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NINTENDO64

NINTENDO64(ニンテンドウろくじゅうよん)は、任天堂株式会社が1996年に発売した家庭用ゲーム機。スーパーファミコンの後継・次世代機種であり、略称は「64(ロクヨン)」、「N64」など。生産は既に終了しており、2007年10月31日をもってファミリーコンピュータ、スーパーファミコン等と共に公式修理サポートを終了した。NINTENDO64で発売されたゲームソフトの一部は、Wiiのゲームソフト配信サービスであるバーチャルコンソールで購入・プレイすることが可能である。1990年代中期に「次世代機」と呼ばれたゲームハードの一つで、任天堂としては初めて本格的な3Dゲームに対応した。メディアは従来と同じくロムカセット式である。1993年の開発発表時のコードネームは「プロジェクト・リアリティ」、正式名が決定する以前の海外名称は「ウルトラ64」(日本国内では当時名称未発表)、ユーザー間の通称は「ウルトラファミコン」だった。ファミコンやスーパーファミコン時代は開発第一部や開発第二部がハード開発を行っていたが、NINTENDO64は竹田玄洋が率いる、ROMカートリッジの特殊チップ開発を担当していた開発第三部がハード開発を行った。当時、任天堂はこれと並行して次世代機としてのCD-ROM機を製作。上村雅之らによるとほぼ完成していたとされるが、それを没にしての正式発売となった。企画立ちあげ当初は山内溥により「ウルトラファミコン」として発表されていた。第5世代としては最も後発であり、64ビットCPU・パースペクティブ補正・Zバッファを初めて採用しているなど、他の機種に比べて3Dポリゴンの演算能力と描画品質が高く、1996年当時に存在していた他のゲーム機より大幅に高性能になっている。CPUは当時グラフィックスワークステーションメーカーだったシリコングラフィックス(SGI)と提携して開発が行われ、メインにはRISCのMIPS R4300カスタム、32ビットRISCのR3000をコアに持つグラフィックエンジンである「RCP (Reality Co-Processor)」、メインメモリには当時はまだ珍しかった高速なRambus DRAMを採用するなど、先鋭的なハードウェア構成となっている。64ビットのR4300カスタムは最高122MIPSの処理能力を発揮することが可能で、競合機種の一つであるPlayStationの搭載するCPUの約4倍の処理能力にあたる。ポリゴン機能は環境マッピングやトライリニアといった本格的なテクスチャ・マッピング処理にも対応し、スーパーファミコンの35倍もの性能を発揮する。64ビットCPU搭載を売りにしていたが、64ビットモードでは動作クロックが下がる仕様となっているため、殆どのソフトウェアで32ビットモードを用いていた。また、「RCP」の描画能力を引き出すためにマイクロコード方式を取り入れた。これはプログラミングによってあらかじめハードウェアに実装された機能に、後からプログラミングコードを追加または書き換えることで、開発するソフトウェアの種類に合わせた演算性能の特化を可能にしたものである。例えば、3Dポリゴンの描画性能に特化したマイクロコード(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』等)や、2Dグラフィックに特化したマイクロコード(『ヨッシーストーリー』等)、演算処理に長けたマイクロコード(『最強羽生将棋』、『F-ZERO X』等)、4人対戦のために4画面同時出力に長けたマイクロコード(『マリオカート64』等)を、メーカーや開発者が独自に開発することが可能だったが、開発の難易度が上がる弊害もあった。ハード設計にあたっては、レア社のクリス・スタンパー()がコンサルタントとして半年間参加。開発のイニシアチブは任天堂が取っているが、設計提案については大半の75%をSGIが占めた。ゲームソフトの供給媒体には、当時主流となりつつあったCD-ROMではなくROMカートリッジを採用している。また、カートリッジにリージョンプロテクトが物理的に施されており、日本国内版ソフトと海外版では背面にあたる形状の一部が異なることで、異なるリージョンのソフトが対応しない本体に刺さらないようになっている。ただし、あくまでもカートリッジに施された物理的なプロテクトであり、接続端子は共通のものであったため、非公式の変換アダプタを使用するか本体のカートリッジコネクタにあるカセット形状を判別する部品を外す等を行えば問題なく動作する。コントローラは三つ又の独特な形状を採用。コントローラ中央にアナログスティック「3Dスティック(サンディスティック)」を装備し、新しいゲーム感覚をアピールした。しかし、小さい子供に対してはコントローラが大きいという難点もあった。「レフトポジション」、「ライトポジション」、「ファミコンポジション」など、握り方が多数存在する特異なコントローラである。主に十字キーと3Dスティックで操作するレフトポジションを採用したソフトは片手で数えられるほどの少数で、A・B・Cユニット等の各種ボタン類と3Dスティックで操作するライトポジションのソフトが大半を占めた。