LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

第39回衆議院議員総選挙

第39回衆議院議員総選挙(だい39かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1990年(平成2年)2月18日に行われた日本の衆議院議員総選挙である。獲得議席:275議席獲得議席:136議席獲得議席:45議席獲得議席:16議席獲得議席:14議席獲得議席:4議席獲得議席:1議席獲得議席:21議席主要政党のほか、真理党(麻原彰晃、上祐史浩ほか)、地球維新党(太田竜、東郷健ほか)、スポーツ平和党(細木久慶)、緑の党、日本労働党、社会主義労働者党などのミニ政党も候補者を擁立したが、いずれも落選した。※初当選者のうち、参議院議員経験者には「※」の表示がある。第118特別国会1989年4月の消費税導入後最初の総選挙であり、当初自民党は前回の第38回総選挙での300議席の圧勝からの反動も重なって厳しい戦いになると予測されていた。実際、1989年7月の第15回参議院議員通常選挙では当選者数で社会党を下回り、参議院での過半数を大幅に割り込んで大敗北を喫している。しかし、1989年秋に一気に進んだ東ヨーロッパ諸国の民主化によりソビエト連邦を中心とした東側社会主義陣営の崩壊が進んだ事で、自民党はこの選挙の争点を「体制選択」と設定することに成功した。好調な経済(「バブル景気」)を享受する国民の反共・保守的意識に訴えかけ、さらに参院選での惨敗や海部内閣の人気から有権者に「もう十分だ」と思わせることにも成功。議席減を小幅に食い止め、追加公認を含めた議席数は286として、衆議院での単独過半数を維持した。一方、社会党は前年の参議院選挙での圧勝を受け、衆議院での与野党逆転と政権獲得を目指した。しかし、長期低落傾向で党の基礎体力が落ちていたため、新たな候補者選定作業は難航し、特に中選挙区制での過半数議席獲得では絶対に必要な複数候補の立候補方針に対しては現職議員からの抵抗が強かった。また、立候補の勧誘でも、資金難のため落選した場合の生活保障ができず、断られることが多々あったという。土井は選挙協力した社公民と社民連合わせて、定数512に対し社会党で180人、公民社民連の3党で120人、計300人の擁立を見込んでいた。しかし、公民が苦戦を予想して候補者を減らしたことも相まって、公認候補は社会党149人、公民社民連3党で108人、計257人(系列の無所属は29人)と過半数ぎりぎりに留まった。公認だけで338人(保守系無所属は109人)擁立した自民党との体力差は歴然としていた。野党は全体的に、候補を立てる能力が衰退していたといえる。それでも社会党の当選者は1967年の第31回総選挙での140議席以来の議員数となったが、その半分は公明党・民社党などの他野党から奪った議席だった(残りの半分は、自民独占区からの議席奪還が多かった)。特に民社党は議席がほぼ半減の惨敗であった。公明党と民社党は、社会党が社公民路線と呼ばれる野党連立政権の相手と想定していたが、この選挙で社会党が一人勝ちしたことに反発し、社会党との連立政権協議を打ち切った。そして、自公民路線と呼ばれる保守・中道連携路線が定着していった。また、共産党は消費税への反対票が社会党に集中し、自民党による体制選択の争点化でダメージを受けたため、議席数がほぼ半減した。ちなみに、この総選挙での社会党及び民社党からの初当選者には、およそ20年後の民主党政権で入閣した者が多く含まれている。例としては、赤松広隆(農水相)、大畠章宏(経産相・国交相)、仙谷由人(官房長官)、細川律夫(厚労相)、松本龍(環境相)など。なお、この総選挙では宗教団体のオウム真理教(現:アーレフ)が「真理党」を結成し、教祖の麻原彰晃(本名:松本智津夫)や信徒の上祐史浩など25人を立候補させたが、供託金没収の惨敗となった。特に麻原が出馬した東京都第4区では、開票に不正がないか確かめるため、信者3人にわざと本名の松本智津夫で投票させた上で、開票時の立会時に票を確認させた。実際には発見するのは至難の業であるが、麻原は松本票を確認できなかったことを「選挙不正」であると喧伝した(野田成人著『革命か戦争か』)。これを機に教団が武力による権力掌握に方向転換、後の松本サリン事件や地下鉄サリン事件といった一連のオウム事件へとつながったと言われている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。