられると、新聞記者などを前にベンチ裏で「ベンチがアホやから野球がでけへん」と発言(後述)。この発言が「監督批判」というニュアンスで翌日のスポーツ紙を賑わせたことから、「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪したうえで、同年限りでの現役引退を表明した。なお、阪神への移籍後は、南海時代に野村が禁じていた口ひげをトレードマークのように生やしていた。その一方で、クラウンライターライオンズから大型トレードで移籍した1979年から正捕手を務めた若菜嘉晴と共に、絶えず黒い交際を噂されていた。しかし実際には、阪神で選手会長を務めたこともあるほど、選手からの人望があった。酒も飲まず、かなりの読書家であり、根は真面目であったという。1982年に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部を超えるベストセラーとなった。1982年からはフジテレビ、ニッポン放送野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家の傍ら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラム、コメンテーターなど、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『なんてったって好奇心』の司会(三代目)を務める。その後政界入りし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙でスポーツ平和党より参議院比例代表選出で出馬し、初当選する。1995年、党の副代表を辞任、離党して無所属になる。その後、自由連合、無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。総理大臣指名選挙で支持した橋本龍太郎が総裁を務める自民党入党も検討したが、細川護熙らと1997年12月26日、フロムファイブ、1998年の1月23日民政党、4月27日民主党の結成に参加。長嶋茂雄読売巨人軍監督の支援も受けて1998年7月の第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。1999年8月12日成立の通信傍受法案など組織犯罪対策三法案では、反対の党議に従わず退席した。2001年1月から8月にかけて(第151回・152回国会)参議院内閣委員会委員長。2004年に民主党を離党し、大阪府知事選に立候補。自身最後の政治活動として表明し、選挙に臨んだが、当時知事であった太田房江に完敗。その後も自身が代表の政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補としての総務大臣届出資金管理団体として存続している。また、法大の同窓で1992年参院初当選同期の平野貞夫や小沢一郎ら政治家や言論人などとも交流が続いている。10月、アメリカ合衆国の独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明と樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で度からの日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから、三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。その後、4月にアメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグのバイスコミッショナーに就任し、このシーズンのみ同リーグに参加したジャパン・サムライ・ベアーズにも人脈面などで援助した。ジャパン・サムライ・ベアーズがシーズン後に日本でクラブチームなどと試合を行った際には監督を務めた。同年11月にはジャパン・サムライ・ベアーズは日本のクラブチームである京都ファイアーバーズとして再発足することとなり、監督兼主催者となる。この京都ファイアーバーズには上記の樋口直人も代表者として名を連ねている。2005年、堀江貴文率いるライブドアによるニッポン放送の株式所得問題が起こった際、「ニッポン放送をホリエモンが買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。7月24日にタイ王国ナショナルベースボールチームの総監督に就任。この年11月に台湾・台中で行われた第24回アジア野球選手権大会に出場したが、予選リーグ敗退に終わった。2010年度から法政大学で非常勤講師を務める。2010年5月、参議院選挙に国民新党公認の比例代表候補として立候補することを発表。6月、大相撲の木瀬親方が土俵下の「維持員席」(いわゆる「砂かぶり」の席)を暴力団組長に手配していたとされる問題に関連して、2009年9月の大相撲秋場所4日目に、砂かぶり席で江本が暴力団組長2人と言葉を交わしながら相撲観戦しているところをNHKの中継カメラに捉えられていたことが報じられた。