百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家(346年? - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。日本語における呼称クダラについては『図書寮本類聚名義抄』(1081年)に「久太良」とあり、この「太」は清音のタを表わすことから本来はクタラであって、クダラと濁るのは後世の訛りであることがわかる。クダラの語源については諸説がある。他にもいろいろな説があるが、いずれの説も問題点を抱えており、これぞ定説といえるものは今のところ存在していない。百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・倭との通交と372年の東晋への遣使である。建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は不明である。中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたと考えられているソウルの風納土城や夢村土城がその遺跡と考えられている。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、これは百済王が原七支刀を複製した刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から(現・忠清南道扶余郡)に遷した。この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。聖王によってに都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子だったを熊津都督に任じた。翌年の665年8月には就利山において扶余隆と新羅の文武王が劉仁起の立会の元に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた。後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは百済の亡国の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに、高句麗最後の王・宝蔵王の遼東都督任命と対比することができる。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国ではなく羈縻州として組み込み、さらに残された新羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)を羈縻体制に組み入れ「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れて居り、後年実行に移されて居る。唐の支配に反発した新羅は反乱を起こすと共に百済・高句麗の遺民を蜂起させ、倭国とも友好関係を結んだ。西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安までもが危険に曝される状態となった唐は、物理的に遥かなる遠方に位置する上に、経営が赤字だった朝鮮半島を放棄せざるを得なくなり、これで百済の故地は新羅の支配下に入った。新羅は百済故地に残留した百済の支配層を新羅の貴族階層へ取りこんでいくことで新羅支配の実効性を確保していった。ただし、前述のように扶余隆の子孫への帯方郡王任命は継続されており、唐は表向きは百済への支配権を主張する体裁を採っていた。民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余族の国家だったとする説と、ツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と韓族の被支配層(土民中心)からなっていたとする説の2説がある。『唐会要』百済伝には「百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海(百済とは、本は扶余の別種で、馬韓の故地にあたる。その後裔に仇台なる者がおり、高句麗に国を破られ、百家で海を渡った。因って百済と号する)」とあり、百済の支配層は扶余族だったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、26代聖王が538年に泗に遷都した後に国号を「南扶余」としたこともそれは窺える。矢木毅によると、高句麗が朝鮮半島北部を領有してさらに南下の構えを示すと、南方の韓族もそれに対抗して国家形成を進めた。それが新羅と百済であり、百済は高句麗に対抗するために高句麗の建国説話に百済の建国説話をつなぎ合わせ、意図的に高句麗と同様に自らを扶余の系統に位置づけたという。『隋書』東夷伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこには新羅人、高句麗人、倭人などが混在しており、また中国人もいる)」とあり、倭国と軍事同盟を結んでいた百済には、倭人の住民も多かった。百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。今言語服章略與高麗同つまり言語や服装などが高句麗とおおよそ同じだと記している。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている。『魏書』も『梁書』の記述を踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。