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蝋山政道

蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者、政治家、お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。長女雅子は中央公論社嶋中鵬二元社長の妻で、嶋中事件で負傷した。新潟県刈羽郡鵜川村生まれ。群馬県高崎市で育つ。1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。在学中に吉野作造の影響を受け東大新人会に参加、政治学の研究を志す。特に雑誌『社会思想』の同人であった河合栄治郎のすすめから、イギリス社会主義の研究をはじめ、その後の民主社会主義理論家としての素地を作る。1920年7月大学を卒業と同時に法学部助手に採用、1922年同助教授を経て、1928年教授に任官。1927年からは新設された行政学講座を担当する。1939年4月に行なわれた東大経済学部の人事処分(平賀粛学)をめぐり、親交のあった河合栄治郎が休職処分とされたことに殉ずる形で抗議の辞任を行い、大学在職時から続けていた雑誌等での言論活動に主軸を移す。政治的には二・二六事件に際して『帝国大学新聞』に軍部批判の論説を掲載するなど、軍部に対して批判的な姿勢を見せたが、一方で社会大衆党などの右派無産政党や近衛文麿に接近し、1934年5月、当時貴族院議長の近衛が親善特使として米国に派遣された際にも同行している。また、1930年代の政党政治の行き詰まりや軍部台頭のなかで国内政治体制の刷新のため「立憲独裁」を提唱して近衛のブレーン組織である昭和研究会設立構想に参加、日中戦争下の1938年には『改造』に掲載した論説により「東亜協同体」をめぐる論争の口火を切った。1942年4月の翼賛選挙では近衛や井上房一郎の勧めを受けて推薦候補として群馬二区に立候補、衆議院議員に当選する(任期途中で翼賛政治会を脱会し、翼壮議員同志会に参加)。また、戦時期にはフィリピンの軍政監部顧問であった村田省蔵の指名により、大学以来の旧友・東畑精一とともに占領地の調査に参加した。終戦直後の1945年9月に議員を辞任し、中央公論社副社長・『中央公論』編集主任に就任するが、1946年11月には言論活動に専念するため辞職している。また、1947年には公職追放を受けたが、翌年には追放を解除された。この追放にあたっては木村健康・丸山真男・辻清明らが追放解除の嘆願書を占領軍に送っている。1948年に日本政治学会理事に就任したのちは要職を歴任し、1949年に公益事業学会理事長に就任、1950年には自らが主導して日本行政学会を設立、初代理事長になった。大学教育にも復帰し、1950年1月にはお茶の水女子大学学長に就任、1959年12月まで務めた後、1962年4月から国際基督教大学教授に就任、同大の大学院行政学研究科設置に協力した。この間も学外の要職を歴任し、民主教育協会会長(1954-1962年)、東京都教育委員長(1968-1979年)のほか、中央教育審議会委員(1969年就任)・NHK番組審議会委員(1959年就任)・憲法調査会委員(1957年就任)・第一次臨時行政調査会(第一次臨調)委員(1962-1964年)をはじめとする各種委員を務めた。また1951年からは民主社会主義連盟理事長として社会党右派の政策路線を学問的・理論的にサポートしており、1960年の民主社会党結成時には執行委員長への就任も取りざたされたが、蝋山はこれは辞退した。しかし、民社党結成と同時に発足した同党の政策を理論的に補完する民主社会主義研究会議の議長に就任し、理論的イデオローグとして特に日米安保肯定論で民社党の外交・防衛政策を理論づけたことは有名である。1966年4月勲一等瑞宝章を受章し、1968年には日本学士院会員となるが、1980年急性心不全で死去する。戦前・戦後を通じた研究者・言論人としての旺盛な活動、現実政治への関与から今日も蝋山に対する関心は高く、「行政学研究のパイオニア」「1930年代を代表する『革新派』知識人」などの視点から蝋山自身を対象とする研究が蓄積されている。また、蝋山が端緒をつけた行政学研究は、蝋山の講座を継承した辻清明や今村都南雄らによって継承発展することとなる。蝋山は六人兄弟の長男で、弟には講座派マルクス経済学者・京都大学教授の山田勝次郎(二男)、アジア・アフリカ問題評論家の蝋山芳郎(五男)がいる。生前蝋山は「蝋山家は子沢山で、左は共産党から右は自民党までいる。いきおい長男の私は(中間の)民主社会主義でいくことになる」とよく冗談で語ったとされる。国際政治学者・上智大学名誉教授の蝋山道雄は長男、生物学者・カナダ国立海洋森林研究所所長を務めた蝋山朋雄は二男。中央公論社社長を務めた嶋中鵬二の妻雅子は長女。

出典:wikipedia

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