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ウ・タント

ウ・タント("U Thant"、1909年1月22日 - 1974年11月25日)は、第3代国際連合事務総長(任期1962年 - 1971年)、教育者。アジア人初の国連事務総長。よりビルマ語発音に近い表記ではウー・タンとなる。ビルマ人は一般的に姓を持たない。ウーは男性敬称であり、ウー・ヌやウー・ソオらも同様である。ウ・タントはイギリス領インド帝国ビルマ(現・ミャンマー) のパンタナウで中国系、インド系、イスラム教徒の血を引く家系に生まれた。パンタナウのNational High School(高校)で学ぶ。ヤンゴン大学(ラングーン;現ヤンゴン)で歴史学を専攻。卒業後、パンタナウの高校で教鞭をとる。25歳の若さで校長に就任し、のちの首相ウー・ヌと親交を持つ。'Thilawa'というペンネームで、フリー・ジャーナリストを経験、新聞・雑誌への寄稿、数冊の翻訳本を手がける。1947年、ビルマ政府によりPress Directorに任命される。1948年、ウー・ヌが独立後初の大統領に就任すると、ウ・タントをラングーンでの放送大臣(Director of Broadcasting)に任命された。1949年、情報相書記官に着任する。1955年にはバンドン会議に出席する。1957年から1961年までは国連総会会期中におけるビルマ政府代表を率いた。1961年11月3日、ウ・タントは安全保障理事会の決議168の勧告により、総会において満場一致で国連事務総長代理に任命された。これは任期途中に飛行機事故死したダグ・ハマーショルドの残任期を埋めるためのものであった。1962年11月30日に正式に国連事務総長に満場一致で任命された。1966年12月2日、国連総会において再任され、1971年12月31日に任期を終えた。ウ・タントの在任中の主な業績としては、コンゴ動乱への積極的武力介入、キューバ危機や第三次中東戦争などでの和平仲介、第三世界の発展を支援する国際連合貿易開発会議と国連開発計画や国連大学の創設決定、宇宙船地球号を掲げたアースデーの制定と「人間環境に関する諸問題」(ウ・タントレポート)の勧告に基づいてとともに翌年の国連人間環境会議の開催決定や国連環境計画 (UNEP) 設立決定に貢献したことなどが挙げられる。また、ルンビニ釈尊生誕地聖域計画を進めるなど熱心な仏教徒で知られたウ・タントは仏教徒危機を起こしたベトナム戦争に苦言を呈して国連とアメリカの間で摩擦があった。1971年にウ・タント自身は中華人民共和国の加盟を訴えてきた中国代表権問題がアルバニア決議によって解決されたことを見届けて事務総長の任期を満了、以後政治からは引退した。ウ・タントは1974年にアメリカのニューヨークで舌癌により死去した。ウ・タントの遺体はビルマに帰国したが、ネ・ウィン政権に反対する学生組織が空港で奪取し、ヤンゴン大学に安置された。遺体が一般墓地に葬られるとの報道がなされ、独裁政権が国際的評価の高かったウ・タントを妬んで粗略に扱うおそれがある、との理由であった。軍の攻撃で遺体は回収され、ヤンゴンで最も格式高いシュエダゴン・パゴダ境内に葬られた。埋葬後も大規模な抗議活動が行われたが、戒厳令が敷かれ鎮圧された。

出典:wikipedia

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