これについて江本は「議員になった暁には、この問題を文部科学省の委員会にかけて、相撲協会の正常化を訴える」などと釈明した。7月、参議院選挙落選。選択的夫婦別姓制度導入に反対していた。2015年10月26日、来シーズンから四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスで総監督(現場指揮をおこなう監督とは別)に就任することが決定した。江本の阪神退団・現役引退のきっかけになったとされる「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言をめぐっては、江本自身の発言に年月に伴う変遷が見られる。江本は1981年8月26日のヤクルト戦に先発で登板すると、7回表まで3安打1失点と好投。しかし、阪神の3点リードで迎えた8回表に、3連打で2点を失う。なおも2死2塁で、8番打者の水谷新太郎に同点打を許したあげく、首脳陣から交代を命じられた。この交代に納得の行かない江本は、マウンドを降りた直後に一塁側のベンチに向かってグラブを投げ付けると、球場の2階にあった選手用のロッカールームに向かった。『サンケイスポーツ』への入社3年目に阪神担当記者として上記の発言に接した田所龍一は、産経新聞大阪本社の運動部長に就任した2009年に、同紙の署名記事で一部始終を回顧。降板直後の江本の発言を取りにベンチ裏へ向かったところ、通路からロッカールームへ向かって田所の視界から消えたところで江本が「アホやから」発言を大声で叫んだという。その発言を田所から聞いたサンケイほか各紙のキャップ記者が江本へ囲み取材を行い発言の真意を質したところ、発言を「独り言」や「愚痴」ではなく「公式発言」として認めたことを明かした。また、江本が阪神を退団した翌日に、田所が江本の自宅を訪れたところ「アホやのう、お前がまだ通路の入り口で立っとると思ったから、わざと聞こえるように言うたんや。お前のせいで辞めたんやない。気にするな」と慰められたことも紹介した。当時『サンテレビボックス席』で阪神戦中継の実況を担当していた西澤暲(フリーアナウンサー)は、西澤が阪神戦の実況を離れた後の2014年に著した『阪神戦・実況32年。』(講談社)で、江本発言に触れている。西澤は当日、翌日の実況に向けて、発言の当日に取材を兼ねて甲子園球場の放送ブースでこの試合を観戦していた。ところが、マウンドを降りた後の江本の様子にただならぬ気配を感じたことから、ロッカールームに向かう階段の踊り場で待機。やがて、スポーツ紙の阪神担当記者と共に姿を現した江本に向けて、顔なじみのよしみで「エモ、お疲れさん」と声を掛けた。西澤によれば、この直後に江本が「ベンチがアホやから、やってられませんわ」と言い放ったため、「若い記者のいる前でそんなことを言うな」とたしなめながらしばらく2人だけでやり取りを続けたという。江本自身の発言を見ると、引退直後の1982年に刊行した『プロ野球を10倍楽しく見る方法』では、「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言を「ぼくの発言じゃない」と明確に否定していた。その後も複数の著書において「そういうセリフは何も言っていない」と否定したり、「人に言わせると…」という表現で間接的に否定していた。しかし、上記の田所と西澤の証言が出た後の2014年には、自ら行った発言であることを認め、その背景を以下のように述べている。当時監督だった中西太とは1979年キャンプでの練習中、打撃コーチの中西が狭いスペースで打撃練習を始めさせ、打球が別の練習をしている選手に当たるという事件があり、「私は選手会長だったから、中西さんに文句を言った。それだけならまだよかったんですが、のらりくらりとした中西さんの態度に腹が立ち、熱くなってタバコまで投げつけてしまった。以来、犬猿の仲でした。そんな中西さんが翌年から監督になったものだからシーズン中、先発だリリーフだとめちゃくちゃな起用されてきた。そんな伏線があった上で迎えたのが8月26日のヤクルト戦でした。あの発言は、積もり積もった恨みに対するものだったんです。議員をやったり、指導者をやったりして、自分も人に何かを伝える側に立った時、ふと中西さんの気持ちが分かるようになったんです。人間は立場によって言いたくないことも言わなければならない。私のように生意気な選手には、中西さんは厳しく接するしかなかった。そうしなければ監督としての威厳が保てなくなり、チームは機能しなくなっていたでしょう。」と述べている。通算24ボークは日本プロ野球記録。1973年のシーズン10ボークも、2003年に広島東洋カープのクリス・ブロックに抜かれるまで日本記録であった。記録の背景にはパ・リーグが1973年から1974年の2年間、ボークの宣告を極端に強化したことが大きく影響している。王貞治が現役時代に苦手としていた投手であり、通算対戦打率は約1割と、50打席以上の対戦がある投手の中では1位。被本塁打はわずかに1本。