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ボブ・ディラン

ボブ・ディラン(、1941年5月24日 - )は、アメリカのミュージシャン。出生名はロバート・アレン・ツィンマーマン(Robert Allen Zimmerman)だが、後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している。「風に吹かれて」「時代は変る」「ミスター・タンブリン・マン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「見張塔からずっと」「天国への扉」他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍している。グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしている。また長年の活動により、2012年に大統領自由勲章を受章している。そのほか、2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」としてピューリッツァー賞特別賞を、2016年に歌手としては初めてのノーベル文学賞を受賞した。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第18位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第7位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第2位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第1位を獲得している。しばしば「世代の代弁者」と崇められ、メッセージソングやプロテストソングの旗手と評される(たとえば、ライオネル・リッチーは「時事的な歌に運命を開いた人」とボブを紹介している)。しかしながら、このようなことを本人は迷惑に感じており、同世代については「ほとんど共通するものも無いし、知らない」と述べ、自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われることに辟易していると明かす。自身の関心事は「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と述べている。英セント・アンドルーズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべし」と後進のアーティストに提言している。2012年10月発売の米誌ローリング・ストーン(フランス語版)のインタビューで米国の人種間関係について問われた際に、「奴隷主や(クー・クラックス・)クランの血が混じっている人がいれば黒人はそれを感じ取る。そういうことは今日にも残っている。ユダヤ人ならナチスの血を感じ取り、セルビア人ならクロアチア人の血を感じるように」などと応じ、クロアチア人に対する憎悪を煽情する発言として在仏クロアチア人協議会から告訴された。2013年11月中旬、これを受けたフランス司法当局により侮辱行為と憎悪扇動の罪で刑事訴追されたが、2014年4月15日にパリの裁判所により訴えは棄却された。1941年5月24日、ミネソタ州ダルースに生まれる。ヘブライ語の名は・ツィメルマン。ジスルはの愛称。祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった。1946年、弟デイヴィッド誕生。1947年頃、一家はヒビングに転居する。幼少時より家にあったピアノを独習。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育つ。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始める。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている。1959年夏、ノースダコタ州ファーゴでエルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験する。1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる。持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換。ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時にボブ・ディランと名乗っていた。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける。1961年冬、大学を中退してニューヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていたが、やがてハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや、タイムズ紙で好意的に論評されたことをきっかけに、コロムビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され、1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかしその年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスであった。当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達、絵画、ミュージカル、レコード、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの新しい歌を書くようになる。「オンリー・ア・ホーボー〜トーキン・デビル」、「ジョン・ブラウン」、「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グラント(Blind Boy Grunt)なる変名でクレジットされている。アルバート・グロスマンがマネージメントに乗り出すと、幅広い活動が可能になり、ディランの楽曲を他のアーティストに提供することが考え出される。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立。2枚目のアルバムのレコーディング途中で、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代する。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収された。1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート ()」に出演し、ロンドンのクラブで演奏。4月12日、タウンホールでソロ・コンサート。5月12日、初の全米中継であるテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演が決まるが、リハーサル後、極右政治団体のジョン・バーチ・ソサエティを揶揄した曲「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」を省くよう指示されると、検閲的行為に怒ってスタジオを出てしまった。同月、モンタレー・フォーク・フェスティバルに出演。タイム誌は「新たなるヒーロー」と紹介した。共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなる。1963年5月、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』リリース。6月、ミシシッピー州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」がビルボード2位のヒットを記録する。同月、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。8月28日、ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてディランは次第に「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていった。10月26日、カーネギー・ホールでソロ・コンサート。1964年1月、アルバム『時代は変る』リリース。しかし、過激化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(1964年)では、プロテストソングと呼べる曲はなくなっている。10月31日、フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート」(『アット・フィルハーモニック・ホール(ブートレッグ・シリーズ第6集)』(2004年)収録)。またこのころから、ディランの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」はビルボードで1位を獲得している。「悲しきベイブ (") 」、「はげしい雨が降る」、「くよくよするなよ」、「イフ・ノット・フォー・ユー (") 」、「はじまりの日 (") 」などもよくカバーされている。1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響からか、コンサートやレコーディングでも常に少し酔っ払ったような状態になっていた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期で、中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにした曲を多く残したのは、ディランと関わったのがきっかけとされている。なかでも1965年頃のジョン・レノンが熱病のごとく傾倒し、作風から精神面、スタイルに至るまでディランに触発された(例:、)。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。一方、ディラン自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』、『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表した。従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ、賛否両論を巻き起こした。なかでも1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはバック・バンドをしたがえて数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けた。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー ("It's All Over Now, Baby Blue") 」を涙ながらに歌いあげた、という逸話が有名である(しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説である。ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったことに対するものであり、実際には歓声もあがっていたという。また、バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコースティック・ギターで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する)。このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。中でもアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、キャッシュボックス誌ではじめて(そして唯一の)シングルチャートNo.1となった(ビルボードでは2位。1位はビートルズの「ヘルプ!」)。その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 (Single Edit.) 」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位、。"「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録した。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、さらに多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえる。1965年から1966年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスをしたがえてワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるディランの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)、映画『イート・ザ・ドキュメント(Eat the Document)』などに収録されている。『ロイヤル・アルバート・ホール』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、更には逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められている。その中でディランは「I don't believe you... You're a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめた。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ディランはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにした。またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にディランは声が大きく変化した。この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 ("From a Buick 6") 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』(1985年)に収録された公式バージョンはザ・ホークスとの再録音)などがある。こうして最初の絶頂期を迎えていた1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊でオートバイ事故を起こす。重傷が報じられ、すべてのスケジュールをキャンセルして隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した。しかし当時、ドラッグとコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」ディランにとってはかえってよい休養となった。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたディランの大きな転機である。翌1967年からは、ウッドストックにこもってザ・ホークスのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布され、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン (") 」がキャッシュ・ボックスで10位、全英シングル・チャートで1位を獲得するなど、様々なミュージシャンにカバーされて紹介された。ザ・ホークスは、ザ・バンドと名を改め、このセッションから生まれた「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ジス・ホイールズ・オン・ファイアー (") 」等の楽曲を収録し、ディランが描いた絵をジャケットにしたアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968年)で単独デビューする。やがてディランとザ・バンドによる膨大な未発表のデモテープがディラン宅の地下室に眠っているという噂が口コミで広がったが、その後大きな問題が生じた。副産物として『グレート・ホワイト・ワンダー (") 』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。なお、このデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』の題で公式発表された。1967年にはベネルックス三国にて、地元のバンドによるコーラスをオーバーダビングした「出ていくのなら ("If You Gotta Go, Go Now") 」がシングルリリースされた。1991年リリースの『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集』に収録されたバージョンとは全く違う、ハーモニカなしのバージョンであった。1968年にディランは前作に引き続き、ナッシュビル録音による『ジョン・ウェズリー・ハーディング』で復帰するが、弾き語り中心で徐々にダウン・トゥ・アースのような傾向が見られはじめる。「見張塔からずっと」は、ジミ・ヘンドリックスがカバーしてヒットする。1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ (") 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ディランにとって、最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル・スカイライン』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてディランは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ザ・ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっている。1970年6月、『セルフ・ポートレイト』を発表。カントリー、MOR、インストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあったがセールスは好調であった。その直後、レコーディング拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、10月『新しい夜明け』を発表する。その後、ディランはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスン、レオン・ラッセル、ハッピー・トラウム、アール・スクラッグス、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン、ダグ・サム等とセッションしたこと以外は沈黙を守る。1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』にはディラン自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く ("Tomorrow Is A Long Time") 」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大であった。1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉」はディランの曲の中でもカバーするアーティストが多い一曲となった。この頃CBSソニーから日本独自企画盤として『Mr. D's Collections #1』が特典として配布された。ソニーは以降も#2、#3、『傑作』(1978年)、『武道館』(1978年)、『Dylan Alive!』、『Bob Dylan Live 1961-2000』(2001年)、『ディランがROCK!』(2010年 / 当初は1993年に制作されたが、この時はディランの許可が下りず未発売だった)といった企画盤を企画している。なお、『The Never Ending Tour』という企画盤については、ディランの許可が下りていない。またこの年、ディランはアサイラム・レコードへの移籍を決断。CBSコロムビアは報復手段として所有する膨大な過去の音源をリリースすることにし、まずは『セルフ・ポートレイト』のアウトテイク集である『ディラン』を発売する。ディランはアサイラムで2枚のアルバムを発表した後、コロムビアへ戻るが、その要因には過去の音源の権利関係があったためともいわれる。『ディラン』は一度CD化されたが、廃盤(アメリカのiTunes Music Storeではダウンロード可能)。アサイラムの二枚のアルバム『プラネット・ウェイヴス』(1974年)、『偉大なる復活』(1974年)も1977年にコロムビアから再発売となった。1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従えてレコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初のビルボードNo.1アルバムとなる。引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼等との共演は1968年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島音楽祭、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目である(最後は1976年の『ラスト・ワルツ』だった)。しかし、今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながら、ディラン自身は退屈さをも漏らしていたようである。このツアーの模様はライブ盤『偉大なる復活』に収録された。翌1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロムビア復帰作『血の轍』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これもNo.1を獲得。ディランは当時、マリー・トラヴァース(ピーター・ポール&マリー)のラジオ番組で「なぜ、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べている。この作品は、当初ニューヨークで録音されてプレス盤も出回ったが、ディラン本人がリリース直前にストップをかけ、ミネアポリスで半数を取り直した。録音にはミック・ジャガーが立ち会った。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。ニューヨーク音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック (") 」だけが日の目を見ていない。また1975年10月 - 12月と1976年4月 - 5月の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったツアーを行なった。これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行なうというもので、かつてのフーテナニーのリバイバルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示した。このツアーでは、ディラン自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われた。このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー(ブートレッグ・シリーズ第5集)』(2002年)、『激しい雨』(1976年)、映画『レナルド&クララ』、テレビ番組『Hard Rain』などに収録されている。このツアーメンバーを主として、ツアー開始直前に録音されたアルバム『欲望』が1976年初頭に発表され、No.1を獲得するとともに自身最大のセールスを記録した。1978年には映画『レナルド&クララ ("")』が公開されるが、内容が難解すぎると不評を買い、興行的には失敗。はじめは4時間弱だったが、後に2時間の短縮版が編集され再度公開。だが結局評価は変わらずじまいであった。封切りに先立ち『4 Songs From "Renald & Clara"』というプロモEPが業界内に配布された。サウンドトラック盤からの抜粋であるが、オリジナル盤は公式発表されていない。この年は12年ぶりにワールド・ツアーを開始し、2月から3月にかけては初の来日公演を行ない、東京公演の模様が『武道館』に収録、リリースされた。1971年のレオン・ラッセル・セッション以来の女性コーラス、ホーンセクションを含むビッグバンド編成である(ディランは1987年のツアーまで女性コーラスを導入していた)。また、ツアー中には、ツアーメンバーとともに『ストリート・リーガル』を制作。日本滞在時に作曲したという「イズ・ユア・ラヴ・イン・ヴェイン ("Is Your Love in Vain?") 」も収録されており、イギリスなどでマイナー・ヒットとなった。なお、来日記念盤として日本限定で発売された『傑作』には、アルバム未収録の「親指トムのブルースのように ("Just Like Tom Thumb's Blues

出典:wikipedia

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