また、それまでは2つが主流だったコントローラー端子は本体に標準で4つ用意されており、多人数プレイを想定した設計となっている。4人対戦対応ソフトも数多く開発された。それまでのファミリーコンピュータ(NES)やスーパーファミコン(SNES)は名称・デザイン・ロゴマーク・内部仕様などが出荷国によってバラバラであったが、本機ではデザイン・配色はもとより、韓国を除く全出荷地で「NINTENDO64」という名称に、本体の型番もNUS-001(XXX)、ピカチュウバージョンはNUS-101(XXX)(XXXには出荷国のコードが入る。日本ならJPN)に統一された。スーパーファミコンまでは本体に内蔵していたRFユニット(RFモジュレーター)だが、出荷国の放送規格に合わせるために出荷国によって基板を作り分けしなければならない要因であった。本機が発売された1996年当時はRCAコンポジット端子を備えたテレビが既に普及していたことから、RFユニットは外付け・別売となった。本体側の電源端子の形状も統一され、ACアダプター部分を除く分類ではカラーテレビの規格がNTSC方式を採用する日本・韓国向けのもの(前述のリージョンプロテクトとしてカートリッジ裏側の切り欠きが内側にある)、同じくNTSC方式を採用するアメリカ合衆国・カナダ向けのもの(カートリッジ裏側の切欠きが外側にある)、PAL方式を採用するヨーロッパ(主にEUの西欧諸国)とオセアニア(オーストラリア、ニュージーランド)向けのものの3つに絞られている。韓国のみ当時任天堂製品のライセンス(販売権)を持っていた現代電子産業(現在のハイニックス半導体)が「ヒョンデ・コンボイ64」の名称を付けて発売し、本体には「64(コンボイ64)」と「NINTENDO64」のロゴが併記された。最終的に日本国内では554万台、国外で2738万台、計3292万台が出荷された。中国は当時の中国の法律問題や違法コピーを危惧していたことから本機は出荷されなかったが、本機をベースにして携帯型・ダウンロード専用としたiQue Playerが2003年に発売された。品質の高い作品が何作も発売され、以後の任天堂ゲーム機のソフトウェアのラインナップにも大きな影響を与えることになった。当初は次世代ゲーム機戦争の本命として期待されており、「ゲームが変わる。64が変える。」のキャッチコピーとともに登場した。しかし、度重なる延期による発売の遅延(ライバル機より2年近くも遅れた)により、登場時にはPlayStationが市場を占拠し始めていたことが大きかった(NINTENDO64が発売された96年6月時点で、PlayStationの累計出荷台数は270万台を超えていた。97年3月末時点でNINTENDO64の累計販売台数は204万台、98年3月末時点は315万台。対するPlayStationは97年3月末時点で累計出荷台数650万台、98年3月末時点で1151万台だった)。開発環境の問題や64DD構想が難航したために更なるサードパーティー離れの参入メーカー不足によるソフト不足の現象が起き、普及が進まず、最終的なハード出荷台数は同世代のPlayStationはもとより、国内ではセガサターンにさえ及ばなかった。この結果、任天堂は据え置きゲーム機のトップシェアを失い、その後2世代にわたりその座をソニー・コンピュータエンタテインメントに明け渡すことになった。この時代の次世代ゲーム機戦争の特徴は3Dを導入したハードが登場したことであり、それに伴いソフトの開発環境が激変した。開発言語が従来のアセンブリ言語からC言語へ変わり、開発人員も増大した。PlayStationはソフトの開発機材を安価でソフトメーカーに提供し、開発環境の負担を軽減することにより、サードパーティーを数多く取り込んでいた。これは元々ソニーがスーパーファミコンの開発機材を作っていたりなどしたためノウハウがあったことによる。しかし当時の任天堂はソフト毎に開発者が独自にプログラムを組んでいたため、プログラムのライブラリを作るという発想がなく、ましてやそれをサードパーティに配布するノウハウなどなく、当初はセカンドパーティの増強を考え、マネージメント会社「マリーガル」を設立して対処していた。任天堂自体はファミコン・スーパーファミコン時代よりソフト開発が早くなったとしていたが、発売当初のキラーソフトの一つ『ゼルダの伝説 時のオカリナ』が2年も発売が遅れるほどハード機能に依存した製作に突入してしまう事態が起きる。ほぼ時期を同じくしてNINTENDO64の発売直後に出るはずだった周辺機器『64DD』も暗礁に乗り上げる。当初はディスクシステムと同様のハードになるはずだったが、様々な構想が消えては生まれる状態が起き、そのたびに開発延期が繰り返された。最終的に「製品群構想」となったが、発売が遅れすぎたのが響き、ほとんど定着しなかった。NINTENDO64は発売初期からすでに慢性的な参入メーカー不足によるソフト不足に見舞われ、特にハード発売より約3ヶ月は、サードパーティはおろかハードメーカーである任天堂からも新作ゲームが1本も発売されないという深刻なものだった。任天堂は1996年内にセカンドパーティ製のものも含め、16本の自社ソフトを発売する計画だったが、ソフト開発の遅延や64DDの発売延期などにより4本しか発売できず、後に発売にこぎつけたものすら半分ほどで、残りのものは発売中止となった。