マダガスカル()は、アフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400キロメートル離れた西インド洋にあるマダガスカル島及び周辺の島々からなる島国である。マダガスカル島は日本の国土面積の約1.5倍の広さを持つ世界で4番目に大きな島である。先史時代にゴンドワナ超大陸の分裂に伴いアフリカ大陸から分かれ、さらにその後の8800万年前ごろにインド亜大陸とも分離して形成された。他の大陸と生物種の往来が少ない孤立した状態が長く保たれたため、島内の生態系を構成する各生物種が独特の進化を遂げた。21世紀現在でも野生生物種の90%以上が固有種という、生物多様性にとって重要な場所である。ところが、かようにユニークな生態系が、特に20世紀に入って以降、急速な人口増加と無秩序な開発に伴う環境破壊により失われ始め、21世紀現在も深刻な危機に直面している。マダガスカルに始めて人類が居住し始めたのがいつか、また、その人々がどのような人々であったのかという問題については諸説あり、議論に決着を見ていないが、通説では、紀元前350年から紀元後550年の間にオーストロネシア系の人々が稲作の技術を携えてアウトリガーカヌーに乗ってボルネオ島南部からやってきたと考えられている。マダガスカル語はオーストロネシア語族に属し、マレー語などに近い。さらにその後、10世紀までの間にバントゥー系の人々が東アフリカからコブウシとともにモザンビーク海峡を渡って移住したと見られる。この東南アジアと東アフリカ、それぞれにルーツを持つ集団を基礎に、その他にも、長い歴史の中でさまざまな民族集団の定住の波が繰り返し到来して、現在マダガスカル人と呼ばれる民族集団が形成された。彼らをいくつかのサブグループに分割して捉える考え方もあり、その場合、最大多数派は中央高地に住むメリナ人である。19世紀に至るまでマダガスカル島全土に広域的な支配を確立した政権は存在しなかったが、メリナ人の貴族階層を中心にした政権が19世紀前半に灌漑耕作技術の進展に伴い強勢となり、島の大部分を統一した。このマダガスカル王国はしかし、に敗北して崩壊し、1897年にフランス植民地帝国に吸収された。60年以上に及ぶ植民地時代にはサトウキビのプランテーションや黒鉛の採掘が行われ、モノカルチャー経済化が進展、フランスへの原料供給地かつフランスの工業製品の消費地として位置づけられた。「アフリカの年」1960年に共和制の主権国家として一応の独立を回復するものの政治、経済、軍事、教育などの面で実質的にフランスに依存し従属する体制であった。1970年代に成立した社会主義政権下ではCFAフラン圏からの離脱、駐留フランス軍の撤退などフランス依存からの脱却が目指されたが、その代償として国際収支の悪化や経済の低迷を経験した。1980年代には早くも社会主義路線から方針転換を行い、IMFの援助を受けて経済再建と構造調整に取り組んだ。その後も複数回の政治危機が起きた。直近に起きた2009年の政治危機では憲法に基づいた手続きを経ない政権交代が行われ、観光業の不振など経済の低迷と国際的孤立を招いた。目下のところマダガスカルは、人口が2012年時点でちょうど2,200万人を越えたあたりと推定されており、その内90%が1日当たり2ドル以下で生活している。「後発開発途上国」に分類される。2015年の経済成長率は年率3.1%で、人口増加率をかろうじて上回ったにすぎなかった。国際社会の中におけるマダガスカルは、国際連合、アフリカ連合、世界貿易機関、南部アフリカ開発共同体(SADC)などの加盟国である。マダガスカル語によるマダガスカルの最も標準的なエンドニム(endonym; 自称詞、内名)は、' である。これはエクソニム(exonym; 他称詞、外名)の ' に由来する。このエクソニムは、13世紀の旅行者マルコ・ポーロの有名な旅行記に記載されている ' という地名から転訛したものである。ポーロ自身は ' に行ったことはなく、紅海の南にモガディシュという場所があると伝え聞いたにすぎないが、このとき耳で聞いた音を転写する際に誤りが生じた。さらにポーロはこの港を島であると勘違いしていた。ポーロの誤伝に基づく名前が普及するまでには、1500年の聖ラウレンティウス殉教の日(8月10日)に、ポルトガルの冒険者が海上からこの島を目視し(「上陸した」は誤り)、「サン・ロレンソ」(")と名付けたこともあった。しかしながら、ルネサンス期の世界図にはポーロの誤伝に基づく名前の方が好まれ、普及した。島の住民がこの島全体を指して呼ぶ呼び名で "Madagasikara" より古い言葉は存在しないが、自分たちが居住する地域を越えない範囲でその土地の呼び名を持っていた民族グループは存在する。また、マダガスカル語で「先祖の土地」を意味する「タニンヂャザナ」はマダガスカルに対する美称として好んで用いられている。フランス語でマダガスカルを指す言葉として ' もある。日常的には「大きい島」を意味する ' も極めてよく使われる。国土総面積592,800平方キロメートルを有するマダガスカル共和国は、世界で46番目に広い国である。国土の主要部分を占めるマダガスカル島は、世界で4番目に大きい島である。国土はおおむね、南緯12度から26度、東経43度から51度の間に位置する。隣国としては、インド洋に浮かぶ周囲の島々に、フランス領レユニオン、モーリシャス共和国、セーシェル共和国、コモロ連邦、フランス領マヨットなどがある。また、モザンビーク海峡を挟んで対岸のアフリカ大陸側にはモザンビーク共和国がある。先史時代に存在した超大陸ゴンドワナは今からおよそ1億3500万年前に分裂し、「マダガスカル=南極=インド」陸塊と「アフリカ=南アメリカ」陸塊とに分かれた。その後マダガスカルは、およそ8800万年前ごろにインド亜大陸や南極大陸と分裂し、島に残された動植物は比較的孤立した状態で進化した。一直線に伸びる東海岸に沿って、狭く急激にせり上がるが形成されており、ここにマダガスカル独特の低地熱帯雨林が残されている。断崖の稜線を超えて西、島の中央部には、海抜750メートルから1500メートルの標高のプラトーがある。ここがメリナ族の故地、「中央高地」と呼ばれる地方で、首都のアンタナナリヴもここに所在する。中央高地はマダガスカル島で最も人口稠密な地域であり、草で覆われた丘とまばらに点在する半湿潤林の間を縫って、米が育つ階段状の渓谷が走るという自然景観に特徴付けられる地方である。なお、この半湿潤林はかつては中央高地全体を覆っていたが、15世紀ごろから始まる人間活動により縮退したものと考えられている。中央高地から西へ向かうにつれ、乾燥した土地が増えつつなだらかにモザンビーク海峡へとくだる。