石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や 海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。大名をはじめとする武士の所領からの収入や俸禄を表す場合も石高を用いた。特に領民の場合には「百姓高所持(ひゃくしょうだかしょじ)」、武士(特に大名)の場合には「石高知行制(こくだかちぎょうせい)」と称されることがある。明治時代の地租改正まで続いた。一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していた。江戸時代の軍役令によると、大名は幕府の命に応じて表高1万石あたり概ね2百人程度の軍勢(非戦闘員を含む)を動員する義務を課せられていた。ただし石高は一般に玄米の体積を元に算出するのが常であり、実際には成人男性であれば1日玄米5合、年間玄米約1.8石が標準的な扶持米として支給されていた。なお、農民に対する年貢徴収は原則としては石高を元にしているものの、初期の検地が年貢の徴収よりも領主の領知高及びそれに基づく公儀への諸役負担を確定させることを目的としていたことや村請制のもとで重視されたのは村単位の石高(村高)であったことから、個々の農民に対する年貢徴収基準として石高が用いられるようになったのは17世紀後期以後とされている。実際に江戸時代の土地証文に石高の記載が登場するのは寛文・延宝年間が上限とされ、それ以前の農民生活において石高は身近な概念ではなかったとみられている。"江戸幕府開府直後の一部旧国の郡別石高・正保以降の全国の郡別石高の"以下に太閤検地高(慶長3年(1598年)の石高)、慶長郷帳記載の石高に近いと考えられる江戸時代初期高、寛永十年巡見使国絵図記載の石高、正保郷帳・元禄郷帳・天保郷帳記載の石高、地租改正直前の明治5年(1873年)の石高をまとめる。寛永以前に関しては国高、正保以降に関しては国高・郡高までを記載する。陸奥国、出羽国については領分別(ここでいう領分とは郷帳・国絵図作成のための地区分担を指し、実際の藩の所領とは異なる)と明治以降に新設された旧国(磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥国・羽前国・羽後国)別の石高集計も記載する。一部地域では明治に至るまで貫高制が敷かれていたが、本表では奥州仙台領の正保郷帳の貫高に限り石高に換算し(高1貫文 = 高10石)、関東・東海地方の永高・金高は石高に換算しなかった(通常は高永1貫文 = 高金1両 = 高5石)。なお1 石 = 10 斗 = 100 升 = 1,000 合 = 10,000 勺 = 100,000 才 (撮) = 1,000,000 毛 (弗, 扎) であり、石よりも下の桁は石を単位とする小数で示す。江戸幕府開府直後の一部旧国の郡別石高と、正保以降の全国の郡別石高については旧国郡別石高の変遷の項を参照。太閤検地は天正10年(1582年)に始まり、慶長3年(1598年)まで再検地を含めて全国で実施された。文禄2年(1593年)の年次の入っている『大日本六十六国並二島絵図』、文禄3年(1594年)の石高を記載している『当代記』、慶長3年(1598年)旧暦8月の年月の入っている『日本賦税』など、国高を記載する複数の史料が知られているが、その数字にほとんど差異はなく、ほぼ同一の史料からの引用と思われる。なお出羽国の石高は明らかに異常であるが、置賜郡などの上杉景勝の出羽国内領分が陸奥国の石高に加算されている可能性が指摘されている。。慶応9年(1604年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳と国絵図の提出を命じ、慶長15年(1610年)までに上納が完了した。しかしながら慶長郷帳・慶長国絵図の正本は現存せず、郷帳の写本は飛騨国、壱岐国、大和国の3国分、国絵図の模写は西国の11国1島分に限られており、郷帳・国絵図の提出が命じられたのは西日本のみではないかとする説もあり、慶長郷帳・国絵図製作の全容は不明な点が多い。郷帳には田畑内訳を含めた村高と物成が列記され、領知関係や、必要に応じて小物成高、寺社領高、荒地・損害等の付記が行われているが、新田高の記載はなく、使役や格式等を決める表高と内高の乖離が始まっている。本表では島原松平文庫『御当家雑記』収録「日本国知行高之覚」記載の江戸時代初期高を仮に慶長郷帳高とする。「日本国知行高之覚」には出羽国高について「内拾万石上杉弾正分入」との注釈があり、上杉景勝が慶長14年(1609年)に10万石の軍役を免除されたことと関係すると思われる。なお徳川所領を中心に幾つかの国で石高が減っているが、これは再検地の際に石盛が改訂されたことや、表高優先の石高を設定したことと関連する(#石高における田畑、新田高の割合と実体経済参照)。また国境も頻繁に変えられており、例えば西宮市立郷土資料館蔵『慶長十年摂津国絵図』によると摂津国石高は29万0068石6斗、外に欠郡内東成6万1080石が河内国御帳入とあり、慶長年間中頃から寛永年間まで一時的に淀川以東の闕郡(住吉郡・東成郡と西成郡の一部)が河内国に編入され、正保年間前には再び摂津国所属となったことが判る。