サンデーサイレンス(、1986年 - 2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬、種牡馬である。1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。そのイニシャルからSSと呼ばれることもある。※文中の「GI級競走」は日本のパート1国昇格前および昇格後のGI競走とJ・GI競走、ならびに昇格後のJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。1988年10月に競走馬としてデビュー。翌1989年にアメリカ三冠のうち二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)、さらにブリーダーズカップ・クラシックを勝つなどG1を5勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。引退後は日本で種牡馬となり、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得。さらに中央競馬における種牡馬にまつわる記録を次々と更新した。サンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。2002年8月19日に左前脚に発症した蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため16歳で死亡。幼少期は見栄えのしない容貌ゆえに買い手がつかず、生命にかかわる事態に見舞われながら競走馬、さらに種牡馬として成功した生涯は童話『みにくいアヒルの子』に喩えられる。サンデーサイレンスは1985年に繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日にアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。両者が交配された要因は、ニックスとされるマームードのインブリード(4×5)が成立することにあった。サンデーサイレンスの毛色は、生国のアメリカでは「黒鹿毛ないし青鹿毛 (Dark Bay or Brown)」となっているが、のちに輸入した日本では「青鹿毛」と登録されている 。幼少期のサンデーサイレンスは体格が貧相で、後脚の飛節が両後脚がくっつきそうなくらいに内側に湾曲(外弧姿勢、X状姿勢という。そのような体型の馬は下半身の推進力に欠けるとされる)していた。ストーンファームの経営者アーサー・ハンコック3世は幼少期のサンデーサイレンスについて「脚がひょろ長くて、上体は華奢」であったと述べている。さらに幼少期のサンデーサイレンスの馬体はくすんだ鼠色をしており、その容貌は、テッド・キーファーがストーンファームを訪れた際に必ず「あんなひどい当歳(0歳)馬は見たことがない」「目にするのも不愉快」と言うほど見栄えがしなかった。また気性が激しく、扱いの難しい馬であった。1987年にキーンランド・ジュライセール(ケンタッキー州で行われる、世界的に有名なセリ市)に出品されたが、馬体の見栄えが悪かったサンデーサイレンスはセレクトセール(一定水準以上の血統および馬体をもつと判断された馬が出品される部門)への出品が許可されず、一般部門に出品された。サンデーサイレンスには1万ドルの値がついたが安すぎると感じたハンコックは1万7000ドルで買い戻した。ハンコックはサンデーサイレンスを買い戻したことをトム・ティザム(サンデーサイレンスの母ウィッシングウェルの実質的所有者)に報告し、買い取ってもらおうとしたがティザムは所有する意思がないと答えた(テッド・キーファーのアドバイスによるものだった)ため、そのままハンコックが所有することとなった。翌1988年3月、サンデーサイレンスはカリフォルニア州で行われたトレーニングセールに出品されたが希望販売価格の5万ドルに届かず、3万2千ドルでふたたびハンコックに買い戻された。さらにハンコックは複数の競馬関係者に購入の打診をしたが、ことごとく断られた。ハンコックはサンデーサイレンスをキーンランド・ジュライセールで買い戻したあと、同馬を友人のポール・サリバンと半分ずつの持ち分で共有した。その後サリバンはカリフォルニア州のトレーニングセールで買い戻された時期に所有する競走馬の調教費用と相殺する形で調教師のチャーリー・ウィッティンガムに持ち分を売却し、ウィッティンガムはそのうちの半分を友人の医師アーネスト・ゲイラードに売却した。なお、サンデーサイレンスが活躍を見せ始めるとハンコックのもとには持ち分を購入したいという申し込みが相次いだが、ハンコックは売却しなかった。サンデーサイレンスは当歳時(1986年11月)に悪性のウイルスに感染し、数日にわたってひどい下痢を起こして生死の境をさまよった。また、カリフォルニア州のセリからの帰り道ではトラックの運転手が心臓発作を起こし馬運車が横転する事故に遭い、競走能力こそ失わなかったもののしばらくまっすぐに歩けなくなるほどの重傷を負った。