海岸沿いの塩性湿地にはマングローブが茂る。マダガスカル島で最も標高の高い三峰は、同島の脊梁山脈に聳える。ツァラタナナ山脈のマルムクチュ山(Maromokotro, 2876m)は最も標高が高く、次にアンヂンギチャ山脈のボビー峰(Boby Peak, 2658m)と、アンカラチャ山脈のツィアファザヴナ山(Tsiafajavona, 2643m)が続く。島の東側にある「パンガラヌ運河」は、フランス植民地当局が人造湖と自然湖を繋いで建設した運河で、トゥアマシナから東海岸に沿って南方に、海岸線と平行に600kmにわたって延びる。島の南西側は中央高地の雨陰となるため降雨が少なく、、、の生育地である。南西部の乾燥落葉樹林は、当地の人口が少ないため、東部の熱帯雨林や中央高地に本来あったはずの森林と比較すると、よく保存されている。西海岸沿いには波風を避けるのに適した港が多数あるが、泥砂の堆積が目下大きな問題となっている。これは内陸で高い水準の土壌浸食が起き、河川により広い西部平野を抜けてもたらされたものである。マダガスカル島は南北に細長い形であるが、その気候は南北の差異よりも東西の差異の方が大きい。マダガスカルの気候は、南東貿易風と北西モンスーンの影響を強く受けて、これら勢力の組み合わせにより季節が移り変わる。気温が高く降雨量が多い雨季(11月から4月まで)と、比較的低温で乾燥する乾季(5月から10月まで)がある。雨季には頻繁に破壊的なサイクロンが襲来する。インド洋上で発生する雨雲は、島の東海岸部上空で蓄えた水分の多くを放出する。そのため当該地域の降雨量は非常に多く、熱帯雨林の生態系の形成に寄与している。中央高地は東海岸部よりも乾燥し、気温も低い。西部はさらに乾燥しており、島の南西部と南部の内陸は、半砂漠気候(ステップ気候)が広がる。熱帯性低気圧は毎年定期的に、インフラストラクチャーと地域経済に損害を与え、家を失う人を出す。1848年から1970年までの122年間で155回のサイクロンに見舞われたという記録があり、年平均1.27回のサイクロンがあったことになる。マダガスカル島(本島及び/又は周辺の島嶼を指す。以下、本節において同じ。)は、他の大陸から孤立してからの時間が非常に長く、その結果、地球上の他の土地では見つけることができない植物や動物の豊富な生育地・生息地となった。マダガスカルで見つかるすべての動植物種のおよそ90%が固有種である。例えば、「」(霊長目曲鼻猿亜目キツネザル下目の仲間の総称)や、食肉類の「フォッサ」(ネコ目マダガスカルマングース科フォッサ属)がマダガスカルの固有種である。その他に、鳥類にも固有種が多い。このように自然環境に非常に特色があるため、マダガスカルを「第八番目の大陸」と形容する自然科学者もいる。またこれが、例えば、のような国際自然保護NPOなどがマダガスカルを「生物多様性ホットスポット」に分類してマダガスカルの環境保護を訴える所以ともなっている。マダガスカルにおける14,883種に及ぶ植物種のうち、80%以上が固有種である。この中には、科レベルで固有の植物群、5科が含まれる。そのような固有科の1つであるディディエレア科は4属11種からなり、全世界でもマダガスカル島南西部の有刺林のみに生育する。キョウチクトウ科のの仲間のうち、全世界に存在する種の5分の4が本島に固有の種である。マダガスカルに生息するラン科の種は全部で860種とされるが、そのうち4分の3がここだけで見られる種である。世界に9種あるバオバブ属のうち6種がマダガスカルの固有種である。マダガスカルに生育するヤシは全部で170種。これはアフリカ全体の種数の3倍の多様さであり、しかもそのうち165種が固有種である。東部雨林の数多い固有種の中でも、タビビトノキは、マダガスカルという国の象徴とも言えるものであり、これを図案化したものが国章や国営航空会社のロゴのデザインに用いられている。なお、タビビトノキは現地の言葉では「ラヴィナラ(ravinala)」という名前で知られる。マダガスカルの植物の中には、さまざまな苦痛を取り除く薬草として用いることができるものも多い。ホジキンリンパ腫や白血病、その他の癌の治療に用いられるビンブラスチンとビンクリスチンという薬は、マダガスカルの固有種、ニチニチソウ("Catharanthus roseus")から抽出されたものである。マダガスカルの動物相が多様性に富み、固有種率が高いことは、その植物相に似る。(キツネザル下目を含む)は「マダガスカルの代表的な哺乳類」として特徴付けられてきた。マダガスカルには他の大陸とは違って、原猿類以外のサルなど、他の競合がいなかったため、この霊長類は多様な環境に適応して数多くの種に多様化した。2012年時点で公式に103種がリストアップされており、そのうちの39種は2000年から2008年の間に動物学者らにより他種から分離されたものである。これらの原猿類は、ほとんどすべてが、希少であるか、脆弱であるか、絶滅の危機に瀕している種にカテゴライズされる。人類のマダガスカル到来以来、少なくとも17種の原猿類が絶滅した。絶滅した種はすべて、生き残った原猿類の種よりも大型であった。原猿類のほかにも、マダガスカルの固有種であるような哺乳類が、例えばネコに似た動物フォッサのように、多数いる。また、マダガスカルに生息する300種を超える鳥類のうち、約60%(このうち、科レベルでは4科、属レベルでは42属)が固有種である。爬虫類に関しては、マダガスカルにやってきた科や属の種類こそ少ないが、それらが当地で260種以上に適応放散した。その90%以上(このうち、科レベルでは1科)が固有種である。マダガスカルは世界中のカメレオンのうち、3分の2の種の生息地である。世界最小の爬虫類として知られるミクロヒメカメレオンもマダガスカルの固有種である。カメレオンの進化と種の分化に関して過去の通説では、カメレオンが他の大陸からマダガスカルに渡って来たのち適応放散するモデルが考えられたが、近年の分子遺伝学的アプローチによるとカメレオンはマダガスカルで独特の進化を遂げたトカゲであって、マダガスカルこそがカメレオン科に属するすべての種の原産地と考えられている。魚類においては、2科15属、100種以上の固有種がある。主として内陸の淡水の湖や川に棲息している。マダガスカルの無脊椎動物についての研究はあまりなされていないのが現状であるが、存在が確認されている種に占める固有種の率が非常に高いことがわかっている。例えば、チョウ目やコガネムシ科、アミメカゲロウ目、トンボ、クモなどに多い。とりわけ、陸生貝類は685種が知られており、その98%が固有種である。さらに調査が進めば、倍の種が見つかるであろうと予想されている。その大半はゴンドワナ超大陸に起源を持つ古い系統である。