ガロピン("Galopin"、1872年 - 1899年)は、1870年代に活躍したイギリスの競走馬・種牡馬。1875年のエプソムダービー優勝馬で、大種牡馬セントサイモンの父として知られている。自身もイギリス種牡馬チャンピオン3回、母の父としても3度首位になっており、優れた種牡馬であった。ガロピンは1872年にウイリアム・テイラー・シャープによって生産された。当初は低い評価しかされておらず当歳時には僅か100ギニーで売却されており、イヤリングセールにて売り出されるとハンガリーの貴族バッチャーニ・グスツァフによって520ギニーの掘り出し価格で購入されている。その後バッチャーニの専属調教師ジョン・ドーソンによる調教を受け、たくましい馬体の持ち主に成長した。エプソムでデビュー戦を迎えると引退までに11戦10勝の成績を残した。唯一の敗戦は馬場に脚をとられたミドルパークプレートのみで、2歳時はハイドパークプレート、フェルンヒルステークス、ニューステークスと連勝し6戦5勝。翌3歳になると強さに研きがかかり初戦のマッチレースを8馬身差で圧勝、唯一クラシック登録を行っていたエプソムダービーに向かった。バッチャーニは三冠路線にはあまりこだわっておらず、2000ギニー、セントレジャーステークスには登録されていなかった。エプソムダービーでは一番人気に押された。しかし、前日ミスで冷たい水を与えてしまい体調を崩してしまう。焦ったジョン・ドーソンはガロピンに毛布を掛け翌日のダービーに臨んだ。この甲斐あってか翌日体調を持ち直すと、直線で後続を完封し第96代エプソムダービー優勝馬になった。この後ニューマーケットダービーで同世代のセントレジャーステークス優勝馬クレイグミラーを下し同世代では抜けた強さがあることを証明している。バッチャーニはこのころ心臓を悪くしており、お気に入りのガロピンが負ける姿を見せたくないというドーソンの配慮によってこの年限りで引退し種牡馬となった。なお、同世代のハンプトンとは、ハンプトンが当時下級戦を抜け出せず、先にガロピンが引退したため未対戦に終わった。現役時代は優れた成績を残したガロピンだったが種牡馬となってからは一転不調に陥る。血統が悪かったこと、気性難で知られていたブラックロックやヴォルテイアーの強いインブリードを持つこと等が嫌われ種付数は年に10数頭、馬主のバッチャーニの持ち馬との交配ばかりだった。1887年には後から種牡馬入りしたハンプトンに先に種牡馬チャンピオンの座を取られている。しかしガロピンは不利な情勢から徐々に成績を伸ばし1883年には2000ギニーに勝ったガリアードを送り出した。さらに翌1884年にはセントサイモンが圧倒的なパフォーマンスを見せ着実に大種牡馬の道を歩いていった。1888,89年にはついにリーディングサイアーを獲得したが、翌年には産駒のセントサイモンが僅か2世代のみでリーディングサイアーを奪取、以後7年連続(計9回)のリーディングサイアーになっている。ガロピンはセントサイモンが大成功を収める中1899年に28歳で死亡。死の前年の1898年には高齢ながらセントサイモンを破りリーディングサイアーに返り咲いた。また、死後1899,1909,10年にリーディングブルードメアサイアーを獲得している。産駒はセントサイモンの他にもガリアードが種牡馬として成功し、ガロピンの直系は大繁栄したが、ガロピン・セントサイモン親子があまりに成功しすぎたために起きた「セントサイモンの悲劇」の影響で一時イギリス国内で滅亡するに至った。現在タップダンスシチー、プレザントリーパーフェクトを初めとしたリボー系等が末裔として残っている。ガロピンのサラブレッドへの影響力はかなりのもので、後にセントサイモンを経由し全てのサラブレッドにその血が浸透した。ただし、セントサイモンを抜きにしても相当の種牡馬だった事は確かで、ガリアード、フライングフォックス、バヤルド他を通じて、セントサイモンを経由する血量とほぼ同等の血量を残している。ヴェイエは自身のドサージュ理論中でセントサイモンに継ぐ2番目の値を与えた。筋骨隆々ながら均整の取れた馬体で、体高は15ハンド3 1/2インチ(約161.3 cm)。ホモ鹿毛(EE,AA)であるなど多くの点で息子セントサイモンと共通している。精力も強く、共に27歳まで種牡馬をしていた。手に余る気性難の持ち主である点もセントサイモンと同じである。
出典:wikipedia
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