このとき馬運車に乗っていたサンデーサイレンス以外の競走馬はすべて死亡した。サンデーサイレンスは同馬の所有権を4分の1持つチャーリー・ウィッティンガムが管理することとなった。調教を進めるなかでサンデーサイレンスの能力を感じ取ったウィッティンガムはハンコックに「あの真っ黒い奴は走る」と電話で報告し、ハンコックを驚かせた。サンデーサイレンスは1988年10月に初めてレースに出走したが2着に敗れ、翌11月に初勝利を挙げた。12月の一般競走でふたたび2着に敗れたあと、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにした。翌1989年3月2日、サンデーサイレンスはサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰して優勝。さらに同月19日、重賞 (G2) のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。この段階で主戦騎手のパット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の3歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。サンデーサイレンスはケンタッキーダービーの優勝候補として競馬ファンに認識され始めた。ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について「サンタアニタダービーが終わるまでは分からない」とも述べていたが、4月8日にサンタアニタダービーを11馬身差というレース史上最大の着差で優勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明。4月半ばにはケンタッキーダービーに備え同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送した。ケンタッキーダービーはレース前日に20mmを超える雨が降り、1967年以来といわれる悪い馬場状態で行われた。また、発走時の気温は摂氏6.1℃でレース史上最低であった。サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩し他馬と激しく接触し、直線で左右によれる素振りを見せる場面も見られた(ヴァレンズエラは馬場の両側から歓声を浴びせられて驚いたからだと、ウィッティンガムは馬場の内側のラチ沿いに並んでいた警備員に驚いたからだとしている)が、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝。レース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言した。ケンタッキーダービー優勝後、アメリカ三冠第2戦のプリークネスステークスに出走するまでの過程は平坦なものではなかった。まずレース1週間前の5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生(獣医師の診断は打撲または血腫による跛行)し、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われた。さらにサンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが馬房に押しかけ、サンデーサイレンスは苛立った様子を見せるようになった。陣営は馬房の扉を閉めてサンデーサイレンスを隔離する措置を講じた。ケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスであったが実力はケンタッキーダービーで1番人気に支持されたイージーゴアのほうが上と見る向きが多く、プリークネスステークスでもイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であった。レースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外に進出し、サンデーサイレンスが前方へ進出するためのスペースを塞ぐ展開となった。そのままイージーゴアは先頭に立ったがサンデーサイレンスが猛然と追い上げ、15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝した。このマッチレースはアメリカ合衆国の競馬専門誌『ブラッド・ホース』で行われた読者によるアンケートで、年間ベストレースに選出されている。ベルモントステークスではアメリカ三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスはイージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。しかしレースでは残り400メートルの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れた。ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を次の目標に据えた。ウィッティンガムはじめ厩舎スタッフはサンデーサイレンスの体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせたあとでスワップスステークスに出走した。レースでは逃げの戦法をとったが残り400mの地点で突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れた。レース後、ウィッティンガムはレース途中でほかの馬を引き離し過ぎたことに不満を表した。合田直弘はヴァレンズエラがサンデーサイレンスに鞭を入れ過ぎたことを敗因に挙げている。敗戦を受けて陣営は万全の体調でブリーダーズカップ・クラシックに出走できるよう態勢を整えることにした。9月に入り、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦としてルイジアナ州のルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースでは2着に6馬身の差をつけて優勝した。ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手パット・ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。しかしサンデーサイレンス陣営は同期のライバルであるイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めた。ベルモントステークスのあとG1を4連勝したイージーゴアもブリーダーズカップ・クラシックに出走することが決まり、このレースはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となった。競馬関係者のなかには2頭の対決をボクシングのヘビー級のタイトルマッチに例えたり「10年に一度の大一番」と呼ぶ者もいた。レースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であったが、残り200メートルの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差しのいで優勝した。レース後、ウィッティンガムはサンデーサイレンスを、自身が管理したなかで「文句なしに最高の馬」と評している。この年、サンデーサイレンスは北アメリカにおける1年間の獲得賞金記録(457万8454ドル)を樹立した。さらに翌1990年1月、1989年度のエクリプス賞年度代表馬、および最優秀3歳牡馬に選出された。三冠競走では、イージーゴアがサンデーサイレンスのライバルとなった。血統背景が優れている点、馬体が美しい点などから、イージーゴアはサンデーサイレンスとは対照的な馬とされる。イージーゴアはケンタッキーダービーが行われる前から競馬マスコミによって「セクレタリアトの再来か?」、「今、その存在は伝説となりつつある」と評されるなど高い評価を集め、ケンタッキーダービー、さらには同レースでサンデーサイレンスに敗れた直後のプリークネスステークスでも1番人気に支持された。前述のように三冠競走をサンデーサイレンスの2勝1敗で終えたあと、イージーゴアがG1を4連勝し、サンデーサイレンスがG1のスーパーダービーを優勝して迎えたブリーダーズカップ・クラシックはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、「10年に一度の大一番」といわれた。2頭の関係はアファームドとアリダーの再来、競馬史上最高のライバル関係と評された。サンデーサイレンスとイージーゴアとの比較についてウィッティンガムは、サンデーサイレンスの得意距離は1600メートルから2000メートルで、イージーゴアは一流のステイヤーと述べている。レイ・ポーリックはサンデーサイレンスは敏捷な馬でコーナーを回りながら加速することができたためカーブがきつい競馬場を得意とし、一方イージーゴアは長い直線では圧倒的なパワーを発揮するがきついカーブを苦手としていたと分析している。なお、イージーゴアはクレイボーンファームで生まれた競走馬である。サンデーサイレンスの馬主アーサー・ハンコック3世はクレイボーンファームの経営者ブル・ハンコックの息子であったが、父の死後後継者に指名されなかったことに不満を覚え、クレイボーンファームと袂を分かった過去があった。さらにイージーゴアの名義上の生産者であり馬主であったオグデン・フィップスは、顧問としてクレイボーンファームの後継者指名に関与していた。前述のようにサンデーサイレンスはプリークネスステークスの直前期に脚部に問題を抱え、短期間で回復した。サンデーサイレンスの治療にあたった獣医師のアレックス・ハートヒルによると、施された処置は脚部をエプソム塩に浸して血液の循環を促進したあとで患部に湿布を貼るというものであったが、同じ時期に前述のように厩舎サイドが観光客およびマスコミに苛立つサンデーサイレンスを隔離するために馬房の扉を閉める措置を講じたことから、馬房のなかで違法な処置がとられているという疑惑を口にするマスコミ関係者が現れた。