八重山列島(やえやまれっとう)または八重山諸島(やえやましょとう)は、南西諸島西部の島嶼群で、先島諸島の一部を成す。「八重山」は八重山方言では「ヤイマ」(国際音声記号では『jaima』)、沖縄方言では「エーマ」、与那国島では「ダーマ」と発音される。1719年に琉球を訪れた中国人・徐葆光の著書『中山伝言録』によれば八重山は石垣島を指すが、後の文献では離島も含めなぜ「八重山」と表記されるかは諸説あり、未だに決め手がない。中心となる石垣島をはじめ、竹富島、小浜島、黒島、新城島(上地島、下地島)、西表島、由布島、鳩間島、有人島では日本最南端の波照間島などの石西礁湖周辺の島々と、これらから西に離れた日本最西端の与那国島の合計10の有人島、及び、周辺の尖閣諸島など多くの無人島からなる島嶼群である。面積では沖縄県全体の約4分の1に相当する。西表島が沖縄本島に次いで2番目に大きく、石垣島は3番目に大きい。1641年に薩摩藩によって大和在番が設置された。行政区分では、沖縄県石垣市、八重山郡竹富町及び与那国町の1市2町からなり、有人島では、石垣島が石垣市、与那国島が与那国町にそれぞれ属し、他の8島はすべて竹富町に属する。東に宮古列島、北に尖閣諸島がある。1962年に風土病であったマラリアが撲滅された。国指定の天然記念物が多数ある一方、かつては人頭税で島民が苦しんだり、大津波で多くの人命が失われるなど、過酷な歴史がある。「八重山」の名称の由来には諸説がある。1719年に刊行された『中山伝信録』には、「八重山、一名北木山、土名彜師加紀、又名爺馬」との記載がある。このうち、「彜師加紀」は「いしかき」、「爺馬」は「やま」と読むとされる。この記載では、現在の石垣島と八重山列島とが必ずしも区別されていないが、「八重山」は「爺馬」=「やま」への当て字であると考えられている。面積が0.01km²(100m四方)以上の島を列挙した。面積が100km²以上の島は石垣島と西表島の2島で、標高500m程度の山塊を含み、河川もよく発達している。それ以外の島は隆起珊瑚礁の島で、標高も100mに達しない。低地の隆起珊瑚礁には、熱帯要素の強い植物群落が成立する。内湾や河口域にはマングローブ林が発達するが、その種数は日本の他地域より多く、たとえばマヤプシキは日本ではこの地域でしか見られないし、より熱帯域では普通種であるニッパヤシやゴバンノアシもわずかに観察される。より内陸の低地でもウラジロアカメガシワやオオイワガネなど、いずれも熱帯域に広く分布するもので、日本ではこの地域までしか見られないものである。石垣島、西表島には標高の高い山塊があり、水条件もよいため、その多くは照葉樹林に覆われていた。ただし、特に石垣島では開発のためにその面積を大きく減じている。このような森林はオキナワウラジロガシなどを主体としたもので、ヒカゲヘゴなどの木生シダ類を多く含んでいる。また着生植物にとみ、リュウキュウセッコクやの大株にアマモシシラン (Vittaria zosterifolia) がさらに着生して樹状に大きな塊を作り、またツルアダンが多数這い上る姿は、日本の他地域では見られない特徴となっている。この地域は固有種が多く、その多くは石垣島、西表島に分布する。イリオモテヤマネコのように西表島にのみ分布するものもあるが、多くは両島に分布するものである。テレビ・ラジオとも、石垣島の石垣中継局は石垣島、西表島東部、そして両島間にある周辺の島々(竹富島・小浜島・黒島ほか)、さらに石垣島から約60km離れた波照間島をカバーしている(石垣島のテレビの場合、南部は石垣中継局、北部は川平テレビ中継局がカバーしている)。また祖納テレビ中継局は西表島西部と鳩間島、与那国中継局は与那国島をそれぞれカバーしている。(周波数単位は石垣島のNHK1 & 2はkHz、あとは全てMHz)沖縄県に属する諸島
出典:wikipedia
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