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メジロライアン

メジロライアン(1987年4月11日 - 2016年3月17日)は、日本の競走馬、種牡馬。中央競馬クラシック三冠競走で惜敗を続けたのち、1991年の宝塚記念に優勝。大物感を漂わせる馬体や、反面の惜敗の多い成績から女性ファンを中心として人気を博した。のちに中央競馬の関東トップ騎手となる横山典弘に大きな影響を与えた馬としても知られる。1993年より種牡馬となり、GI競走5勝を挙げたメジロドーベル、天皇賞(春)優勝馬メジロブライトらを輩出。内国産種牡馬不遇とされた1990年代半ば以降に有力馬として活躍した。2007年に授精率低下のため種牡馬引退。半姉に重賞競走2勝のメジロフルマー(父ロンバード)と京都大障害(春)優勝馬メジロアニタ(父メジロエスパーダ)がいる。馬名は馬主メジロ牧場の冠名「メジロ」に、メジャーリーグベースボールの通算最多奪三振投手ノーラン・ライアンの「ライアン」を加えたものである。※馬齢は日本で2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一して記述する。1987年、北海道伊達市のメジロ牧場で生まれる。父は1980年代前半に八大競走で2勝を挙げたアンバーシャダイ。母系近親に1982年秋の天皇賞優勝馬メジロティターンなどがいる血統に加え、馬格は脚長で幅のある立派なものであり、牧場史上屈指の豊作年であった1987年生産馬の中でも特に高い評価を受けていた。しかし、管理調教師となる奥平真治は、自らの管理馬で非常に見栄えが良かったメジロアルダン(高松宮杯優勝、日本ダービー2着)と比較すると、首や脚が太く垢抜けない馬であると感じ、「並の馬で、そこそこの期待」と評価するに留まった。ただし、「もちろん、オープンにはいってほしい馬だったが」とも述べている。競走年齢の3歳に達した1989年7月、函館開催でデビュー。当初は柏崎正次が騎乗したが、道中で真っ直ぐ走らせることに苦労し、2戦を2、6着となった。その後骨膜炎を発症して休養に出されると、2カ月の間に馬体が著しく良化。復帰戦から、奥平の甥である当時4年目の若手騎手・横山典弘が騎乗した。緒戦は斜行癖を出して3着となったが、迎えた4戦目で初めて後方待機策を取ると、直線だけのひと捲りで先行馬を差し切り、初勝利を挙げた。その後条件戦5着(安田富男騎乗)を経て、鞍上が横山に戻った年末のひいらぎ賞で2勝目を挙げ、6戦2勝で3歳シーズンを終えた。明け4歳シーズンとなった1990年はオープン戦のジュニアカップから始動すると、デビュー以来3連勝中・クラシック候補の一角と目されていたプリミエールを破って勝利し、陣営はクラシックへの手応えを得る。続いて出走した皐月賞への前哨戦・弥生賞では、不良馬場で行われた中で後方に控えると、直線では密集した馬群をこじ開けるようにしながら一気に抜け出して優勝し、重賞初制覇を果たした。圧倒的な1番人気に推されていた前年の最優秀3歳牡馬・アイネスフウジンを4着に退けての勝利に、横山は「ゴールの瞬間、この先が全部見えた気がしましたね。皐月賞も、ダービーも」というコメントを残した。のちに横山は当時を振り返り、クラシックを意識したかとの問いに「全部勝てると思ったよ(笑)」と語っている。迎えた皐月賞では、混戦模様を呈す中でアイネスフウジンに次ぐ2番人気に支持された。しかしレースでは後方に控えると、最後の直線要所で進路を失う形となり、残り200mでようやく先頭を窺い追い込むも、ハクタイセイの3着に敗れた。明確な不利を受けての敗戦に、続く日本ダービーでは、売上げ・入場者数が史上最高を記録した中で1番人気に支持される。しかし今度はアイネスフウジンが後続を終始引き離し、レースレコードでの逃げ切り勝利を見せ、後方から追い込んだメジロライアンは2着に終わった。