マダガスカルの多様性に富む生物相は、人間の活動により危機に瀕している。人類がおよそ2,350年前にマダガスカルに初めてわたったときから、そこにもともとあった森林は失われ始め、今ではその90%以上を喪失した。この森林喪失を大きく加速させているのが、マダガスカルに最も早くから住み着いた人々が持ち込んだタヴィ(tavy)と呼ばれる焼畑である。農民たちはこの農法を、利益が出るという理由だけでなく、繁栄、健康、尊ばれてきた先祖伝来の慣習(フンバ・マラガシ, fomba malagasy)と文化的に結びつくために取り入れ、恒常化させている。島内の人口密度が上がり、森林喪失が加速度的に早まったのが今から1400年前ごろである。マダガスカルに定住し始めた人類は、最初、沿岸部にあった雨林を焼畑して耕作地に変えた。彼らは、大型のレミュール類、エピオルニス類、ジャイアントフォッサなどが闊歩するマダガスカルの豊かなメガファウナに出会った。そして狩猟と生息地破壊を通じてそれらの大型の動物群を絶滅に追いやった。中央高地を覆っていた森林に対する焼畑は、遅くとも西暦600年までには始まっていた。16世紀には、中央高地にもともとあった森林のかなりの部分が消え去ってしまっていた。さらに時が下ると今から1000年前ごろから群れで家畜を買う牧畜が始まった。調理の際に使う燃料としての木炭への依存も始まった。過去数世紀の間には商品作物として台頭したコーヒーの作付けも行われた。これらが森林規模の縮小につながった。マダガスカル島を覆う森林は1950年代から2000年の間に、その面積の約40%が失われたと推定されるが、この推定はそれでも控えめな見積もりである。残された森林地域でも、その80%で間伐が行われている。野生生物保護の障害となっているのは、伝統的農耕もさりながら、保護林の不法伐採である。さらに、国立公園における希少木の伐採を国家が容認することもあって、これも障害となっている。例えば、国立公園で希少木材を伐採することは2000年から2009年までの間、ラヴァルマナナナ政権下、禁止されていたが、2009年1月に少量であれば認めることとなった。この再認可はラヴァルマナナ追放後における支援者への見返りに当てるため、国家歳入源の切り札として、ラズエリナが認めたものであった。マダガスカル島の雨林のすべてが、保護区や、分水嶺の東側に位置する急斜面に存在するものを除いて、2025年までに消滅してしまうと予想されている。2003年にラヴァルマナナが表明した「ダーバン・ヴィジョン」では、自然保護区の面積を3倍以上に増やして、総面積で60,000平方キロメートル、あるいは、国土面積の10%以上にすることが謳われた。2011年時点で国家による保護を受けているエリアは、厳正自然保護区(Strict Nature Reserves / Réserves Naturelles Intégrales)5箇所、野生生物保護区(Wildlife Reserves / Réserves Spéciales)21箇所、国立公園(National Parks / Parcs Nationaux)21箇所に過ぎない。2007年には国立公園6箇所(マルジェジ、マスアラ、ラヌマファナ、ザハメナ、アンドゥハヘラ、アンヂンギチャ)がまとめて「アツィナナナの雨林」の名前でユネスコにより「世界遺産である」と宣言された。 その一方で、例えばマルジェジ国立公園においては、公園内の保護雨林から希少種のローズウッドが切り出され、国外流出しているのが現実である。違法伐採木材の密輸先はほとんどが中国であり、用途は高級家具や楽器である。侵入性の外来種もまた、人間によってもたらされた。2014年にマダガスカルで、アジアによくいるカエルの種が見つかった。これは1930年代にオーストラリアの野生生物生態系に深刻な破壊をもたらした種の仲間であった。これを受けて研究者らは「マダガスカルのユニークな動物相を滅茶苦茶に破壊しかねない」と警告した。生息域破壊と狩猟は、マダガスカルの固有種の多くを脅かし、絶滅の危機へと追いやった。大型のダチョウ目に属したエピオルニスは17世紀以前に絶滅したが、その原因はおそらく人間により成鳥が捕獲されたことと、大きな卵が食料にするため乱獲されたためであろう。また、島に残された骨の研究から、人類が島に到来すると同時に多くの大型のレミュール類の種が地上から消え去り、その他の種も何世紀かかけて絶滅への道を歩んだ。これは、人類の人口が増えるにつれレミュールの棲息域に大きな圧力がかかったり、レミュールを狩って食料にした者たちがいたりしたためである。2012年7月に行われた環境評価によると、2009年のクーデター事件以来行われている天然資源の採掘により、野生生物の生態系が差し迫った危険にさらされる結果がもたらされていることがわかった。90%のレミュールが絶滅の危機にあることが判明し、その割合はどの哺乳類よりも高い割合であった。そのうち23種は「絶滅寸前(critically endangered)」に分類される。2008年に行われた前回の研究では対照的に、絶滅の危機にさらされているレミュール類は38%に過ぎなかった。マダガスカルに人類がいつ頃から定住し始めたかという問題については不明な点が多い。マダガスカル島は地球上にある主要な陸塊の中で、人類が最後に定住するようになった場所である可能性がある。最も古い住居跡はアンツィラナナ近くの洞窟にあり、ここで採取された炭は放射性炭素年代測定により西暦420年頃のものと判明した。しかし、ここに住んだ人々が定住するに至ったかまでは明らかではなく、人骨の出土はなく、出土遺物からも漂流者の一時的避難場所であったことが示唆される。長期にわたって利用された住居跡として最も古いものはヌシマンガベ島にあり、8-9世紀頃の地層から土器片や陶器片、焼畑の痕跡が見つかっている。ここで人々が生活していた証跡は18世紀初期まで連綿と続く。住居跡でない、もっと曖昧な証拠であれば、紀元前89年から紀元後70年までのものと推定される、金属器の切り付け痕の残るコビトカバの大腿骨がマダガスカル島南西部から見つかっている。2011年にも、紀元前2000年頃のものと見られる、人為的な切り付け痕のある動物の骨が発見された。比較言語学の知見に基づくと、マダガスカル語はボルネオ島南部のバリト川流域で話されているマアニャン語などが含まれるオーストロネシア語族ヘスペロネシア語派南バリト諸語に系統的に最も近い。マダガスカル語がマアニャン語などと分岐した時期は、今から1200年から1300年程前と考えられている。20世紀終盤から遺伝学は人類集団の移動の軌跡を調べる上で強力なツールとなっており、マダガスカル人の歴史的形成を研究する分野においても有用な研究方法の一つとなっている。