ボリビア多民族国(ボリビアたみんぞくこく)、通称ボリビアは、南アメリカの共和制国家。国の面積はアメリカ大陸では8番目に、ラテンアメリカでは6番目に、世界的には27番目に大きい国である。日本の約3.3倍の広さである。かつてはより広大な国土面積を有し太平洋沿岸部にも領土があったが、後述のアクレ紛争等の周辺国との戦争に負け続けたために現在では最大時の半分ほどになってしまった。北と東をブラジル、南をアルゼンチン、南東をパラグアイ、南西をチリ、北西をペルーに囲まれた内陸国である。南半球にあり、晴れていれば南十字星が見える。憲法上の首都はスクレだが、議会をはじめとした政府主要機関はラパスにある。世界最高高度にある首都である。かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように豊かな天然資源を持つにも関わらず、実際には貧しい状態が続いており、現在もラテンアメリカ貧国の一つである。公用語による正式名称は、スペイン語で 。公式のケチュア語表記は Bulibiya Suyu, 公式のアイマラ語表記は Buliwya である。通称は 。2009年3月18日に、それまでの(ボリビア共和国)から現国名へ変更した。公式の英語表記は 。通称は となっている。日本語の表記は、ボリビア多民族国。通称は、ボリビア。現地公用語であるスペイン語の発音ではbとvの区別が基本的には存在しないが、英語読みでカタカナ表記を使ってボリヴィアとも表記される。また公式ではないが、漢字表記としては、「暮利比亜」「保里備屋」「玻里非」「波力斐」などが使われる。漢字一文字の略称では「暮国」が使われることが多い。独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。大統領を元首とする共和制国家であり、国家元首である大統領は行政府の長として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や辞任により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、副大統領が閣議を主宰する。建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去100回以上のクーデターが起きている。議会は両院制。上院は全36議席で、各県から4名ずつ比例代表制選挙により選出される。代議院(下院)は、全130議席で、そのうち77議席は小選挙区から選出、53議席は比例代表制で選出されるが、全体の議席配分は比例代表制によって決まる(小選挙区比例代表併用制。ただし が出ないようになっているため、連用制に近い)。両院とも議員の任期は5年で、同日選挙である。前回投票は、2009年12月9日に行われ、政党別の獲得議席数は、以下の通り。ボリビアの歴代大統領の一覧は、ボリビアの大統領を参照。2006年7月2日、制憲議会選挙が行われた。定数は255議席。与党・社会主義運動(MAS)が137議席を確保した。第2党は、野党中道右派・民主社会勢力(PODEMOS)で60議席を占めた。同時に実施された地方自治権の拡充の賛否を問う国民投票では、与党の主張が半数を占める。新憲法草案は、1年以内に3分の2以上の賛成で提案され、国民投票に付される。ボリビアの181周年独立記念日の2006年8月6日に、制憲議会の開会式が行われた。同議会発足を祝って、36の先住民による約3万人のパレードも実施された。就任2年目になるエボ・モラレス大統領は、2007年1月22日、国会で年次報告を行い、新憲法を制定する重要性を改めて強調した。新憲法には、水を含む資源主権や先住民の権利確立、教育行政に対する国の責任などが盛り込まれる予定である。制憲議会は2006年8月、発足したが、議事運営方法、地方自治、首都制定等を巡って与野党や地方間の対立が続いている。与党・社会主義運動党が定数255のうち142議席を占めている。2009年1月25日、先住民の権利拡大や大統領の再選を可能とする新憲法案が60%あまりの賛成を得て、承認された。2009年12月6日、ボリビア大統領選挙が行われ、現職のモラレスが6割を超える得票で勝利した。2014年10月29日、モラレスが大統領選で3度目の当選を果たし、翌2015年1月に第三期モラレス政権が発足した。陸軍、空軍、海軍を保有しており、12ヶ月の徴兵制度が敷かれている。ボリビアは領土に海岸線をもたないが、海軍は大西洋やチチカカ湖で演習を行う他、河川が国境となっている北部・東部のブラジルやパラグアイでの国境付近で国境警備の任務に就いている。