寛永10年(1633年)に幕府から諸国へ巡見使が派遣された際、諸国の有力大名より国絵図が徴取された。国絵図の徴収は前年の寛永9年(1632年)に突然命じられたものであったため、大部分の諸藩は慶長国絵図の写しを提出したとみられ、石高が実際に増えた国は、三河国、陸奥国、越後国、対馬国に限られる。寛永十年巡見使国絵図の正本は現存しないが、国絵図の模写は岡山大学附属図書館の池田家文庫に尾張国・播磨国の2国分を除いてほぼ完全に伝わっており、本表に寛永十年巡見使国絵図記載の石高をまとめる。正保元年(1644年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳と国絵図の提出を命じ、慶安4年(1651年)頃までには上納がほぼ完了したとみられる。正保郷帳の正本は現存しないが、郷帳の写本は副本等を含めて33国36点が残存している。正保郷帳には田畑内訳を含めた村高が列記され、領知関係や、必要に応じて小物成高、寺社領高、荒地・損害等の付記が行われている。また表高(拝領高、朱印高)に相当する本田高(本地高)の外に、新田高の併記もあるが、正保郷帳の国高・郡高はあくまでも表高を原則とする。また正保国絵図の模写も22国2点が残存しており、郡別村数、郡別・領分別石高等が記載されているが、新田高は原則として記載されていない。正保郷帳記載の本田高に新田高を加算することで内高(実高)を算出することは可能であるが、本表ではあくまでも表高の集計値を正保郷帳高として扱う。なお現存する正保郷帳分だけで新田高を合算しても100万石前後となり、表高と内高の解離がかなり進んでいたといえる。また正保郷帳・国絵図が残存していない旧国については、前後に作成された郷村帳などから推計された石高を掲載しており、今後の研究により数字が変わる可能性もある。元禄10年(1697年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳と国絵図の提出を命じ、元禄15年(1702年)頃までには上納がほぼ完了したとみられる。元禄郷帳では記述が簡素化され、国郡村別の石高のみが記載された。元禄郷帳・元禄国絵図共に正本は現存しないが、写本・副本は多数残存している。正保郷帳と同様に石高は表高を原則とする。天保2年(1831年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳の提出を命じ、天保5年(1834年)までに上納が完了した。続いて天保6年(1835年)、国絵図の改訂を命じ、天保9年(1838年)までに上納が完了した。天保郷帳・天保国絵図の正本は全て明治政府に引き継がれ、国立公文書館に保存されている。天保郷帳を作成するに当たり、幕府は表高(拝領高)に込高、新田高、改高を加えて集計した内高(実高)の報告を要求しており、天保郷帳記載の数字は全て内高である。ただし諸藩は内高報告には極めて慎重であり、例えば長州藩では支藩を含めて防長領国の総内高を97万0941石8斗1升5合5勺1才と把握していたが、幕府には寛政4年(1792年)の内検高89万4282石1斗を報告した。また薩摩藩は表高をもって内高であるという建前を貫いているなど、天保郷帳には各藩が把握していた内検高とは異なる内高がかなり掲載されている。明治6年(1873年)より大蔵省租税寮が主導となって地租改正が実施されるが、直前の明治5年(1872年)末の全国の石高の状況が各府県より租税寮に報告されている。明治初期の石高については複数の統計資料が現存するが、東京大学史料編纂所蔵『郡村石高帳』、太政官正院地誌課編『日本地誌提要』、内務省地理局『地理局雑報』、一橋大学附属図書館社会科学統計情報研究センター所蔵『明治六年国郡高反別調』、陸軍参謀局編『明治八年 共武政表』等に記載されている旧国別石高はほぼ同一であり、これらを明治5年石高としてまとめる。なお同様に明治初期の石高を記載する史料として明治10年代初期に内務省地理局地誌課によってまとめられた『旧高旧領取調帳』が存在するが、この史料は廃藩置県前に各府藩県がまとめた明治3年以前の石高、廃藩置県後に政府の統一基準で各府県が算出し直した明治4年、明治5年の石高、地租改正の途中で算出し直した明治6年以降の石高など、複数の基準による石高統計が混ざっている。以上のほかに参考として、享保6年(1721年)に徳川吉宗の命で各地より報告された田畑の耕地面積をまとめた『町歩下組帳』記録の旧国別田畑数を本表にまとめる(同時にまとめられた人口調査については江戸時代の日本の人口統計#旧国別調査人口の変遷の項を参照)。なお面積の単位は1町 = 10 段 (反) = 100畝 = 3,000 歩 (坪) = 30,000 合 (厘) = 300,000 勺 (毛)と十進数ではない換算が含まれており、町・歩の二組の数字を掲載する(例えば山城国の田数11,405.8311.20は1万1405町8段3畝11歩2合0勺を意味する)。