任意の属性を有する人間集団におけるY染色体ハプログループの分布を、他の人間集団の分布と比較するという手法を用いた研究によると、アジア由来のマダガスカル人のY染色体ハプログループの分布は、他のどの地域の人間集団の分布よりも、マアニャン語話者の多いバンジャルマシン住人の分布に近いことがわかった。この結論は言語学的知見に基づく推定と一致する。ボルネオ島南部からマダガスカルへの移住の態様についも不明な点が多く、諸説あるが、移住民がアウトリガー・カヌーに乗ってやってきたであろうことは確実である。このようにインドネシア系の人々を先祖としてマダガスカル人の基層が形成されたが、そこにアラブ系の人々が加わった、若しくは少なくとも文化的な寄与をしたことは、全島的に見られる男子割礼、豚肉の禁忌、先祖がメッカからやってきたという伝承を受け継ぐ民族集団の存在などを証拠に確実視される。アラブ人たちがマダガスカル島に始めてやってきたのは7世紀から9世紀の間、交易を目的として渡来した。バンツー語族の言葉を話す人々の移民の波がアフリカ大陸の南東部からやってきたのは、西暦1000年ごろである(cf.)。彼らは角を持ちコブのあるタイプの牛であるゼブを島に導入し、大規模な群れで飼いはじめた。中央高地のベツィレウ王国群では、17世紀までに水田の灌漑が発達し、17世紀には隣接するメリナ王国にも水田の灌漑が広まった。メリナ王国では棚田も作られるようになった。中央高地の森林生態系は、土地の耕作意欲の高まりと、コブウシの牧草地需要の恒常的な増加により、17世紀までには草原へと、大きくその姿を変容させた。メリナ人たちは牛牧にイネの灌漑施肥農耕を組み合わせた農法により新田開発により社会を富ませることによって勢力を拡大していった。メリナ族は、彼らの間で口承で伝えられた歴史叙述によると、今からおよそ600年前から1000年前までの間に中央高地にやってきたことがうかがわれ、また、そのときに「ヴァジンバ」と呼ばれる人々に出会ったと伝わる。彼らは、アンヂアマネル、ラランブ、アンヂアンザカといった16世紀から17世紀にかけての歴代のメリナ王により、同化させられるか、中央高地から排斥されて、歴史の表舞台から姿を消した。「ヴァジンバ」は子孫が絶えてしまったのでマダガスカル人が非常に重視するところの「祖先になる」ことができず、その死霊がいつまでも彷徨っているとして畏れられている。「ヴァジンバ」が単なる伝説か史実かは議論があるところである。史実と見る学者は、彼らがメリナ人に先行するオーストロネシアン移民の子孫で、技術的にはメリナ人に劣っていた人々ではないかと考えている。マダガスカルは、人類が定住してから数世紀のうちは、インド洋に面した港と港をつなぐ大洋間交易における重要なハブであった。マダガスカルのことを歴史書にはじめて残したのは、アラブ人である。彼らは遅くとも10世紀までに、北西部の沿岸に交易所を建設した。そして、イスラームと、アラビア文字による書記法(アラビア文字を用いてマダガスカル語を表す書記法を「スラベ, sorabe」という)、アラビアの占星術などといった文化要素をもたらした。ヨーロッパ人との接触は1500年から始まる。インドを目指して航海していたポルトガル船の船長ディオゴ・ディアスが、同年にマダガスカル島を目撃した。17世紀後半になると、フランスが東海岸に交易所をいくつか建設した。1774年から1824年ごろまで、マダガスカルは、海賊やヨーロッパの交易商人たちの間では、とりわけ、大西洋間奴隷貿易に携わっていた者たちの間では、はよく名前が知られていた場所であった。マダガスカル本島の北西沿岸から少し離れたところにある小さな島、ヌシ・ブルハ(サント=マリー島)は、歴史家により、伝説的な海賊のユートピア「」に比定されてきた島である。マダガスカルの沿岸ではよく船が難破し、ヨーロッパの船乗りたちがたくさん遭難した。その中の一人、が残した日誌は、18世紀マダガスカル南部の生活を描写した数少ない文字史料のひとつである。沿海交易によって生み出された富は、島内で成立した国家群の伸張に拍車をかけ、17世紀にはそのうちのいくつかが強勢となるまでに成長した。そのような国家群としては、東海岸のベツィミサラカ人たちの連合国家や、西海岸のメナベのサカラヴァ諸王国やブイナ王国がある。中央高地のアンタナナリヴに都したメリナ王国が、アンヂアマネルのリーダーシップの下で出現したのも、沿岸の諸王国が栄えたのと同じころであった。メリナ王国が17世紀前半、中央高地に出現したころ、その勢力は沿岸の王国群の中でも比較的大きな国と比べるとまだ弱く、アンヂアマシナヴァルナが4人の息子に王国を分け与えた18世紀初期にはさらに弱小となった。いくさと飢餓の半世紀をすごし、メリナ王国はアンヂアナンプイニメリナ(在位1787年-1810年)により1793年に再統一された。王は都をアンブヒマンガから、アンタナナリヴに移し、近隣の自立した勢力にその支配を急激に拡大した。メリナの王権の支配をマダガスカル島全体に行き渡らせるという彼の野望は、王位を受け継いだ息子のラダマ1世(在位1810年–1828年)により大部分が達成された。ラダマ1世はイギリス政府により「マダガスカル王」として認められた。ラダマ1世は1817年に、イギリスの軍事経済的援助を得る見返りに、割のいい奴隷貿易を廃止するため、モーリシャスのイギリス政府と条約を結んだ。が派遣した専門技術を持つ宣教師が1818年に到着、学校の設立、ローマ字を用いたマダガスカル語の書記法の考案、聖書の翻訳をするなどして、新しい技術を島にもたらした。ラダマ1世から王位を受け継いだラナヴァルナ1世女王(在位1828年–1861年)は、イギリス、フランスの一部の者たちによる政治的、文化的な侵略が増加していることに対抗して、マダガスカルにおけるキリスト教の宗教活動を禁止する勅令を発し、また、ほとんどの外国人にたいして領土の外へ出るように圧力をかけた。マダガスカルの住民は、偸盗、淫祠、邪教(ここではキリスト教)などのさまざまな罪で他人を告発することができるようになった。これらの罪には「タンゲナ, tangena」という神明裁判が欠かさず行われ、ラナヴァルナ1世の統治した約30年間で、一年あたり約3000人の命がタンゲナにより失われた。メリナ王国に住み続けた外国人もおり、企業家のジャン・ラボルドはそのうちの1人である。彼は女王の名代として武器開発やその他の産業の振興に努めた。冒険家で奴隷商人でもあったジョゼフ=フランソワ・ランベールはラダマ2世がまだ王子であった頃から彼に取り入り、ランベール特許状と呼ばれる問題の多い覚書を王と秘密裡に締約した。母から王位を受け継いだラダマ2世(在位1861年-1863年)は母の厳しい政策を緩和しようと試みたが、2年後に首相のライニヴニナヒチニウニ(在職1852年-1865年)らに謀殺された。