海に面していないのに海軍をもっている国には、他にパラグアイやオーストリアなどがある。ボリビアには、9つの県(departomentos)が設けられている。カッコ内は、県庁所在地。主要な都市はスクレ(憲法上の首都)、ラパス(事実上の首都)、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ、エル・アルト、コチャバンバがある。太平洋戦争 (1879年-1884年)による敗戦以来内陸国となったボリビアの地理は大きく3つに分けられる。一つはチチカカ湖から国土を南に貫くアンデス山脈地域で国土面積の約29%に及び、その面積は32万平方キロ余りで、標高3000m以上の年中寒冷な気候を持つ。、ラパス市・オルロ市にかけて標高4000mくらいの広大な平らな土地が広がり、この地域はアルティプラーノと呼ばれる。アンデス地域にはとの二つの山脈がある。さらにコルディリェラ・オクシデンタル(西アンデス山脈)、コルディリェラ・オリエンタル(コルディリェラ・レアル、東アンデス山脈)、アルティプラノと呼ばれる高原よりなる。国土の北東側から東側は国土の約62%を占めるアマゾンの熱帯地域であり、リャノ ("llano")またはオリエンテ ("oriente")と呼ばれる。リャノはさらに、熱帯雨林(いわゆるジャングル)が広がる北側と、乾燥しているグランチャコ地方(パラグアイ国境近く)とに分かれる。サンタクルス県の東部にはチキタノ山塊が存在する。国土の約9%を占めるコチャバンバ県やラパス県ユンガス地方などの、アンデス地帯とアマゾン地帯の中間に位置する場所はバジェ (") 地域と呼ばれ、温暖で果樹栽培などに適した気候である。この地域ではインディヘナ農民によるコカの栽培も盛んである。ユンガスは標高3300mから2500mの高地ユンガス、2500mから1500mの中央ユンガス、1500mから600mの低地ユンガスに分類される。このユンガスにある保養地とラパス市を結ぶ道路は、毎年多くの死者を出し、「死の道路」と呼ばれていた。ボリビアはかつて太平洋に面する海岸線も領土に保有していたが、1884年に太平洋戦争で敗れ、 バルパライソ条約と、1904年の正式な講和によりそれを全て失った。ボリビアでは3月23日を「海の日 (día del mar)」として「海を取り戻そうキャンペーン」をおこなっている。ボリビアの海運での輸出入貨物はチリの港で陸揚げされている。チリの港にはボリビアが管理する保税上屋(TRANSIT SHED)と呼ばれるタックス・ヘイヴンがあり、ここからチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここで初めてボリビアの税関が通関を行う。アンデス共同体、南米諸国連合に加盟し、メルコスールの準加盟国でもある。国家統計局の発表によるボリビアの経済指標は以下の通り。(いずれも2003年の値)植民地時代から19世紀末までは金と銀が、20世紀以降は錫がボリビア経済の主軸であった。が錫開発の主役であった。石油の輸出も盛んであり、1930年代に東部で油田が発見されたことがチャコ戦争の一因ともなった。2001年に世界最大規模の天然ガス田が発見され、ボリビア経済再生の頼み綱となっている。南部のウユニ塩原には推定540万トンのリチウム(世界埋蔵量の半分以上)が埋蔵されていると見積もられているが、ボリビア政府にはそれを抽出する技術も資本も持ち合わせていない、という事情がある。1952年のボリビア革命以来、サンタクルスを中心とした東部の低地地帯で開墾、農業開発が進み、近年大豆、サトウキビ、綿花、コーヒー、バナナなどの大規模な輸出用農業が盛んになっており、北部の熱帯地域ではカカオなどが産出する。一方で、西部のアルティプラーノではインカ帝国以来の零細小農業やコカ栽培などが行われている。1958年、第一次農地改革が行われたが、2006年現在では、分配された土地の95%に当たる約3200万ヘクタールが企業の手に渡っている。2006年5月16日、ガルシア副大統領より「第二次農地改革」計画案が発表された。「生産的でない」土地及び国有地を農民や先住民に分配するというものである。主な観光地としてはティワナクの遺跡や、チチカカ湖、ウユニ塩原、ポトシの鉱山、チェ・ゲバラの戦死したイゲラなどがあり、南米諸国の中でも特に物価が低いため、ヨーロッパや、カナダ、アメリカ合衆国、日本、イスラエルといった先進国に加えて、韓国や南米諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリなどからも多くの観光客がボリビアを訪れている。