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ハリイ・ハリスン

ハリイ・ハリスン(Harry Harrison, 1925年3月12日 - 2012年8月15日)は、アメリカ合衆国のSF作家。代表作として《ステンレス・スチール・ラット》シリーズや映画『ソイレント・グリーン』(1973)の元となった『人間がいっぱい』(1966) がある。編集者になる前にまずイラストレーターとしてSF業界に関わるようになった。特に、ECコミックで2冊のSFコミック " と " でイラストを描いていた。雑誌編集では Wade Kaempfert とか Philip St. John といった名前を共同で使っていた。1948年、SF関係者の集まりであるヒドラ・クラブが設立されるとそこの会長になるが、数年で権力争いに破れ除名された。初めはギャラクシィ誌にイラストを寄稿し、小説を書き始めたのは喉の病気によって絵が描けなくなったことによってSFを書き始めたからである。Felix Boyd、レスリー・チャータリス(ゴーストライターを務めた)、Hank Dempsey といった名前でも小説を書いた。SFは風刺の効いたユーモラスなものが多く、《ステンレス・スチール・ラット》シリーズや(ハインラインの『宇宙の戦士』を風刺した)『宇宙兵ブルース』が好例として挙げられる。1950年代から60年代にかけて新聞連載漫画の「フラッシュ・ゴードン」のメイン作家として活動していた。その脚本の一部は雑誌連載にも採用されている。科学的正確さを保証すべく、ハリスンは大まかなスケッチをアーティストに提示していたが、アーティスト側は無視することが多かった。1960年に、アナログ誌に連載した最初の長篇『死の世界』が、その年のヒューゴー賞候補にノミネートされ、気鋭の新人として一躍注目を浴びることになる。コミカルな作品が多いが、時にはシリアスなテーマの作品も書いている。例えば、人口爆発と資源の枯渇を扱った『人間がいっぱい』が有名で、映画『ソイレント・グリーン』の元になっている(ただし設定だけが共通で、テーマやプロットは全く異なる)。1964年には親友ブライアン・オールディスと組んで、自費出版の評論誌「SFホライズン」を起こし、旧態に囚われたSFに対する批判をした。また、2人でアンソロジーの編集も精力的に行った。ハリスンは評論においては、前衛的なニュー・ウェーブ系の作品を支持したが、自身が書く小説は、シニカルな冒険小説的なSFか、ユーモアSFであった。またレオン・ストーヴァーと共に、1973年に国籍を問わずに最優秀SF長篇に与えられるジョン・W・キャンベル記念賞を創設した。1990年、ジョー・ホールドマンらと共に第48回ワールドコンのゲスト・オブ・オナーとして招待された。なお、パロディ作品『銀河遊撃隊』『宇宙兵ブルース』や『テクニカラー・タイムマシン』を翻訳した翻訳家の浅倉久志は、「自分が翻訳した作家で一番好きなのはハリスン。好きな作品は『宇宙兵ブルース』」と語っている。晩年に至るまで、ハリスンは世界SF会議の組織者の一人として活躍する傍ら、精力的に小説を書き続けた。2009年、アメリカSFファンタジー作家協会からデーモン・ナイト記念グランド・マスター賞を授与された。2012年8月15日、死去。。ヘンリー・マクスウェル・デンプシー (Henry Maxwell Dempsey) としてコネチカット州スタンフォードのロシア系ユダヤ系のアメリカ人家庭に生まれる(30歳のとき、法律上の名前を Harry Max Harrison に改名)。7歳のときからSFファンだった。1943年に召集され、第二次世界大戦中は空軍で整備兵・砲術教官として軍務に就く。復員後、ニューヨークのハンター大学に入学して水彩画を学んだ。アメリカを出て各国(メキシコ、イングランド、デンマーク、イタリア)に暮らすが、アイルランドに落ち着く。イングランドに出かけたときのためにブライトンにもアパートを借りている。彼はエスペラントの愛好家であり(エスペラントは、『死の世界 2』など彼の小説にはしばしば登場する)、アイルランド・エスペラント協会の名誉会長を務めたこともある。また、Esperanto-USA の名誉会員、世界エスペラント協会の役員でもある。1954年、ニューヨークで結婚。妻は2002年に癌で亡くなった。子供は2人いて、『人間がいっぱい』はこの2人に捧げられている。ほか未訳作品多数。

出典:wikipedia

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