ラダマ2世の暗殺は国王が絶対的な権力を持つ体制を終わらせようとしていた、アンヂアナ(andriana, 貴族)とフヴァ(hova, 自由民)の廷臣たちが結託してなされたものであった。謀略の後、廷臣らはラダマ2世の后であったラスヘリナ(在位1863年–1868年)に女王として王位に就くことを提案した。そのための条件としては、権力を首相と共有すること、そして、ラスヘリナと首相が政略結婚することによりこの取引を隠蔽することであった。ラスヘリナは同意し、ライニヴニナヒチニウニと結婚した。後にラスヘリナはライニヴニナヒチニウニを退け、彼の弟であり首相のライニライアリヴニ(在職1864年–1895年)と再び政略結婚した。ライニライアリヴニはラスヘリナが亡くなると、やはり跡を継いだラナヴァルナ2世女王(在位1868年–1883年)、ラナヴァルナ3世女王(在位1883年–1897年)と政略結婚した。ライニライアリヴニは終生首相の地位にあって、その31年間の在職中に近代化と中央集権化を目的とした多くの政策を実施した。島全土に学校を建て、通学を義務化した。軍隊の再編も行った。また、イギリス人を雇い、常備軍化と鉄道建設を図った。英国法を基礎にした法典範を整備し、三審制を導入するとともに首都にヨーロッパ風の裁判所を建てた。ライニライアリヴニは将軍も兼務し、フランスの幾度かにわたる侵略からマダガスカルを守ることにも成功した。なお、キリスト教は、信徒であったラナヴァルナ2世が1868年に女王に即位すると、あっさりと宮廷公認の教えである旨の宣言がなされ、人口が増加しつつあったマダガスカル社会に伝統宗教と並んで受け入れられた。重婚も非合法化された。1883年、北西部の権益の保護を口実に、フランスはマダガスカルに侵攻する。フランス語では「第一次マダガスカル遠征」という名で知られる戦争である。マダガスカルは敗戦し、北部の港町アンツィラナナ(ディエゴ・スアレス)をフランスに割譲し、ランベールの相続権者に56万フランを支払った。1890年にイギリスはフランスによる全面保護国化のマダガスカルへの正式強制を受け入れたが、マダガスカル政府はフランスの権威を認めなかった。フランスはマダガスカルを服従させるために、東海岸にあるトゥアマシナの港を1894年12月に砲撃及び占領し、1895年1月には西海岸の港町マハザンガも占領した。北アフリカや西アフリカ出身の兵で強化されたフランス軍の別動隊がアンタナナリヴに向かって進軍したが、マラリアやその他の病気でかなりの数の兵士が失われた。当該別動隊は1895年9月に首都にたどり着くと女王宮を大砲で砲撃し、大損害を与えるとともに女王ラナヴァルナ3世を降伏させた。フランスは1896年にマダガスカルを併合し、翌年に植民地化を宣言した。メリナ王国は解体され、王室はレユニオン島に追放された。フランスが宮殿を接収したことに対する抵抗運動が起きたが1897年の終わりには鎮圧された。「メナランバの乱」と呼ばれるこの反乱は、各地に行政官として派遣されていたメリナ王国の高官とその指揮下の部隊が中核となったが、フランスはその鎮圧にあたって、国家間の戦争であったフランス=メリナ王国戦争(第二次マダガスカル遠征)時とは態度を一変させた。自らが主権を確立した土地における反乱に対しては容赦しない姿勢を示し、反乱参加者を拘束するとその場で処刑を行った。1895年から1898年の間の社会不安には飢饉も加わり、数十万人が死んだ。植民地支配下でプランテーションが開かれ、さまざまな輸出用作物の生産が行われた。1896年に奴隷制が廃止され、およそ50万人の奴隷が解放されたが、多くは解放前の主人の家に使用人として残った。植民地政府が置かれたアンタナナリヴには、広い大通りと広場が建設され。王宮を含む建物群は博物館になった。メリナ王国による学校建設がまだ及んでいなかった地方や沿岸部を中心に、学校建設が追加された。6歳から13歳の子供に教育を受けさせることが義務となり、学校では基本的にフランス語と実践的な技術が教えられた。SMOTIGという強制労働制度がフランス植民地政府により創設され、沿岸部の町とアンタナナリヴをつなぐ鉄道や道路の建設の際に利用された。なお、マダガスカルの伝統的な家屋は先祖の住処である西に戸口を開くものであったが、フランス植民地政府は戸口を幹線道路を向くように命令した。文明観において社会進化論が支配的であった当時の西欧では、「未開」の後進地域に文明を移出する「文明化の使命」があると観念され、文化の一方的な押しつけが何の疑問もなく行われた。第一次世界大戦には、マダガスカル出身の兵士たちもフランスのために戦った。この時期には遠く日本の明治維新及び日露戦争における日本の勝利の情報が入ってきており、これに触発されて民族主義運動が高まった。フランス植民地当局はマダガスカル語新聞の検閲を強め、大戦中の1915年に抗仏秘密結社ヴィ・ヴァトゥ・サケリカを摘発した。この事件はフランス植民地帝国を震撼させ、硬軟双方の手管を用いた独立運動への抑圧と、島内の民族手段の対立を煽る統治政策の実施へと植民地当局を駆り立てることになった。1930年代にはナチスドイツの政治思想家が、マダガスカルをポーランドや他のヨーロッパ諸地域に住むユダヤ人たちを将来移住させる際の移住先とする「マダガスカル計画」を練り始めた。第二次世界大戦中は、ヴィシー政府とイギリスとの間で戦闘が起き、マダガスカルは戦場になった(マダガスカルの戦い)。第二次世界大戦中に宗主国フランスがドイツに占領されたことは、マダガスカルの植民地政府の威信に曇りをもたらす出来事であり、1947に起きた反フランス植民地支配抵抗運動の遠因ともなった。この運動はフランスが1956年に海外植民地改革法を制定するきっかけとなり、マダガスカルは平和裏に独立へと移行することとなった。1958年10月14日に、フランス共同体に属する一自治国家として、マダガスカル共和国の樹立が宣言された。地方政府の時代は1959年憲法の発効により終わり、1960年6月26日に完全な独立を達成した。マダガスカルは独立回復以来、第一共和制から第四共和制まで、憲法の改正に伴う政体の変遷を経験した。第一共和制(1960年-1972年)はマラガシ共和国ともいい、フランスが指名した大統領フィリベール・ツィラナナにより主導され、フランスとの強い政治経済的結びつきが継続しているという特徴があった。多くのテクノクラートが在外フランス人により占められ、全国の学校でフランスの歴史をフランス語の教科書でフランス人の教師が教えるという状況が12年間続いた。ツィラナナがこの「新植民地主義」的状況を放置していることへの怒りが民衆の間に満ち、1972年にツィラナナ政権を打倒した一連の農民や学生による抗議活動(ルタカ, rotaka)への導火線となった。