三冠の最終戦のベルモントステークスを前に、ニューヨーク州の競馬当局は同レースが行われるベルモントパーク競馬場の厩舎エリアへのハートヒルの立ち入りを禁止した。「古馬になればもっと強くなる」というウィッティンガムの主張により、サンデーサイレンスは1990年も現役を続行することになった。ブリーダーズカップ・クラシックのあと、サンデーサイレンスは脚部に複数の故障(膝の剥離骨折と軟骨の痛み)を発症したため、骨片の摘出手術を行ったあとで休養に入った。1990年の3月に調教が再開された際にウィッティンガムは「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」と宣言し、宣言通り6月のカリフォルニアンステークスでレースに復帰させた。このレースをサンデーサイレンスは逃げ切って優勝した。2着馬との着差は4分の3馬身であったが、これは今後のハンデキャップ競走で重い斤量を課されないために着差をつけないで勝つようウィッティンが指示を出したためであった。なおこのレースでは当初ブリーダーズカップ・クラシックでサンデーサイレンスに騎乗したクリス・マッキャロンが引き続き騎乗する予定であったが、当日に行われた別のレースでマッキャロンは落馬し、復帰まで5か月を要す大怪我を負った。これによりパット・ヴァレンズエラがふたたび主戦騎手を務めることになった。続いてサンデーサイレンスは中2週でハリウッドゴールドカップに出走した。レースでは直線に入りクリミナルタイプとのマッチレースとなったが交わせず、アタマ差の2着に敗れた。敗因として、ウィッティンガムとヴァレンズエラはともにクリミナルタイプより5ポンド重い斤量を課されたことを挙げている。合田直弘とハンコックは、ヴァレンズエラが鞭を入れ過ぎたことを挙げている。その後、サンデーサイレンスはアーリントンパーク競馬場がサンデーサイレンスとイージーゴアを対決させる意図で企画した特別招待レース(アーリントンチャレンジカップ、8月4日開催予定)を目標に調整された。7月半ばにイージーゴアが脚部の骨折により競走馬を引退し対戦が不可能になってからも出走予定は変更されなかったが、レース直前に左前脚をかばう素振りを見せた。診察の結果左前脚にある「XYZ靭帯」と呼ばれる靱帯(馬の体重を支えるのに不可欠な靱帯といわれている)に小さな断裂が見つかり、獣医師のハートヒルは引退を勧告。陣営はそれに従い、引退を決定した。ハンコックは総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組み、サンデーサイレンスにアメリカで種牡馬生活を送らせる予定だった。しかしヘイロー産駒の種牡馬成績が優れなかったことやファミリーラインに対する評価の低さから種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者は3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった。そんな中、1990年はじめにハンコックから250万ドルで持ち分の半分(全体の4分の1)を買い取っていた日本の競走馬生産者吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を打診してきた。当時ハンコックはストーンファームの経営を拡大させるなかでできた負債を抱えており、経済的事情から「他に道はない」と判断し、サンデーサイレンスを売却することにした。吉田善哉が購入のために使った金額は1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)であった。吉田善哉の子吉田照哉によると、取引成立には善哉とウィッティンガム、さらに照哉とハンコックとの間に交友関係があったことが大きく作用しており、「築きあげてきた人脈なくしては不可能だった」。照哉はかつてクレイボーンファームに隣接するフォンテンブローファームの場長を務めたことがあり、その縁でハンコックとは親しい間柄であった。しかしながらこの取引は当時、「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった。一方、「欧米の超スーパーホースが、いきなり日本で種牡馬入りするというのはまずあり得ない」と考えられていた当時の日本競馬界では衝撃をもって受けとめられた。作家の吉川良によると、吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を思い立ったのは、同馬が勝ったピムリコステークスのビデオを観たときのことである。吉田善哉は吉川の前で「欲が出るね。これは忙しくなる。わたしか照哉がしばらくアメリカに下宿しなくちゃならなくなるかもしれんな」と述べたという。実際に購入に踏み切った動機について作家の木村幸治は、社台ファームで繋養されていた種牡馬ディクタスが1989年9月20日に死亡したため、その後釜を探していたのだと推測している。