「臣と高句麗は扶余に源を出す」、すなわち百済と高句麗は同族だと考えられていたのである。李基文は、この呼称の違いは王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家だったことを示すものであり、この二重言語状態は高句麗と同じ夫余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した。この推定に基づけば、『周書』以前の史書が百済の言語を高句麗とほぼ同じと記したのは、支配層の言語である夫余系百済語の方に注目したためであるということになる。百済の建国神話は『三国史記』百済本紀などの朝鮮史料にさまざまな話が伝えられているが、いずれも高句麗と同様、扶余の東明神話のバリエーションとなっている。倭国との外交関係としては、百済の中期に高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したことが記録されている。『日本書紀』には、隣国に攻められ窮地に陥った百済に対して日本が援軍を派兵した記録や、領土を奪われた百済に任那の一部を割いて与えた記録、さらには百済が日本に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く記されている。その一方で『日本書紀』には「百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く」と記されており、結局すべては対新羅、そして任那の権益をめぐっての戦略外交だったことが窺える。また中国の『隋書』にも、「新羅・百済は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、ならびにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。」という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。広開土王碑も倭については「百殘■■新羅を破り以って臣民と為す」と記しており、この「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭に服属していたとする見解もある。建国前より一定数の倭人が居住(多民族国家)し、その後も日本列島や任那から倭人が百済に渡来・帰化している。後期に至るほど支配階級にも多くの倭人が登場する。百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。また、彼らの子孫が後に日本名を貰い正式に帰化し、さらにその6代後の子孫が高野新笠として桓武天皇の母となったという説がある。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。『日本書紀』には、『百済記』や『百済新撰』など早くから散逸した百済の史書からの引用がある。百済からの文化財には、軍事的援助の謝礼として、中国より伝来したという石上神宮に伝わる七支刀がある。また倭国から伝わった勾玉や刀剣等の装飾品が再度倭国に返還された。奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。兵庫県神戸市には扶余系の墓にちなんだ唐柩の地名が残る。宮崎県東臼杵郡美郷町には、滅んだ百済から逃れてきた王族が彼の地に亡命したという伝承があり、百済王一族を慰める「師走祭り」という例大祭が神門神社などで行なわれている。禎嘉王が美郷町南郷区に、その子の福智王が約90キロメートル離れた木城町に住んでいたといい、死後それぞれが神として祀られるようになったもので、例祭当日には村民が参加して、父を祀る神門神社と子を祀る比木神社の間で親子の対面を再現する。美郷町の「西の正倉院」には、神門神社で出土した鏡や「師走祭り」に関する資料が展示されている。『周書』百済伝によれば、王を表す固有の語として「於羅瑕(支配層=扶余=百済語による号)」と「吉支(被支配層=韓系百済語による呼称)」の二種があり、王妃は「於陸」と呼ばれていたという。「吉支」は『日本書紀』古訓に見える「百済王」の和訓「くだらのこにきし」の「こにきし」がこれに相当すると考えられている。扶余族の東明伝説に因んで、百済の王族は姓を扶余(ブヨ)と名乗った。だが、5世紀後半からは中国風に一字姓の余(ヨ)も名乗るようになっており、扶余姓と余姓を併用するようになっている。この併用の習慣は百済の滅亡まで続くことになる。『三国史記』によれば、始祖温祚王の時代から左輔・右輔の官名が見られる。これは高句麗における最高官位と同名だが、高句麗では新大王のときから国相が最高官位となった。百済では第8代の古尓王の27年(260年)に、一品官の六佐平(各種事務の担当長官)とそれに続く15階の官、あわせて16階からなる官制が整備されたと伝わるが、実際に佐平制の雛形が整ったのは第15代枕流王(在位:384年 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385年)の頃と考えられている。第18代の腆支王の4年(407年)には六佐平の上に上佐平の官位を置いている。上佐平は軍事統帥権と国内行政権を総括するもので「宰相」に相当し、また伝説時代の「左輔・右輔」にも相当する。『日本書紀』には大佐平、上佐平、中佐平、下佐平も見え、上・中・下の佐平を総称して「三佐平」といった。大佐平は全権を委ねられた王世子で摂政のようなものらしい。