国軍の少将であったガブリエル・ラマナンツアが2代目大統領になり、5年間という期限付きで暫定的な軍政を敷いて、社会のマダガスカル化(マルガシザシオン)と政治的和解を試みたが失敗し、1975年に大統領の地位から退かざるを得なくなった。国家憲兵隊出身のリシャール・ラツィマンヂャヴァ大佐が大統領職を引き継いだが、在職6日目で暗殺される。軍の将校であったジル・アンヂアマハズが4ヶ月暫定大統領をした後、同じく軍出身のディディエ・ラツィラカを大統領に指名した。ラツィラカは社会主義・マルクス主義を導入した第二共和制を1975年から1993年まで政権運営した。この時代には、政治的には東側諸国の陣営への参与、経済的には島国的自立への志向が見られた。これらの政策は1973年のオイルショックに由来する経済的重圧に連動したものではあったが、マダガスカル経済の急速な崩壊と生活水準の急激な落ち込みという結果をもたらした。そして1979年には国家財政が完全に破綻してしまう。ラツィラカ政権は、破綻した国家経済に対するIMFと世銀からの資金援助や、その他の二国間援助を受ける代わりに、透明性の確保や汚職対策の進捗を査察することを受け入れた。ラツィラカは1980年代後半に徐々に人気を失っていき、1991年に大統領の守備隊が非武装の抗議デモ隊に向けて銃を撃った事件で致命的なものとなった。その事件から2ヶ月以内にアルベール・ザフィ(在職1993年-1996年)率いる暫定政権が樹立、翌年の大統領選挙でザフィが正式に大統領に就任し、第三共和制(1992年-2010年)へと移行した。新しい憲法は複数政党制を確立し、国会議員に大きな権限を持たせて権力を分散させた。また、人権と、社会・政治的自由と、商業上の自由を保障するものであった。しかしながら、経済の低迷や汚職疑惑に加えて、ザフィ自身がより大きな権限を持つことを可能にする法律を通そうとしたことにより、ザフィ政権は台無しになった。1996年に大統領が弾劾される。3ヵ月後の大統領選挙までの間、ノルベール・ラツィラフナナが暫定大統領に就いた。選挙ではラツィラカが勝利し、1996年から2001年までの間の第2期政権においては脱中央集権化と経済改革が政策基盤に置かれた。2001年の大統領選では元アンタナナリヴ市長であったマルク・ラヴァルマナナが勝利、これを認めないラツィラカがトゥアマシナに勝手に遷都するなどの政治的混乱は生じたものの、外国資本を導入して依存経済から市場経済を目指すとした新政権の下でマダガスカル経済は年平均成長率7%と順調に成長した。しかしながら、ある韓国企業が全トウモロコシ用耕作地の3分の1に及ぶ土地を99年間租借する契約を政府と結んだことが発覚する。露骨な新植民地主義への反発や、島の土地を「タニンヂャザナ(先祖の土地)」として大切にする価値観と相容れない政策への失望から、2009年3月に暴動に発展した(2009年マダガスカル政治危機)。このとき、ラヴァルマナナ大統領が軍に権力を委譲し辞任する一方、野党指導者のアンヂ・ラズエリナ(所属政党:決意したマダガスカルの青年)が大統領官邸に入り、暫定政府を発足させた。この憲法手続きに則らない形で行われた政権交代に対しては、国内外から批判や反発が表明された。また、「クーデタ」であるという主張もなされた。暫定政権は政治的危機の解決に向けたロードマップを策定したが、大統領選挙の実施は二度にわたって延期された。大統領選挙は2013年10月に第一回投票が、同年12月に上位二名による決選投票が行われ、ヘリー・ラジャオナリマンピアニナ候補がジャン・ルイ・ロバンソン候補を下して当選した。独立後のマダガスカルは4回の憲法改正を経験はしたが共和制の枠内での変革であり英語文献では複数形の "republics" と呼ばれる。社会主義経済運営を採用した第二共和制を経て、1992年以来、憲法に基づき国民によって選ばれた代表により政治を実行する民主化が進展していたが、2009年に政治危機が起きた。当時の大統領マルク・ラヴァルマナナが退陣させられ、大統領の権限がアンヂ・ラズエリナに移された。総選挙を経て2014年にヘリー・ラザウナリマンピアニナが大統領に指名されるに至って憲法に立脚した統治は回復したが、その間に経済的混乱及び国際的孤立を経験した。マダガスカルは、半大統領制、間接民主制、複数政党制の特徴を持った共和国である。民意により選ばれた大統領が国家元首であり、首相を選任する。首相は大統領に閣僚の候補を推薦する。マダガスカル憲法によると、行政権は政府により行使される一方で、立法権は内閣、上院、下院に帰属する。ところが実際のところ、上院と下院は非常に弱い権力しか持たず、立法において演ずる役割もわずかである。憲法は、行政・立法・司法の三権分立を保障し、大統領の権力についても、民意により選ばれること、任期五年であること、再選は三回までであることを定めている。大統領及び127名の下院議員(任期五年)は、直接選挙により選ばれる。直近の下院議員選挙は、2013年12月20日に行われた。上院の定員は33名であり、任期は全員六年である。そのうち22名は各ファリチャ(faritra, 県。全部で22ある。)の行政庁が選出する。残りの11名は大統領により指名される。司法組織はフランスに範を採り、高等憲法裁判所(Haute Cour constitutionnelle)、高等裁判所(Haute Cour de justice)などを持つ。しかしながら裁判所は慣習にこだわり、成文法体系が許す範囲内で事件を迅速かつ高い透明性を持って審理する能力に欠けているのが現状である。被告の拘禁期間が長引くことがよくあり、被告は審理開始までの間、不衛生かつ収容可能人数を超えた拘置所に押し込まれる。アンタナナリヴはマダガスカルの首都でありかつ最大の都市である。中央高地と呼ばれる高原地帯にあり、おおむね同島の地理上の中心に位置する。アンタナナリヴの創建は1610年か1625年ごろ。メリナ王国の首邑としてアンヂアンザカ王が、ヴァジンバ族から奪ったアナラマンガの12の聖なる丘の上に築いた。同地は元はヴァジンバ族の首邑であった。19世紀前半、隣接する他の民族に優越するようになったメリナ族は「マダガスカル王国」を成立させ、これに伴ってアンタナナリヴは名目上、島全体の施政の中心地となった。1896年、マダガスカルを植民地化したフランス人たちは、メリナ王国の首邑をそのまま植民地行政の中心として用いた。アンタナナリヴは1960年にマダガスカルが独立を回復した後も同国の首都としての地位を保っている。2011年時点における推定人口は130万人。これに、アンツィラベの50万人、トゥアマシナの45万人、マハザンガの40万人が続く。