LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

辻恭彦

辻 恭彦(つじ やすひこ、1942年6月18日 - )は、愛知県名古屋市西区出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。阪神在籍時、同姓の辻佳紀捕手(ヒゲ辻)と区別するため、土井垣武がダンプの愛称をつけた。「ダンプ」という愛称は、運送会社出身であった事と、怪我が少なく丈夫で長持ちというところに由来している。プロでの実働期間は22年もの長期に亘り、42歳まで現役に在った。享栄商業では1960年に同期のエース・吉山智久(中日)とバッテリーを組み、三番打者として夏の甲子園県予選決勝に進む。決勝では豊橋工の牧勝彦を打ち崩し、甲子園出場を決めた。しかし甲子園では1回戦で広野功・多田勉らのいた徳島商に2-4で敗れる。高校卒業後は西濃運輸に入社。1962年の第33回都市対抗野球大会にチーム初出場を果たした後、シーズン途中で阪神タイガースへ入団。なかなか一軍に定着できなかったが、1968年には辻佳紀の不調、和田徹の外野手転向もあって71試合に先発マスクを被る。しかし、翌1969年に田淵幸一が入団、控え捕手に回るが、キャッチング技術を江夏豊に信頼されていたため、江夏とはバッテリーを組む事が多かった。1971年には田淵の故障により全試合に出場したが、これはセ・リーグ捕手では初の記録になった。その後、1974年オフに辻佳紀(前述)との交換トレードで大洋ホエールズへ移籍。辻佳紀とのトレードは、捕手同士の交換トレードという事だけではなく、同姓選手同士や元チームメイト同士のそれという点でも当時話題となった(このようなトレードが話題になった前例には、1966年オフに広島カープと阪急ブレーブスとの間で成立した、大石清投手と大石弥太郎投手との交換トレードがある)。ホエールズでは、福嶋久晃や伊藤勲らの控えとして活躍した。しかし1983年のシーズン途中で若菜嘉晴が加入したため出場試合数が激減、1984年オフに42歳で引退した。頑丈な身体で怪我も少なく、捕手で実働22年は、中嶋聡の29年、谷繁元信の27年、野村克也の26年、八重樫幸雄の23年に次ぐ記録である。引退後は大洋・横浜(1985年・1997年 - 1998年二軍バッテリーコーチ, 1986年 - 1987年二軍捕手コーチ, 1993年 - 1995年二軍育成チーフコーチ, 1996年二軍育成兼バッテリーコーチ)、阪神(1988年・1990年一軍バッテリーコーチ, 1989年・1991年 - 1992年二軍バッテリーコーチ)、WIEN BASEBALL CLUB(1999年コーチ)、横浜球友クラブ(2000年 - 2001年コーチ, 2002年 - 2003年助監督)、国際総合伊勢原クラブ(2005年 - 2014年監督)、四国アイランドリーグ(2005年巡回コーチ)、明治学院大学(2015年総合コーチ)で監督・コーチを歴任。プロ野球マスターズリーグでは札幌アンビシャスに所属していた。1967年のシーズン終了後、辻は江夏から「もっと三振が取りたい」という相談を受ける。そのシーズン、江夏は新人ながら225奪三振を記録していたため辻は驚くとともに悩んだ末、「新たな変化球を覚えると武器のスピードを殺すので、ボール1個の単位で上下左右に投げ分けるコントロールを付けさせる」という結論に達し、江夏にそのトレーニングを命じた。迎えた1968年のシーズン、江夏はメジャーリーグ記録を上回る401奪三振を記録する。当時、球界には「ON(が見送ったきわどいコースの投球は)ボール」という俗説があった。辻は長嶋茂雄の打席では、江夏に内角カーブ(ストライク)、外角低め直球(ボール3個分はずしたボール)、内角カーブ(ストライク)、外角低め直球(ボール2個分はずしたボール)と投げさせた後、外角低めぎりぎりにボール1個分はずした直球を配球し、それを辻が思い切り腕を伸ばして捕球すると審判は三振をコールしたという(玉木正之『プロ野球大辞典』(新潮文庫、1990年)P367 - 368)。1968年9月17日江夏が当時の日本記録である354個目の奪三振を記録した試合、1973年8月30日江夏が史上初(現在でも唯一)の「延長戦ノーヒットノーラン」を記録したときのキャッチャーはいずれも辻である。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。