馬主のメジロ牧場にとっては、初代オーナーの北野豊吉所有馬であったメジロオーから数えて、これでダービー通算4度目の2着となり、横山は「北野のおばあちゃんに申し訳なかった」と語った。(競走詳細については第57回東京優駿を参照のこと)その後はクラシック三冠最終戦の菊花賞に備えて休養に入った。当初は8月の函館記念から始動の予定であったが、レースに向けての調整中に脚を捻って出走を回避する。態勢を立て直したのち、10月の京都新聞杯で改めて復帰。この競走では逃げたオースミロッチを直線だけで半馬身差し切り、重賞2勝目を挙げた。重馬場ながら優勝タイム2分12秒3はコースレコードであった。春のクラシックを制したハクタイセイとアイネスフウジンはいずれも故障で戦線を離脱しており、メジロライアンは名実ともに菊花賞に向けての最有力馬となった。11月4日に迎えた菊花賞では、単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された。しかし先行した新興勢力のメジロマックイーン、ホワイトストーンを捉えきれず3着に終わり、結局クラシックでは無冠に終わった。なお、競走前の調教でライアンは当時格下だったマックイーンに先着することができず、奥平は「菊花賞で負けるとすればマックイーンだろう」と予感していたという。年末にはグランプリ・有馬記念にファン投票第4位選出で出走。メジロマックイーンは「ライアンに勝たせたい」というメジロの意向を汲んだ管理調教師の池江泰郎が回避させていた。当日は菊花賞2着のホワイトストーン、厩舎の先輩馬メジロアルダンに続く3番人気に支持される。レースは4-5番手を進み直線で抜け出しを図ったが、数戦のスランプから本競走を最後に引退が決まっていた「怪物」オグリキャップの復活劇の前にまたも2着に敗れ、4歳シーズンを終えた。横山は「きっちり差せると思ったけど、オグリの底力の方が上だった」と述べている。翌1991年は得意の中距離戦である中山記念から始動するも、スローペースで逃げた牝馬のユキノサンライズを捉えきれず2着。熱発を経て臨んだ天皇賞(春)では、父子3代天皇賞制覇を成し遂げたメジロマックイーンを後方から追い上げた4着に終わり、競走後には横山典弘の騎乗問題に発展した。しかし周囲の説得もあって続投が決まり、春のグランプリ・宝塚記念に出走する。当日はマックイーンが圧倒的な1番人気、本馬は離れた2番人気であった。レースではこれまでの後方待機策ではなく、第3コーナーから一気にペースを上げて直線入り口で先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り、追い込んできたマックイーンに1馬身半差を付けて優勝、念願のGI制覇を果たした。しかし、夏に休養に入った先で屈腱炎を発症し、秋の目標とした天皇賞回避を余儀なくされる。年末の有馬記念で復帰するも12着と大敗し、翌1992年1月のアメリカジョッキークラブカップ(横山の騎乗停止で的場均騎乗)でも6着に敗れた。続く日経賞で2着に2馬身半差を付けて復活勝利を挙げるも、直後に屈腱炎を再発し、再度休養に入る。その後は前年回避の天皇賞(秋)を目指して復帰が図られたが、患部が回復することはなく、このまま競走馬引退となった。10月25日、東京競馬場で引退式が行われ、宝塚記念のゼッケン「1」を付けてラストランが披露されたのち、メジロライアンは種牡馬入りのため北海道へ戻った。メジロライアンの種牡馬入りに際して、メジロ牧場はシンジケートの組織を計画したが、勝ちきれなかった競走馬時代の印象に加え、「内国産の二代目は種牡馬として成功しない」という通説、バブル崩壊の影響などから会員集めには困難が伴った。一株480万円を50口、総額2億4000万円という安価に設定されたにも関わらず、種牡馬としての繋養を引き受けたアロースタッドがある北海道静内町の生産者からはほとんど相手にされず、募集地域を拡大してようやく満口となった。