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西条藩

西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩。藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。江戸時代初期には外様大名の一柳氏が治めたが3代約30年で改易。その後徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。寛永13年(1636年)、伊勢神戸5万石の領主であった一柳直盛が、1万8000石の加増を受け、計6万8000石で西条に転封となる(このうち5000石を次男直家に分与しているため、6万3000石と記されることもある)。これにより伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡および播磨国加東郡にまたがる所領を持つ西条藩が成立するが、直盛は同年、入封の途上大坂において没した。直盛の遺領は3人の息子によって分割され、嗣子直重が3万石を相続して西条藩主となり、次男直家が2万8000石(伊予川之江藩→播磨小野藩)、三男直頼が1万石(伊予小松藩)の大名となった。直重の子の直興は、弟の直照に5000石を分与し、西条藩は2万5000石となる。しかし寛文5年(1665年)、直興は職務怠慢や失政などを理由として改易処分を受け、西条は一時公儀御料となった。5年の空白を経て、寛文10年(1670年)紀伊国紀州藩初代藩主徳川頼宣の三男松平頼純が紀州藩の支藩として3万石で入封。紀州徳川家(紀州藩主家)が絶えた場合に備えた。第2代頼致は紀州藩主徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家・紀州藩主を継いだ。松平家は参勤交代を行わない定府の大名だった。元禄7年(1694年)には藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が高田馬場の決闘を行い、堀部武庸の助太刀で評判になった。藩主松平家は徳川一門の親藩でありながら、明治維新の際にはいち早く新政府に恭順の姿勢を示し、官軍として戊辰戦争に参戦。明治2年(1869年)の版籍奉還と同時に最後の藩主松平頼英は藩知事となり、華族に列している。明治4年(1871年)廃藩置県により西条県となった。のち、松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入された。明治17年(1884年)の華族令で頼英は子爵に叙された。外様 - 6万8千石→3万石→2万5千石(1636年 - 1665年)親藩御連枝 - 3万石(1670年 - 1871年)※全藩主が左近衛権少将に任命されている。

出典:wikipedia

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