なお松前島(蝦夷地)・北海道は元禄郷帳、天保郷帳、明治5年調の『郡村石高帳』において無高とされているが、明治5年の物産高は『日本地誌提要』によると65万0286石6斗8升4合7勺2才である。この物産高は鮭6000尾、鱒1万2000尾、その他の水産物2万5000斤につきそれぞれ100石で換算することで算出されている。正保郷帳には田畑・新田高の記載がある。以下に正保郷帳やそれに近い写本によって、正保年間前後の一国全域(陸奥国に関しては六分割された担当地区)の田方・畑方の石高や新田高の何れかが判別する旧国の石高をまとめる。但し、貫高・永高・反高、その他石高で表記されていない金・銀・銭・米・茶・綿・麻・漆・材木類・塩・魚介類などの小物成高は省略する。耕地面積の内、田方・畑方の面積の割合はそれぞれ55%、45%であるのに対し(享保6年反別)、田畑の石高の内、田方・畑方の割合は全国的にそれぞれ約70%、約30%であり(正保郷帳石高)、石高は米に偏重する傾向があるとはいえ、米の収穫高を表すものではない。また新田高は、正保郷帳での新田高の記載が判明している地域の表高約1192万石に対して約95万石である。ただし『寛永期奥州之内南部領高郷村帳』の奥書によると、南部藩の内検では内高22万0400石余を集計していたが、幕府の指示により正保4年(1647年)に領地高10万0550石余に割り込ませた郷帳と国絵図を提出したとしている。また尾張藩は正保元年(1644年)、年貢据え置きのまま税率を六公四民から四公六民に下げる高概(たかならし)を行い、尾張八郡内の尾張藩領本田高を48万3252石0斗2升3合から63万1528石9斗3升6合、新田高を2万9682石4斗1升4合から3万3571石2斗2升5合と、太閤検地時代の石高に修正している。しかしながら幕府には慶長12年(1607年)に実施された備前検地の石盛に基づいた本田高・新田高を正保郷帳・国絵図に記載する石高として報告している。飛騨国においては、慶長郷帳と正保国絵図で国高が全く同一の3万8764石4斗であるが、内高の方は慶長18年(1613年)の時点で4万5789石8斗4升3合8勺(高山市郷土館蔵『飛騨国三郡高之帳』)、寛文4年(1664年)の時点で5万2808石5斗余(加藤歩簫著『紙魚のやどりぎ』)となっている。石高自体は決して大きくないが、割合ではそれぞれ18%、36%の増石に相当する。長州藩の『寛永2年周防国長門国村一紙』によると、寛永(1625年)の熊野検地により周防国内高37万3040石8斗8升2合、長門国内高28万5258石4斗4升9合、二国合計65万8299石3斗3升1合を集計している。これら奥州南部領・尾張・飛騨・周防・長門の新田高等約60万石は正保郷帳から漏れており、幕府に報告が上がっていない新田高は正保郷帳・国絵図作成時にも既に相当数存在するとみられる。また18世紀以降は検地の実施も減り、特に天領では内高(実高)であっても実際の土地生産性よりも過小評価となっているのが常であった。地租改正直前における日本全国の石高は3237万石であったが、『明治七年 府県物産表』によると明治7年(1874年)の米の生産高は2591万石、その物産額は1億4279万円であった。また農林水産業・鉱工業の全物産額3億7230万円(土木建築業や商業・サービス業などが含まれておらず、総生産高ではない)を平均米価で換算すると6756万石に相当する。なおこの物産表には北海道・沖縄県と独立国家状態であった鹿児島県(現宮崎県を含む)の統計が含まれていないが、大蔵省編『開拓使事業報告 第三編』によると北海道の明治7年(1874年)の物産額は339万8088円(陸産27万6736円、海産312万1353円)とあり、平均米価で換算すると物産高約60万石に相当する。また『旧鹿児島藩産物出入比較表』によると奄美・琉球の黒砂糖の生産高は明治2年(1869年)に2292万3千斤、代金85万5千両とあり、明治7年の砂糖と米の平均物価で黒砂糖の生産高を換算すると物産高約90万石に相当する。このように時代が下るにつれ石高と実体経済の乖離がますます進行したといえる。上記のように日本の総石高は天保期において3055万8917石を計上したが、天保13年(1842年)における所領別石高は以下の通りであった。一般に「徳川八百万石」と呼ばれるが、これは旗本領などを加えた数字であり、実際の天領は約400万石を少し超える程度であった。これには大名預所も含まれる。また18世紀以降の天領の石高の変遷は以下の通りである。以下に幕末における公称の表高が10万石以上の藩について、その表高、内高(実高)と旧国別所領をまとめる。なお御三卿の幕府天領からの立藩は明治維新以降であり、本表には含まれない。また喜連川藩を10万石格とする文献もあるが、幕末の「万石以上分限帳」などに漏れていること、諸役負担の義務を免除されていることなどから表から除外した。
出典:wikipedia
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