その内訳もほとんどは小牧場で占められ、一流牝馬との交配は見込めないものであった。しかし、1996年に初年度産駒がデビューすると、12月にメジロドーベルが3歳女王戦・阪神3歳牝馬ステークスに優勝して早々に産駒のGI初勝利を挙げ、ほかメジロブライトがラジオたんぱ杯3歳ステークスに勝利、エアガッツも3勝を挙げるといった活躍を見せ、内国産馬として七冠馬シンボリルドルフ以来6年ぶりに新種牡馬ランキングの首位を獲得。3歳総合ランキングでもブライアンズタイムに次ぐ2位を記録した。同年春時点の種付け料は初年度の150万円から60万円まで下落していたが、翌1997年春に行われた種付け株の競り市では、交配権が当年の内国産種牡馬最高額の613万円で取引された。輸入種牡馬の産駒や外国産馬が大勢を占めていた中で、内国産二代目であるメジロライアンの活躍は大きな注目を集め、戦後内国産種牡馬の道筋を開いたとされている五冠馬シンザンの種牡馬時代を手掛けた谷川弘一郎は、「日本の牧場で草を食んだ馬が日本の競馬を支えるのが理想。その意味ではメジロライアンの子がマル外(外国産馬)を敵に回して勝つことを期待しています。きっとシンザンも草葉の陰で喜んでいると思います」と語った。メジロドーベルとメジロブライトは翌年以降も活躍を続け、最終的にドーベルは牝馬として当時最多のGI競走5勝を挙げ、ブライトは1998年にライアンが勝てなかった天皇賞(春)を制した。産駒からのGI優勝馬はこの2頭のみとなったが、重賞勝利馬は以降もコンスタントに輩出し、メジロライアンは内国産の有力種牡馬としての地位を確立した。メジロ牧場専務の岩崎伸道は、「どんな繁殖牝馬が相手でも、ライアンに似た子が生まれてくるんですね。アンバーシャダイは骨質が非常に丈夫でライアンもその長所を受け継いでタフに走りましたが、産駒は外見だけではなくそうした内面の長所もよく受け継いでいます」と、その特徴を語っている。2006年に交配相手の受胎率が5割を切るという授精能力の低下が見られ、同年9月にシンジケートが解散。メジロ牧場の個人所有で翌2007年も種牡馬生活を続行したものの、11頭に種付けをしてすべて不受胎であった。これが決定打となり、この年で種牡馬引退となった。なお、メジロブライトが後継種牡馬となっていたが、2004年に10歳で死亡。唯一の重賞勝利産駒がせん馬(去勢された馬)であるマキハタサイボーグで、サイアーラインの継続はできなかった。種牡馬引退後はしばらくの間は故郷・メジロ牧場で功労馬として余生を送っていた。牧場での繋養のみならず、2007年、2008年、2010年にはそれぞれ函館競馬場で催されたイベントに参加し、競走用の馬装に、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着けた姿が一般ファンに披露された。いずれの年もメジロの勝負服を着用した横山典弘が騎乗し、本馬場に出てキャンターを披露。20歳を超える年齢ながら横山が「飛ばし過ぎちゃったね」と苦笑いするほど軽快な走りを見せた。2011年にメジロ牧場が閉鎖されると、レイクヴィラファームへ移動しそこで余生を送っていた。2016年3月17日に老衰で死亡した。遺体は6月21日に、横山典弘騎手の資金提供でレイクヴィラファーム内に建立された墓に納骨された。実力は認められながらも惜敗続きであったことから判官贔屓的な人気を博し、人気面ではGI4勝を挙げたメジロマックイーンを凌ぐともされた。特に女性人気が高く、その母性本能をくすぐったためであるとも言われる。作家の典厩五郎は「めっきり弱くなった関東馬の期待の星だったからではないか」としている。また、ノンフィクション作家の後藤正治は「詰めに甘さを残す馬ではあったが、雄大な馬格に、なお底の見えない魅力を秘めていた。出走すればいつも人気になったのはそのせいであったろう」と述べている。なお、JRAが制作したポスター「ヒーロー列伝」のキャッチコピーは、「本当の強さは、誰も知らない」というものであった。