アンデス山脈の高山が各国から登山家を引き寄せている。国家統計局 (INE : Instituto Nacional de Estadistica) が発表している2001年の国勢調査(Censo Nacional)の結果によると、人口は8,274,325人、うち女性4,150,475 人、男性4,123,850人。都市部の人口は5,165,230人、地方の人口は3,109,095人。人口密度は7.56人/Km。ユニセフの発表によると、5歳以下で死亡する子供の比率は77/1,000。1歳以下で死亡する子供の比率は60/1,000。平均寿命は女性64歳、男性61歳、合計63歳。ケチュア人が約30%、メスティーソ(混血)が約30%、アイマラ人が約25%、ヨーロッパ系が約15%、アフリカ系が約0.5%であると見られるが、正式な統計は取られていない。先住民としては南東部のチャコ地方にはグアラニー族も若干居住しており、数を示すとケチュア人が250万人、アイマラ人が200万人、チキタノ人が18万人、グアラニー人が12万5000人程になる。メスティーソのうち、伝統的な衣装を身に付けている女性はチョリータと呼ばれる。彼女らの格好はボリビアを特徴づける習俗となっている。クリオーリョ(スペイン系)の出身地としては植民地時代からのスペイン人が最も多いが、ドイツ、アメリカ合衆国、イタリア、クロアチア、ロシア、ポーランドなどにルーツを持つ者やバスク民族系なども存在している。全人口の0.5%程であるアフリカ系は、元々ブラジルに奴隷としてやってきた人々が移住してきたのが始まりであり、ラパス県の南北ユンガスに最も多い。日本系は7,000人ほど存在する。ペルーへの日系移民がボリビアへ来たのが始まりといわれている。1900年代に日本人移住者が当時起きていたアマゾンのゴム景気に引き寄せられ、ゴム労働者として北部アマゾン地域のリベラルタやトリニダに移住した。1954年からは主に沖縄県や九州からの移住者がサンタ・クルス県に移住し、オキナワ移住区やサンフアン・デ・ヤパカニ移住区を開拓した。言語はスペイン語、ケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が公用語である。田舎ではケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が用いられているが、スペイン語を全く解さない人は近年少なくなってきている。都市部ではスペイン語以外の言葉を話せない人の方が多い。信仰の自由を認めたうえでローマ・カトリックを国教に定めている。国民の95%がローマ・カトリックを信仰しているが、近年プロテスタント・福音派が勢力を増している。東部にはメノニータも入植している。2008年2月1日、昨年の11月に成立した新年金法が施行され、無年金者への「尊厳ある年金」の支給が始まった。この政策は、資源主権の確立を通じて様々な社会政策を実施しているベネズエラや、無年金救済制度をつくったアルゼンチンなどの経験に学んだものである。財政的裏付けは、天然ガス国有化による国家収入の増大である。60歳以上の無年金者は年2,400ボリビアーノス(約35,500円、最低賃金の4.6か月分)、何らかの国の年金を既に受けている人は1,800ボリビアーノスが支給される。約70万人が受給する見通しである。プレ・インカ期やインカ帝国の文明圏ではケチュアがアイマラを支配する形で一体化は進み、スペイン統治下のペルー副王領やリオ・デ・ラ・プラタ副王領の勢力圏などでもアルト・ペルーと呼ばれ、ペルーとボリビアはほぼひとまとまりの地域として扱われてきたため、現在でも両国は文化的に近い関係にある。例えば、アンデス地方を特徴づける文化として世界的に有名なのはフォルクローレであるが、その曲調、使用する楽器などはボリビアとペルーでほぼ同じであり、これはアルゼンチン北西部とも共通する。スペイン統治時代に広まった伝統的な衣装を着続けるチョリータと呼ばれる女性たちも、両国に共通する特徴的な習俗である。アンデス地域とアマゾン地域はその気候の大きな違いや町の起こりの経緯の違いにより、互いに文化的な差異を感じているようである。アンデス地方の町の多くはインカ帝国時代の集落がペルー副王領時代に町として興されたものであるのに対し、アマゾン地域の町は植民地時代にはパラグアイ方面から開拓されていったものが多いが、スペイン当局にはほとんど手をつけられず、グランチャコ地方の領有問題なども放置されていた。