木村によると当時社台ファームにはノーザンテースト、リアルシャダイ、ディクタスに続く種牡馬を導入し、生産馬について「同じ系統の馬だけが増加し、近親の度合いが濃くなり過ぎる」ことを解消しようとする動きがあった。吉田善哉はサンデーサイレンスが勝ったブリーダーズカップクラシックを現地で観戦して帰国後「サンデーサイレンスを、早来に持ってくるぞ」と宣言した。ハンコックによると、購入交渉における吉田善哉の「サンデーサイレンスに対する執着心は度外れたものだった」。吉田善哉はサンデーサイレンス産駒のデビューを見ることなく1993年8月にこの世を去っている。吉田善哉は生前、吉川良に次のように語っていた。吉田善哉に購入されたサンデーサイレンスは日本へ輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。種牡馬入りに際し、総額25億円(4150万円×60株)のシンジケートが組まれた。シンジケートは満口となったものの、当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかったうえに種付料が1100万円と高額であったため、期待されていたほどの交配申し込みはなく、もっとも多く交配したのは吉田善哉が経営する社台ファーム千歳(現在の社台ファーム)に繋養されていた繁殖牝馬であった(吉田善哉の息子で社台ファーム代表の吉田照哉曰く、「最高の繁殖牝馬をすべて交配させた」)が、その結果誕生した馬に対する同牧場の関係者の評価は高くなかった。しかし1994年6月にデビューした初年度産駒は社台ファームの関係者にとっても予想を上回る活躍をし、約半年の間に30勝(重賞4勝)を挙げた。サンデーサイレンスはその後も活躍馬を次々と輩出し、初年度産駒がデビューした翌年の1995年にリーディングサイアーを獲得。2世代の産駒だけでリーディングサイアーを獲得というのは中央競馬史上初の記録である。以後2007年まで13年連続でリーディングサイアーに君臨した。同じく1995年に種牡馬としての中央競馬獲得賞金記録を更新。その後もサンデーサイレンスは中央競馬における種牡馬に関する記録を次々と更新(詳細については#記録を参照)、産出された12世代すべてからGI級競走優勝馬が登場し、産駒は日本の中央競馬の24あるGI級競走のうち、20で勝利を収めた。産駒のうちディープインパクトとスティルインラブが中央競馬における三冠を達成しているが、三冠馬を二頭、それも牡牝双方で輩出した種牡馬はサンデーサイレンスただ一頭である。種付け料は、初年度1100万円でスタートし、3年後800万円まで下がったものの、初年度産駒の活躍以降は高騰を続け、2500万円(不受胎8割返金条件付き)にまで上がった。そして、生産者の要望に応える形で種付け頭数も年を追うごとに増加し、2001年は年間200頭を超える繁殖牝馬と交配された。それまで日本の競走馬生産者の間には年間100頭を超えて種付けをさせることは種牡馬を酷使しているという認識があったが、サンデーサイレンスの種付け頭数が100頭、200頭を超えるのに伴いほかの種牡馬も200頭を超える種付けを行うことがめずらしくなくなった。ブリーダーズ・スタリオン・ステーションの秋山達也によると、このような種付け頭数の増加は有力種牡馬に交配の申し込みが殺到する現象を生み、成績が優れない種牡馬が以前よりも早く見切られるようになった。種牡馬時代の厩務員を務めた佐古田直樹によるとサンデーサイレンスは性欲が強く、最大で年間224頭(2001年)の繁殖牝馬と交配したにもかかわらず種付けを嫌がる様子を見せなかった。佐古田はサンデーサイレンスを「まるで種付けマシーンのよう」と形容している。1998年に始まったセレクトセールでは毎回産駒が高額で落札された。晩年には種付け料と産駒の購買価格、獲得賞金、種牡馬シンジケートの額を合計するとサンデーサイレンスが1年間に動かす金額は100億円を超え、年間150頭の繁殖牝馬に5年間種付けを行った場合、産駒の獲得賞金と種付け料を合計して1500億円の経済効果があるといわれた。産駒は日本国外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は日本国外でG1を3勝(ステイゴールド、ハットトリック、ハーツクライが各1勝)した。さらにオーストラリア生まれ(交配は秋〈南半球は春で繁殖シーズンにあたる〉に日本で行われた)のサンデージョイ (Sunday Joy) がG1のオーストラリアンオークスを優勝するなど、日本国外生産馬および日本国外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。日本国外で活躍する産駒が出現した影響から日本国外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。2001年に行われた第4回セールではロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンとクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた(ゴドルフィンが1億9000万円で落札)。