2000年に日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」では、ファン投票により第51位に選出されている。主戦騎手を務めた横山典弘は、当時デビュー4年目の若手騎手であり、その心技の成長にメジロライアンが大きく関わった。当時の横山はその騎乗技術を高く評価されていた一方、素行が悪く、問題児としても知られていた。そうした中で素質馬のメジロライアンを任され、自ら「ライアンが一番強い」と発言を続けながら、時に騎乗ミスもあり敗戦を重ねたことが、自身を見つめ直すきっかけとなった。後にメジロライアンの引退式で挨拶に立った横山は「ライアンの仔に乗ってGIを勝ちたい」と語りながら、衆目の中で涙を流した。横山はこの理由について、「ひどく寂しかった」と述べている。ライターの須田鷹雄はこの出来事を評して、横山の涙の性質には「自分を育ててくれた馬に対する涙」と「馬に十分なことをしてやれなかったという悔いを含んだ涙」の二つがあるとし、特に後者に注目して「つまり、活躍していた頃のライアンですら、さらなる可能性を残していたということだ。しかもそれは、『横山典が泣くほどのこと』なのだ。ひょっとするとメジロライアンは、史上有数の未完の大器なのかもしれない」と述べている。横山は『名馬列伝メジロライアン』の発刊に際して行われたインタビューにおいて、ライアンが一番強いという思いは変わらないかとの質問に「ええ、全然変わりません」と述べた。横山は後年、メジロライアンが自身に与えた影響について、次のように述べている。4歳時に有馬記念で2着となった際、フジテレビ『スーパー競馬』で解説を務めていた大川慶次郎が、レース最後の直線で「ライアン!」と叫ぶ声がマイクに拾われ、全国に放送された。解説者の声が実況に混じるという事は非常に珍しく、またこの後、優勝したオグリキャップのファンであった明石家さんまが、「ビデオ録画していたら、変なおっさんが『ライアン』と叫んでた」と自らの番組で話の種にしたほか、1990年12月24日(クリスマス・イブ)の『笑っていいとも!イブ特大号』ではさんま自ら大川のものまねで『クリスマス・イブ』(山下達郎)を歌ったことから競馬ファン以外にも知られるところとなり、この競走が語られる際に必ず付いて回るエピソードとなった。大川自身はライアンがオグリキャップに勝てるとは思っていなかったといい、その上で実況の大川和彦がオグリキャップの名前しか呼んでいなかったため、「放送している以上、2着も言わなきゃいけないでしょ。残るライアン、きっとライアンって」というつもりで叫んだという。また大川はこの出来事について、著書の中で「"ライアン"という名前は、4文字で最後が"ン"なので力が入りやすく、叫びやすい語感であったことも、あれだけ話題になったひとつの要因だったかもしれません」と述べている。このエピソードを除いても、ライアンは大川の気に入っていた馬であった。大川は馬格が貧弱ながら第一線で活躍していたアンバーシャダイを気に掛けており、その父に瓜二つで、なおかつ父が持っていなかった立派な体格を備えていたメジロライアンを「アンバーシャダイの理想型」と見ていた。さらに1989年に腎臓摘出手術を受けた後に落ち込みが続き、「もう競馬を見られるかどうか分からない」と考えていた頃、ライアンが勝った弥生賞を見たことで「もういっぺん競馬をやりたいなって気になった」といい、「落ち込んだときにね、僕を奮い立たせてくれたのがライアンなんです。やっぱり、何て言うかな、僕にはライアンが切り離せないんだなあ」と述べている。近親には祖母シェリルの産駒に、天皇賞を勝ち、種牡馬としてもメジロマックイーンを輩出したメジロティターンがいる。

出典:wikipedia

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