これは満塁本塁打で、いつもと違う攻めを試した結果であったという(自著『おれ、紆球曲球』)。球速は高校時代は150km/hを超えていたと自称するが、プロ入り後すぐに速球派から技巧派へ転向、コントロール中心型のピッチャーであった(自著『プロ野球を20倍楽しむ方法』)しかし変化球を多数種類おぼえるタイプではなく、同じカーブ・フォークでも幾種類かのカーブ、フォークを使い分けるというピッチングをしていた。変化球に関しては「エモ・ボール(魔球)はフォークのスッポ抜け」(前著)、「フォークボールは高校時代から得意にしていた」「エモ・ボールは一種の都市伝説のようなもので、実際には投げていない」(自著『プロ野球 勝てる監督・使える選手』)、「ストレートとカーブしか投げられなかった」(近藤唯之『引退そのドラマ』)といった具合に、微妙に発言の内容を変えている。高橋慶彦の連続試合安打を阻止した投手である(1979年)。実は高橋は日本記録を更新した試合で負傷して長期離脱を余儀なくされており、復帰戦で対決した江本は「ボールに目が慣れていない」と判断、速球で押し通す配球で無安打に抑え込んだという(近藤唯之『運命を変えた一球』)。また『FNS27時間テレビ2011』では偶然にも高橋の話題になり、高橋を敬遠との指示を受け4球も投げるのが面倒だから1球(死球)で済ませたことがあると語っていた(直後に冗談ですと言ったので真偽は不明)。高橋の前に連続試合安打(32試合)の記録を持っていた長池徳士を抑えたのも江本である(高橋慶彦談)。投手としては打撃が良く、通算7本塁打を記録している。本塁打を打った試合でロッテ監督の金田正一から野次られたことがあり、後に金田自身の実績を逆手に取って反論し金田をしどろもどろにさせたことがある。もちろん金田はベンチで感情にまかせて江本を野次っただけのことで、金田自身は「一流投手は打者としても一流」と主張し、その主張通り投手としての本塁打日本記録保持者である。愛称は「エモやん」。野球評論家としては、歯に衣着せぬ発言や意見が多く、良くも悪くも周囲に媚びずに遠慮なく発言する傾向がある(結果的に言動がやや流動的に映ることもある)。1980年代は、巨人・阪神・西武のような人気球団や、大御所に関して否定的な意見を口にすることが多かった。またホークス在籍時代、野村から叩き込まれた「シンキング・ベースボール(考える野球)」が自分の野球観の基本だとしており、自分を見出してくれた野村に野球人として最大の尊敬を向けているが、1990年代に上昇の一途をたどった野村人気もあってか、メディアの前では距離を置いた立場に立つことが多く、2000年代に入ってからは「ノムさんは本当にすごいのか?」と題した本を出版、「ヤクルト時代は並以下の成績」などと評している。一方で野村の美談を披露したり、「僕や江夏さんくらいしか言えないから」などといった、言い過ぎていることを示唆するようなフォローを入れることも多い。野村は練習嫌いで喧嘩っ早い江本にずいぶん手を焼いたといい、江夏豊、江本、門田博光の三人を、「自分の南海監督時代の三悪人」と評しているが、この「三悪人」は、「頭のいいヤンチャ坊主選手」という意味であり、野村は必ずしも悪い意味で使っていない。その後野村は著書で「この三悪人に監督として鍛えられたおかげで、他のチームで少々クセのある選手がいても全然平気になったよ。山﨑武司なんてあの三人に比べたら、フーン、くらいのレベル」と言っている。同様に「オレ流スタイル」で脚光を浴び、各方面からの支持者も多い落合博満に対しても、公然と落合の態度や手腕を否定する発言を繰り返している。「(落合が中日監督をしている8年間の間に)1回しか直接取材をしていない」と公言し、雑誌EX大衆2009年9月号などで森祇晶と原辰徳を理想の監督だと述べ、「巨人が巨大戦力なら中日も巨大戦力」「完全日本一を3度達成している原監督を評価しないマスコミはおかしい」などといった意見を述べている。逆に選手時代は人気の高かった原よりも、日の目が当たらなかった落合を高く評価していた。江川卓を批判することも多い。江川は法政大学野球部の後輩に当たるが、著書の中でもともと2部の学部に入学し、後に1部の学部に転籍したことを挙げて「法政大学のOBとは認めない」と記すなど度々批判している。ただし1981年に成績第1位の江川ではなく第2位の西本聖が沢村賞を受賞した事に対しては「おかしい」等と、している。趣味はバロック音楽鑑賞。好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿ロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演している。背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、ホークスに行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)」とコメントしている。他多数

出典:wikipedia

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