サードパーティ離れで致命的だったのはファミコン、スーパーファミコン時代に抱えていた国民的な人気を誇るRPGシリーズが離れたことであり、ファイナルファンタジーシリーズは大容量メディアであることを理由に、ドラゴンクエストシリーズは普及台数の差と64DDの開発遅延をきっかけにいずれもPlayStationに移籍。RPG不足は後々まで尾を引いた。また当時は対戦格闘ゲームの絶頂期でもあり、セガサターンは『バーチャファイター』、PlayStationは『鉄拳』などの格闘ゲームでハードの売り上げを伸ばしていたが、NINTENDO64は「勝ち負けが付くゲームはマニアックになりやすい」という理由で格闘ゲームを開発しない独自路線を取った。同時期はPlayStationやセガサターンとのマルチプラットフォーム作品が度々登場していたものの、NINTENDO64はディスクメディアを不採用にしたことや、コントローラの形状といった操作体系など、他のハードと異なる面が多かったため、マルチプラットフォーム化された作品が非常に少なく、対戦型格闘ゲームなどは後期になっても不足した。ハードの価格においても、PlayStationは発売時39800円、セガサターンは44800円と高価格だったが、NINTENDO64は25000円という高性能の割りに安い値段を打ち出した。しかし、NINTENDO64発売前にPlayStationとセガサターンは熾烈な価格競争を始め、NINTENDO64発売時にはPlayStationは19800円、セガサターンは20000円まで価格を下げており、NINTENDO64は価格優位性を全く活かせなかった。NINTENDO64は1997年3月14日に一度目の値下げが行われ16,800円となり、最終的に1998年7月1日に行われた二度目の値下げで14,000円となった。日本市場では上記の原因により苦戦を強いられたが、北米市場においては上記の事態がほとんど起きず、『スーパーマリオ64』や『ゴールデンアイ 007』がNPD調べで500万本以上売り上げるなど有力ソフトがハードを牽引し、累計販売台数2063万台とSNES(海外版スーパーファミコン)並の市場を築くことに成功した。当時の北米では任天堂のようにプログラマが独自でやることが多く、プログラム問題が起きなかった。64DDは元々日本限定だったのでそれに伴う騒動が起きなかった。RPG・格闘ゲーム問題についても北米は日本と違いRPGにさほど人気がなかった。宮本茂は「NINTENDO64はね、とりあえず日本ではすごくトーンが下がっているし、ヨーロッパもけっこう厳しいですし、不安な状態に見えるんですけれども、アメリカの勢いのお陰で、ビジネスとしては完全に成り立った」と述べている。新作ソフトの発売も、日本国内においては2001年12月発売の『ボンバーマン64』が最後だったが、北米では2003年夏まで新作ソフトが発売され続けた。最後のNINTENDO64用新作タイトルとなった『トニーホークプロスケーター3』がPlayStation 2、ニンテンドーゲームキューブ、Xboxなど、次世代ゲーム機とのマルチプラットフォームで展開されたことは、北米での成功を表している。発売されたソフトは日本国内では全206タイトルに過ぎないが、人気を博したソフトや、作品として極めて高く評価されているソフトも存在している。また4人同時プレイに最初から対応していたという事もあり、多人数ゲームで大きな広がりを見せた。そのため、小中学生を中心に一定のシェアを獲得することに成功した。特に『マリオカート64』、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』などはそれぞれかなりの人気を獲得し、売上も好調だった。本ハードで初めて登場したマリオパーティシリーズは、現在も続編が発売される人気タイトルとなっている。また、売り上げこそ劣るものの『実況パワフルプロ野球』や『実況ワールドサッカー』なども3Dスティックでの操作性が独特で、シリーズ屈指の作品として現在も根強く支持されている。周辺機器として発売された「振動パック」や、コントローラーの3Dスティックといったいくつかの試みは後々のゲーム機に影響を残している。当時としては圧倒的な3D表現能力を低価格で実現したことは高く評価され、『タイム誌』の1996年「MACHINE OF THE YEAR」に選出された。1997年にグッドデザイン金賞を受賞している。2001年にはNINTENDO64において任天堂最後のソフトとなる『どうぶつの森』が発売。当時はN64市場の終末期であったことから初回生産分はわずかなものであったが、インターネット上の口コミなどによってたちまち品薄状態を生み出し、ニンテンドーゲームキューブやニンテンドーDSを経て現在も続く任天堂の看板タイトルとなった。その他、64DDにはファミリーコンピュータ用の機器などが一部流用できる。この他にも、多くの機器が発売されている。

出典:wikipedia

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