2002年5月5日、サンデーサイレンスは右前脚に跛行を発症し、この年の春の種付けを中止して休養に入った。一度は快方に向かったものの同月10日に跛行が再発。検査の結果、右前脚にフレグモーネを発症していることが判明した。フレグモーネを引き起こした細菌は血管が少なく抗生物質の効果が現れにくい深屈腱(上腕骨と中節骨をつなぐ腱の外側)に入り込んでいた。さらに通常フレグモーネは外傷から菌が侵入して発症するがサンデーサイレンスの脚に外傷が見当たらず、発症の詳しい経緯が不明であったことから治療に有効な抗生物質が見つけられなかった。これらの理由から治療は困難を極めた。サンデーサイレンスを繋養する社台スタリオンステーションはイギリスからフレグモーネの専門医を招いて治療を行った。3回にわたって患部を切開して洗浄する措置が施された結果、右前脚の病状は改善したものの、8月に入りそれまでに右前脚をかばった負担が原因となって左前脚に蹄葉炎を発症。懸命な治療の甲斐なく8月19日に衰弱性心不全のため死亡した。サンデーサイレンスは火葬され、社台スタリオンステーションの敷地内に埋葬された。墓の横には吉田善哉の遺品が埋められている。産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。最後に生まれた産駒はハギノプリンセス(母サベージレディ)である。また、中央競馬で最後の登録馬は、2012年に引退したアクシオンであった。サンデーサイレンスは気性が非常に荒く、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。ウィッティンガムは厩舎一の腕を持つジャネット・ジョンソンをサンデーサイレンス担当の調教助手に指名したが、ジョンソンは気性の荒さに嫌気が差し、一度騎乗しただけで降板している。騎手のビル・シューメーカーも調教のために騎乗したことがあるが気性の荒さに激怒し、レースでの騎乗を拒否した。ウィッティンガムによると、ヘイローの産駒は総じて気性が荒いという。気性を巡っては、種牡馬時代に次のような逸話がある。普段は気性の荒いサンデーサイレンスであったがメジロマックイーンがそばにいると大人しくなることが多く、サンデーサイレンスとメジロマックイーンの放牧地は隣同士に設えられていた。サンデーサイレンスは前述のように1986年11月に悪性のウイルスに感染して激しい下痢を起こし、生死の境をさまよったことがある。この闘病についてハンコックは「普通の馬だったらダメだっただろう」、「よほどの精神力がなければ、とてもじゃないがあんな経験は乗り越えられない」と述べている。テッド・キーファーは「サンデーサイレンスの馬体の欠点は目をつぶってすむような軽いものじゃなかった」「同じような馬格の馬が1000頭いたとしたら、そのうち999頭はチャンピオンやリーディングサイアーになるどころか、競走馬としてまず使い物にならないだろう」とし、ティザムに購入を勧めなかったことを正当化するとともに「個人的には、サンデーサイレンスは一種の突然変異だったと思っている」と述べている。ブリーダーズカップ・クラシックで騎乗したクリス・マッキャロンはサンデーサイレンスの走りを「ストライドに全感覚を集中させるか、それとも脚元を見下ろすかしない限り、いつ手前を変えたのか全くわからない。そのくらい脚運びが滑らか」と評し、かつて騎乗したジョンヘンリーの感覚を思い出させたと述べている。ウィッティンガム厩舎の調教助手の一人は、どんなに狭いコースでも器用に手前を変えることができ、コーナーを回りながら加速することができる点をサンデーサイレンスの特徴として挙げている。サンデーサイレンスは1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。1999年に競馬専門誌のブラッド・ホース誌が発表した20世紀のアメリカ名馬100選では第31位となった。サンデーサイレンスという競走馬名は、メリーランド州に住むストローという名の夫婦が考案した。意味は「静寂なる日曜日(のミサ)」。夫妻は「自分たちが所有する競走馬がケンタッキーダービーに出走を果たすとしたら、どんな名前がいいだろう」という空想をもとに作成した競走馬名リストをストーンファームに送り、その中からハンコックが「サンデーサイレンス」を採用した。前述のようにサンデーサイレンスは初年度産駒がデビューした翌年の1995年から2007年にかけて13年連続でリーディングサイアーとなった。サンデーサイレンスは中央競馬における種牡馬に関する記録の多くを更新した。リーディングサイアー、連続リーディングサイアー、通算勝利数、通算重賞勝利数、通算GI級競走勝利数、年間勝利数、年間重賞勝利数、年間GI級競走勝利数、年間獲得賞金額、通算クラシック勝利数はいずれも最多記録を保持している。また、中央競馬・地方競馬をあわせた通算勝利数は3719勝でアジュディケーティングの3766勝(2015年10月時点)に次ぐ世界2位である。サンデーサイレンスをブルードメアサイアーに持つ競走馬は1997年に初めて誕生した。