東部の主要都市サンタクルスが開発されたのも第二次世界大戦前後からである。俗語では、アンデス地域またはそこに住む人々はコージャと呼ばれ、アマゾン地域またはそこに住む人々はカンバと呼ばれる。1998年以降、アメリカの指導により、政府はコカ撲滅作戦に取り組んでいるが、国民の6割がコカ常用者とされ、アメリカなどへの密輸も盛んに行われている。食文化としては、パン・ジャガイモ・トウモロコシを主食とし、副食として主に牛肉・鶏肉を食べる。豚肉は高級な食材とされる。クイと呼ばれる天竺鼠の一種も食用としている。暖かい地方ではユカイモ(キャッサバ)やパパイア・マンゴーなども食べる。内陸国のため、魚介類ではチチカカ湖のトゥルーチャ(鱒の一種)やペヘレイといった川魚が食べられる。海産物は主にチリなどから輸入される。朝には道ばたでパンを売る姿がよく見られ、高地ではサルテーニャが、低地ではクニャペがよく売られている。第二次世界大戦前後にドイツなどから逃れてきた人たち(戦前はユダヤ人、戦後はナチスの残党)がビールを広めた結果、ラパスでは「パセーニャ ()」、オルロでは「ウァリ (Huari)」、コチャバンバでは「タキーニャ ()」、サンタクルスでは「ドゥカル (Ducal)」など、それぞれの都市を代表するビールの銘柄がある。ビール以外の酒類としては、スペイン侵略以前から飲まれているチチャという発酵酒や、ブドウを蒸留して作ったシンガニや、中米から輸入したロン (Ron)(ラム酒)などが飲まれる。ボリビア人のチチャにかける情熱は強く、チチャを侮辱したイギリスの公使が、暴君メルガレホによりロバの背中に裸にしてくくりつけられ、スクレの市中を引き回しにされた事件がある。また、アルゼンチンに近いタリハはボリビア屈指のワインの産地であり、ワインも好まれている。ボリビア文学はインカ帝国時代の先住民の口承文学に根を持ち、植民地期にもバルトロメ・アルサンス、パソス・カンキ、フアン・ワルパリマチなどの作家がいた。19世紀の独立後、ロマン主義の時代にはマリア・ホセファ・ムヒア、リカルド・ホセ・ブスタマンテ、アデラ・サムディオなどがいる。20世紀初めになるとの『ワタ・ワラ』や、『青銅の種族』により、インディオの困窮や教会の腐敗を告発したインディヘニスモ文学が始められた。この頃の作家にはオスカル・セムートやガブリエル・レネ・モレーノなどがいる。現在活躍する作家としては、エドムンド・パス・ソルダンや日系ボリビア人のペドロ・シモセが特に有名である。ボリビアの音楽は土着の音楽が発達したアウトクトナ音楽と、ヨーロッパから持ち込まれた音楽を基盤に都市で発達クリオージャ音楽に大きく分けられるが、どちらもフォルクローレと呼ばれる。ボリビア全体がフォルクローレの里と呼ばれるが、特にオルロとポトシが有名である。オルロでは年に一度、ユネスコの無形文化遺産にも登録されているカルナバル(カーニバル)が行われるが、これはクスコ、リオデジャネイロと並んで南米三大祭りの一つといわれる。主なリズムとしてはワイニョ、クエッカ(クエッカ・ボリビアーナ)、バイレシートなど。『我が祖国ボリビア』というクエッカの曲は第2国歌と呼ばれている。ペルーやチリなど周辺国のフォルクローレにも使われるチャランゴはボリビア起源の楽器である。ポトシやその近くのチュキサカの田舎町などには、スペイン侵略以前の習俗を色濃く残しているものと思われる、特異な歌や踊りをいまでも見ることができる。ノルテ・ポトシのプトゥクンという歌や、タラブコの祭りなどがその例である。ポピュラー音楽の世界ではクリオージャ音楽とアウトクナ音楽は相互に影響し合い、従来のフォルクローレとロックやジャズのクロスオーバーも盛んである。コロンビア生まれのクンビアも広く聴かれている。ボリビアにおいて初めて長編映画『ワラ・ワラ』を撮影したのはであり、1930年のことだった。その後1953年にボリビア映画協会が設立され、ホルヘ・ルイスらが活躍した。1966年にを中心にが結成され、日本でも現代企画室と太田昌国の協力により『地下の民』(1986)などが公開された。ボリビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。詳細は、ボリビアの世界遺産を参照。ボリビア国内の無形文化遺産。
出典:wikipedia
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