マダガスカルがフランスから独立を勝ち得た1960年年以来、同国政治の移り変わりを特徴付けてきたものは、おびただしい数の大衆による異議申し立て、数回の物議を醸した選挙、1回の弾劾、2回の軍部によるクーデタ、1回の暗殺事件である。政治的危機が発生するたびに解決が長引き、同国の経済、国際関係、生活水準に決定的影響を与えてきた。2001年の大統領選挙後には、現職のラツィラカと新人のラヴァルマナナの間で決着がつかない状態が8ヶ月間に及んだ。これによりマダガスカルは何百万ドルもの観光や貿易収入における損失をこうむった。また、橋が爆破されたり建物が放火されたりして、社会資本が毀損するという結果ももたらされた。2009年の初めに相次いだラヴァルマナナに対するラズエリナ派による異議申し立ては、一部が暴徒化し、170名以上が殺害される結果を見た。マダガスカルの国内政治には、メリナ族が沿岸の諸民族をその支配下に置いた19世紀の歴史が、現代においても色濃く反映される。中央高地の住民と沿岸部の住民同士にくすぶり続ける対立感情は定期的に燃え盛り、散発的な暴力事件として現れることがある。マダガスカルは、アフリカ統一機構の創設時からの加盟国であったにもかかわらず、歴史的に、主流のアフリカ情勢から外れたものとして認知されてきた。アフリカ統一機構は1963年に発足、2002年にアフリカ連合として発展解消されたが、マダガスカルはその第1回首脳会合に出席を許されなかった。2001年の大統領選の結果をめぐる混乱が原因である。2003年7月には14ヶ月にわたる離脱状態から復帰したものの、その後の、憲法手続に拠らない行政権の移譲の問題を受けて、2009年3月に再びアフリカ連合への参加権が一時停止される事態となった。マダガスカルは国際刑事裁判所に関するローマ規定の締約国のひとつであり、また、米軍兵士を保護するための二国間免責協定(BIA:Bilateral Immunity Agreement)をアメリカ合衆国と締約している。また、フランス、イギリス、アメリカ、日本、中国、インドなど11カ国がマダガスカルに大使館を設置している。マダガスカルにおける基本的人権は、憲法の下に保護される。また、同国は、世界人権宣言や児童の権利に関する条約を含む数多くの国際合意に署名している。宗教、民族における少数派やセクシャル・マイノリティの権利は、法律に基づいて保護される。結社・集会の自由も法律に基づいて保障されているが、政治的な示威行動を妨げるために、折にふれ、集会の開催を認可しないということが行われてきた。治安当局による拷問はめったに起きない。治安法規も数えるほどしかなく、政府による抑圧は他国に比べて緩やかなほうではあるが、軍人や警察官による恣意的な逮捕や汚職は依然問題として残る。ラヴァルマナナは在任中の2004年にBIANCOという反腐敗対策本部を立ち上げた。これはアンタナナリヴの下級官吏に蔓延していた汚職を減少させることに、特に効果があった。しかしながら、高級官吏で当本部に訴追された者は唯の一人もいなかった。マダガスカル島における常備軍は、サカラヴァ族やメリナ族などの各民族に中央集権的な王国が勃興した16世紀までには成立していた。初期の装備は槍程度であったが、のちにはマスケット銃やカノン砲などの火器で武装するようになった。19世紀前半に中央高地のメリナ王国は、30,000人程度の武装した兵士を動員して島の多くの部分を支配下におさめた。19世紀後半になるとフランスが沿岸の諸都市を襲撃する事態が何度かあり、その対策として当時の首相、ライニライアリヴニはメリナ王国軍の強化を補佐するよう、イギリスに懇請した。しかしながら、マダガスカルの軍隊は、イギリスの補佐があってもフランス軍の兵装に持ちこたえることができず、アンタナナリヴの王宮が砲撃を受けるに及んで降伏した。1897年にマダガスカルはフランスの植民地であると宣言された。マダガスカル軍の政治的独立と主権は、1960年のフランスからの独立により、回復した。このとき以来、他国との交戦の経験は皆無であり、領土内で戦闘になったこともないが、政情不安定になった際に治安回復のために介入したことは度々ある。第二共和制における社会主義政権下、ディディエ・ラツィラカ海軍大将は、すべての若者を性別に関係なく、徴兵するかもしくは社会奉仕に動員した。この政策は1976年から1991年まで実施された。現在のマダガスカル軍は、陸・海・空の三軍制で、すべてが内務大臣の指揮下に置かれる。内務大臣は、国家警察、国家憲兵(ジャンダルムリ)、秘密警察の責任者でもある。警察とジャンダルムリは、地域ごとに管轄が分かれ、担当地域の治安を担うこととなっている。しかしながら、2009年時点では、これら治安当局による役務の提供を受けることが可能だったコミューンは、全体の三分の一以下に過ぎず、部隊各々に用意されるべき現地司令部がまったく足りていない。マダガスカルには「ディナ(dina)」と呼ばれる、伝統的な地域社会の査問会が生きている。ディナは村の長老や、その他の尊敬を集める人物により取り仕切られ、政府の存在感が希薄な農村部においては、犯した罪に相応しい罰や取り扱いを与える手段として機能し続けている。歴史的に見て、島全土の生活上の安全は高い水準が保たれてきた。暴力犯罪の発生率は低く、犯行の大部分はスリや小額の窃盗などの機会的犯罪にとどまる。その一方で、児童買春、人身売買、マリファナその他の違法ドラッグの製造販売は増加傾向にある。2009年以来行われている予算削減が警察に及ぼす影響には厳しいものがあり、犯罪行為の急激な増加となって現れているとする見方もある。マダガスカルにおいては中央と地方のパワーバランスが焦眉の政治課題となってきたという歴史的経緯がある。フランス植民地時代の行政上の区画割を長く踏襲したのち、複数時にわたる改革が試みられている。直近では、2014年頃から再編に向けた法制化がすすめられている。2015年4月1日、内務・地方分権化省が制定した行政区画の創設に係る省令n°2015 – 593号により、Provinces(州) − Préfectures(県) − Districts(郡) − Arrondissements Administratifs(行政区) の四層構造とすることが定められた(同令第1章)。第一共和制の頃は、マダガスカルの経済計画及び経済政策にフランスが大きな影響を及ぼしており、フランスは主要な貿易相手国となっていた。主要生産物は、国家規模で生産者協同組合により耕作され、消費者協同組合を通して流通していた。米、コーヒー豆、家畜、生糸、パームオイルなどの商品生産を増大させるため、農村開発や国営農場などの政策が構想された。これらの政策に民衆が不満を募らせたことが、社会主義政権による第二共和制成立の主要因となった。