当初はサンデーサイレンスの激しい気性が悪い形で遺伝するのではないかと懸念されていたが、2世代目から重賞優勝馬が、6世代目からGI級競走優勝馬が現れるなど徐々に成績を伸ばし、2007年に初めてリーディングブルードメアサイアーの座を獲得した(中央競馬のみの集計では2006年に初めて獲得)。競走馬エージェントの柴田英次は、サンデーサイレンスは種牡馬としての特徴である柔らかくしなやかな筋肉と激しい気性から生まれる「狂気をはらむほど激しい闘争心」をブルードメアサイアーとしても遺伝させるとしている。サンデーサイレンス直仔の種牡馬がデビューすると、日本のリーディングサイアー上位は彼らによって占められるようになった。サンデーサイレンス直仔の種牡馬の産駒は中央競馬において、サンデーサイレンス産駒が優勝できなかったNHKマイルカップ、ジャパンカップダート、中山大障害を含む数々のGI級競走を優勝している。さらに日本国外でもシーザリオ(父スペシャルウィーク)がアメリカンオークスインビテーショナルステークスを、デルタブルース(父ダンスインザダーク)がメルボルンカップを勝ち、フジキセキ、タヤスツヨシ、バブルガムフェローといったシャトル種牡馬の産駒が南半球やドバイのG1優勝馬を輩出。日本国外へ輸出された種牡馬を見ると、フランスに輸出されたディヴァインライトの産駒ナタゴラがチェヴァリーパークステークスを制してカルティエ賞最優秀2歳牝馬を受賞しイギリスのクラシックレースである1000ギニーを制したほか、アメリカで種牡馬入りしたハットトリック産駒のダビルシム (Dabirsim)がモルニ賞とジャン・リュック・ラガルデール賞を制してカルティエ賞最優秀2歳牡馬に選出されている。サンデーサイレンス自身ばかりでなくその直系の牡馬までもが種牡馬として活躍し数多くの種付けをこなすようになると、サンデーサイレンスの血を引く馬が過剰に生産され、それらの馬が種牡馬や繁殖牝馬となることで近親交配のリスクが高まり、やがては日本の競走馬生産が行き詰まりを見せるようになるのではないかという懸念が生じるようになった(血の飽和、偏りの問題)。2011年の日本ダービーでは出走18頭すべてが「サンデーサイレンスの血を引いた馬」という事態も起こっている。これに対し吉田照哉は、サラブレッドの生産においては一つの系統が栄えれば次に別の系統が栄えるということが繰り返されて来たのであり、サンデーサイレンスの場合もほかの系統が自然と栄えるようになる、加えてサンデーサイレンス系の馬を日本国外へ輸出するという対策方法もあると反論している。サンデーサイレンスの産駒は気性が激しい馬が多いことで知られた。競走馬エージェントの柴田英次は、産駒は激しい気性から生まれる「狂気をはらむほど激しい闘争心」ゆえに痛みに対して従順でなく、「肉体の限界を超えるほどのチカラを発揮できた」と分析し、「種牡馬として成功した要因として、激しい気性があったのは間違いない」と述べている。サンデーサイレンス産駒に騎乗し多くの勝利を挙げた武豊は、騎乗したときに産駒が気性の悪さを見せるとかえって頼もしさを感じたという。武によると、レースでは序盤はのらりくらりと走り、後半になってから本気を出すタイプの馬が多かった。オリビエ・ペリエは、日本で騎乗した産駒には「神経質でピリピリしてるようなタイプが多かった」と指摘した上で、そのことが実戦ではプラスに作用し、反応の鋭さに繋がっていたと推測している。岡部幸雄は、サンデーサイレンス産駒の良さは気性の荒さにあるが、気性の荒さを表に出し過ぎるタイプの競走馬は距離適性が短く、「うまく内面に押し込めんでレースに爆発させることができる」タイプの競走馬は距離の融通がきくと述べている。社台ファーム繁殖主任の水越治三郎は、やんちゃな気性の割に物覚えがよいと述べている。獣医師の松永和則は、サンデーサイレンス産駒の気性はただ単に激しいのではなく、強い精神力を伴ったものであると述べている。産駒の特徴について水越治三郎は、外見は見栄えがしないがそれとは正反対に肉体面がしっかりとしていると述べている。エアメサイアを管理した伊藤雄二は「とても体質、骨質が優れている」、「前脚は膝から下、後脚は飛節から爪の先までしっかりと力が入っている産駒が多い」、「全身均等に筋肉がついて」いる点を特徴として挙げている。筋肉や繋ぎの柔らかさも特徴の一つである。サイレンススズカ、アドマイヤベガ、アドマイヤグルーヴなどのサンデーサイレンス産駒を管理した橋田満によると筋肉が柔らかいと走行時のストライドが大きくなり、優れた瞬発力を発揮するという。競走馬仲介業者の富岡眞治はサンデーサイレンスは飛節の角度がやや深い点が難点であったが筋肉と繋ぎが柔らかい点に特徴があり、産駒についても飛節の難点を筋肉と繋ぎの柔らかさがカバーしていたと分析している。そして、産駒は柔らかい筋肉を活かした素早い収縮運動により日本の固い馬場でのスピード勝負に対応したと分析している。こうした柔らかさについて岡田繁幸は当初「馬体が柔らかすぎて、まるで力強さが感じられない。決して誉められた馬ではない」という印象を抱いていたが、産駒が活躍したことにより「相馬眼を180度覆された」と述べている。サンデーサイレンス産駒は仕上がりが早い(調教の効果が表れやすい)傾向にあり、2歳のうちから能力を十分に発揮した。松永和則によると、産駒は少し運動をさせただけで澄んだ心音が聞こえるようになるなどはっきりとした身体的変化を見せたという。中央競馬では初年度産駒がデビューした1994年から最終世代がデビューした2005年までの間、1996年をのぞく11回2歳リーディングサイアーを獲得した。富岡眞治によると、成功を収めたサンデーサイレンス産駒には細身の馬が多く、通常そのような馬が晩成型であることが多いが、サンデーサイレンス産駒の場合は馬体が未完成な時期にもクラシックを戦い抜く基本性能を備えていた。伊藤雄二はサンデーサイレンスの特徴として、遺伝力の強さを挙げている。武豊も、競走馬としてのサンデーサイレンスには走行中進路が左右にぶれる癖があったことを指摘した上で、産駒にも同様の傾向を示す馬が多かったのは遺伝能力の強さの表れだと述べている。吉沢譲治は自身の長所を伝える遺伝力の強さに加え、配合相手の長所を引き出す和合性を挙げている。吉田照哉は「ほとんどどんな牝馬でも結果を残す」、「長距離血統でも短距離血統でも、とにかく繁殖牝馬を選ばない万能の種牡馬」と評価している。田端到によるとサンデーサイレンスの産駒はブルードメアサイアーに応じて一定の傾向を持ち、たとえばダンジグをブルードメアサイアーとする産駒は短い距離を得意とし、ヌレイエフをブルードメアサイアーとする産駒はダートを得意とする傾向がある。ブルードメアサイアーとの相性という点では、ノーザンテーストとの組み合わせで4頭が、ニジンスキー、ヌレイエフ、トニービンとの組み合わせでそれぞれ3頭がGI級競走を勝っている。吉田照哉の見解では、サンデーサイレンスが種牡馬として成功した要因にあげられるのは、イギリスの競馬場のように「もともとの自然を活かした」ものではなく、日本のような「作られた」競馬場に対する適性が高かったことである。吉田は、サンデーサイレンスのこのような適性は、産駒が日本国外において、日本と同様「作られた馬場」をもつ香港やドバイの競馬場で優れた成績を残したことからもわかると述べている。サンデーサイレンスが優れた種牡馬成績を残したのは、中央競馬のレース体系が変化したことによる時代の勢いに乗ったからだという見方もある。作家の藤野広一郎は「サンデーサイレンスの種牡馬としての素質には端倪すべからざるものがある」としつつ、中央競馬のレース編成に占める長距離戦の比重が軽くなったことで日本のサラブレッド生産が「圧倒的なマイラー志向に傾き、早熟で、手がかからなくて、仕上がりの早い、しかもスピード適性をもった産駒を送り出せる早熟型の種牡馬しか成功できなくなってきた中で時代傾向にのっかった」「早熟タイプの完成度の高い器用な軽量級種牡馬で、別にのけぞって驚嘆するほどの種牡馬でもなく、トップクラスの国際級種牡馬と表現するのをためらわせる」としている。安福良直は、サンデーサイレンスの初年度産駒がデビューした1994年と2005年を比較すると、中央競馬においてサンデーサイレンス産駒がもっとも得意とする芝1800メートル-2000メートルのレースの施行数が2歳馬の新馬戦、未勝利戦において2.5倍に増えていることを挙げ、「時代が、サンデーサイレンス産駒が勝つほうへ勝つほうへと変化」したと分析している。アーニングインデックスをコンパラブルインデックスで割った数値(産駒の収得賞金に加え繁殖牝馬の質の高さを考慮するため、種牡馬の本当の実力が分かるとされる)は、2005年末の試算で同時期に活躍した有力種牡馬であるノーザンテーストやブライアンズタイム、トニービンなどを上回っている(2.02。ノーザンテーストは1.83、ブライアンズタイムは1.58、トニービンは1.32)。勝ち鞍はGI級競走のみ表記。なお、前述のように日本の中央競馬においては産出した12世代すべてでGI級競走優勝馬を輩出、24あるGI級競走のうち20で勝利を収めた。勝ち鞍はG1を含む主要競走。セレクトセールにおいて、2億円を超える落札額の産駒は以下の6頭いたが、獲得賞金が落札額を上回ったのはアドマイヤグルーヴのみであった。勝ち鞍はGI級競走のみ表記。母のウィッシングウェルは12勝(うち重賞2勝)を挙げたが、その母系を遡るとマウンテンフラワー、エーデルワイス、ダウィジャー、マルセリーナはいずれも競走馬として優勝したことがない。前述のように母系が地味であることが種牡馬としてのサンデーサイレンスの評価を下げる一因となった。サンデーサイレンスは非常に気性が荒かったが、父のヘイローも突然人を襲うなど気性の荒い馬として知られている。母のウィッシングウェルも競走馬時代の管理調教師が「気が違っているんじゃないか」と思うほど気性が悪い馬であった。サンデーサイレンスの全妹サンデーズシス、ペニーアップ、マイライフスタイルの3頭が日本に輸入され繁殖牝馬となっている。ペニーアップの孫トーセンクラウンが中山記念で優勝している。
出典:wikipedia
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