第二共和制においては、それ以前にあった民営の銀行や保険会社が国営化された。また、繊維、紡績、電力といった産業で専売制が確立された。輸出入や海外への輸送も政府の管理下に置かれることになった。マダガスカル経済は急速に悪化した。輸出が激減し、工業生産が75%減となった。物価が高騰し、政府債務が増加した。農村人口は、村を維持できるぎりぎりのところにまで急速に減少した。輸出歳入の50%超が債務の支払いに充てられた。国際通貨基金(IMF)は、1982年に国家財政が破綻し始めた際、マダガスカル政府にプログラムと経済自由化を受け容れるよう強制した。そのため、国営企業は1980年代を通して徐々に民営化されていった。しかしながら、1991年に起きた政治危機は、IMFと世界銀行の支援が中止される要因となった。アルベール・ザフィは、国際的な支援以外の方法により収入を引き出そうとしたが失敗し、ザフィの弾劾後に暫定政府が成立して初めて、支援の再開を見た。IMFは、2004年、ラヴァルマナナ政権下、マダガスカルの債務の半分を帳消しにすることに合意した。2005年にマダガスカルは、緊縮財政と人権に関する基準を満たし、アメリカ合衆国の二国間援助協定のひとつであるミレニアム・チャレンジ・アカウントを享受する第1号国となった。2009年のマダガスカルの国内総生産(GDP)の推計値は、86億ドル、国民一人当たり438ドル。人口のおよそ69%が、1日あたり1ドルの国民貧困線以下で暮らしている。2011年時点で、農業部門はGDPの29%を構成し、製造業は15%である。経済成長の動力源は、観光、農業、天然資源抽出型産業である。観光業は、ニッチがあるエコツーリズム市場に注力しており、マダガスカルの特色ある生物多様性、自然を破壊しない暮らし、国立公園、原猿類に投資している。2008年には推計365,000人の観光客がマダガスカルを訪れたが、政情不安が原因で2010年には推計180,000人に減少した。2015年の経済成長率は年率3.1%で、人口増加率をかろうじて上回ったにすぎなかった。また、中華人民共和国との間の貿易が爆発的に増加し、貿易総額が1,010百万USドルに達した。独立来最大の貿易相手国であったフランスとの間の貿易総額は746百万USドルとなり、貿易首位国のはじめての交代を経験した。輸出部門は2009年時点で国民総生産GDPの28%を占める。国家輸出収入の多くは、繊維産業、魚介類、ヴァニラ、丁子、その他の食品から得られるものである。マダガスカルの貿易相手国は、フランスが主であるが、アメリカ、日本、ドイツもまた強い経済的結びつきを有する。2003年5月にマダガスカルの軽工業における熟練生産者とアメリカ合衆国国際開発庁の協力が実を結び、マダガスカル共和国とアメリカ合衆国の間でビジネスに関する協議会が発足、手工芸品の外国市場への輸出の支援が始まった。食料品、燃料、資本財、車両、消費財、電気製品といった輸入品目に対する消費は、GDPの52%を占めると推定されている。主な輸入元は、フランス、中国、イラン、モーリシャス、香港などである。マダガスカルの天然資源としては、さまざまな未加工の農産品や鉱物がある。ラフィア椰子栽培や漁業、林業を含む農業は、経済の大黒柱である。マダガスカルは、天然ヴァニラとクローヴ(丁子)やイランイランなどの品目で世界有数の供給元となっている。その他の主要農産品としては、コーヒー、ライチ、エビがある。主要鉱物資源としては、さまざまな宝石及び半貴石がある。1990年代後半にはイラカカ近くでサファイアの鉱脈が発見された。2001年現在、マダガスカルは世界におけるサファイアの供給の約半分を行っている 。マダガスカルには、世界最大の埋蔵量を持つイルメナイト(チタンの鉱石岩)鉱山がある。石炭、クロム鉄鉱、鉄鉱石、コバルト、銅、ニッケルに関しても、世界的に見て重要な鉱山がある。鉱業と石油・天然ガス部門においては、いくつかの大きなプロジェクトが進行中であり、これらはマダガスカル経済の大きな加速に寄与するものと期待されている。そのようなプロジェクトとしては、例えば、リオ・ティント・グループの子会社が進めるトラナルの近くの重金属砂鉱からイルメナイトとジルコンを掘り出すプロジェクトや、シェリット・インターナショナルが進めるムラマンガ近郊で抽出したニッケルをトゥアマシナで精錬するプロジェクトや、マダガスカル石油がツィミルルとベムランガで進める陸地での巨大な重質油鉱床の開発がある。2010年時点で、舗装済道路長は約7,617km、鉄道路線長は約854km、船艇の運行に供する河川の総延長は約432kmであった。マダガスカルにおける大部分の道路は未舗装であり、雨季には通行不能になるものが多い。国道は、六大地方都市と首都とを結ぶものは大部分が舗装されているものの、それ以外の町に通じるものについては一部が舗装されているか、もしくはまったくの未舗装の状態である。鉄道網に関してはフランス植民地時代に敷設されたものが残っており、アンタナナリヴとトゥアマシナが線路でつながっている。これの支線がアンバトゥンヂャザーカ及びアンツィラベへと接続する。これらとは別に、フィアナランツアと東海岸部のナマカラを結ぶ路線もある。マダガスカルにおいて最も重要な海港はトゥアマシナにある。マハザンガやアンツィラナナにある港は、首都圏からの距離の遠さゆえ、また、接続の悪さゆえに、あまり利用されていない。2008年にリオ・ティント社が私的に建設したエフアラ港は、マダガスカル島で最も新しい港であるが、2038年ごろにトラナルの近くで行われている同社の採掘プロジェクトが終了すると政府の管理下におかれる予定である。マダガスカルには、多数の小規模な地方空港がある。それらに就航しているマダガスカル航空は、道路が雨で洗い流されてしまう雨季に首都から離れた地方へアクセスする手段としては、唯一の実用的な交通手段となっている。上下水道と電力の供給は、国家レベルでは国営のジラマ社が担う。しかしながら、現時点では国民全体に行き渡らせるに至っておらず、2009年時点では全フクンターニ中、たったの6.8%だけが同社の供給する上水を利用可能であった。また、電力は9.5%のフクンターニが利用できたにすぎない。マダガスカルの総発電量のうち、56%は水力発電によるものである。残りの44%はディーゼルエンジンによりタービンを回して発電する方法により得られたものである。移動体通話とインターネットへのアクセスは、都市部で拡大しているが、地方においては限定的である。全島の約30%の地域で全国的に展開しているインターネッ
出典:wikipedia
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