『周書』百済伝には、佐平(左平)の定員は5名だったこと、各官職の帯の色は、七品が紫、八品が皂、九品が赤、十品が青、十一品・十二品が黄、十三品以下は白だったこと、三品以下は定員がなかったことなどを伝えている。漢城時代の墳墓は、旧以前からある土壙墓・石槨墳に対して支配者層の積石塚が見られる。積石塚は高句麗に良く見られ高句麗とのつながりが確認できる。熊津時代には支配者層の墓は、積石塚に代わって石室墳や築墳が採用されるようになった。1971年に発見された武寧王陵は横穴式石室墓の典型である。泗時代には長方形の石室墓が広く流行し、山の中腹に墳墓が設けられるようになった。王都とは離れた全羅南道に百済の勢力が及んだのは5世紀末から6世紀初頭のことで、それ以前には甕棺墓を基本とする文化圏が広がっていた。これらは馬韓の勢力の名残と推定されているが、日本で見られる前方後円墳型の封土墳も多く見られ、倭の影響も確認できる。仏教の受容は高句麗に遅れること10年で、枕流王元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢山に寺を創建したことが伝わっているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかっていない。5世紀末以降になると、475年(文周王元年)に遷都した熊川(現公州)の寺院址では12寺が、538年(聖王16年)に遷都した泗(現扶余)では26寺が、そして全羅北道の益山郡では巨大な弥勒寺石塔が発掘されている。百済の寺名がはっきりと現れるのは熊津時代の大通寺であり、聖王の時代の建立と考えられている。他の熊津時代の寺としては、公州市に水源寺址、西穴寺址、南寺址などがある。聖王は泗に遷都した後に、梁から『涅槃経』などの経典、工匠・絵師などを下賜され、積極的に仏寺の造営をすすめた。王興寺・定林寺・軍守里廃寺などの寺址が扶余郡で発見されており、泗時代の仏教の盛んな様子が『隋書』百済伝に「有僧尼多寺塔」と記されていることを裏付けている。4世紀後半の近肖古王の時代に博士高興(こうこう)を得て初めて漢字に触れ、その後には王仁が倭に『論語』や千字文をもたらしたと伝えられるように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。聖王の時代に梁から下賜されたものには、仏教経典とならんで毛詩博士が記されているように、中国からの文物の受容に熱心だったことが窺える。百済が中国の遼西地方に進出したという、いわゆる「百済の遼西領有説」は、『宋書』『梁書』などの南朝系史書から始まったものである。それによれば、『晋(265年 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420年)の時に高句麗が遼東を占領した後(404年以降)に、『宋書』によれば百済もまた遼西地方を征服して晋平郡を設置した(『梁書』では、晋平郡遼西郡の2郡を併合して百済郡を置いた)』という。実際に遼西地方を支配していた北朝系史書には関連記録が全く見られず、また『三国史記』をはじめ朝鮮史書にもそれに関する記事がなく、北燕の敗残兵による百済侵入事件や北魏の百済進攻が起こったこの時期に遼西に百済領が安定的に成立・存続する余地があるはずがなく、韓国・北朝鮮以外の学界では主要な学説とは認められていない。韓国の学界においても一般的には百済の遼西進出については否定的な見方が大勢だが、近年もなお百済の遼西進出を事実とする説は提起されている。1981年に大韓民国教育部長官のが1檀君は実在の人物2檀君の領土は中国北京まで存在した3王倹城は中国遼寧省にあった4漢四郡は中国北京にあった5百済は3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国東岸を統治した6新羅の最初の領土は東部満州で、統一新羅の国境は北京にあった7百済が日本文化を築いたという「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」を国会に提出したことがあり、韓国の国史編纂委員会で編纂する『国史』教科書では、1990年までは百済が遼西を攻撃したと敍述していた。1990年以降は進出という表現を使って曖昧に表現している。東北アジア歴史財団のヨン研究員は、高等『国史』が百済が中国の遼西・山東地方と日本の九州地方に進出したという記述は事実関係に問題が多いとして、「百済の九州地方進出は日本書紀神功記と七支刀銘文を根拠としているように見えるのに、これらの解釈は多くの問題点がある」「問題が多い日本書紀にそのまま従ったら、日本の百済進出であって百済の日本進出にならない。史料を利用する時、恣意的解釈は排除しなければならない」と批判している。中国の『宋書』と『梁書』を基礎にした中国遼西地方進出と百済郡設置も、通説にするには多くの問題点があるとして、中国前秦代に起きた事件が『宋書』と『梁書』には出ながら『秦書』にはないこと、百済が高句麗と絶えず戦争をしていた当時の情況を考慮すれば、水軍抜きで遼西地方を攻略したとは考えにくいとしている。ヨン委員は「中国史書にある、とそのまま信じたら、倭国戦で記録された百済と新羅が倭国を大国として仕えた、という内容もそのまま信じるしかない」「韓半島内部の発展過程など多様な側面を考慮して、史料の意味を把握する必要がある」と批判している。一方、韓国の在野史学系では、百済の遼西領有を認める方向にある。中でも大陸史観を唱える人々は、百済の位置を朝鮮半島西南部ではなく黄河と長江の間に比定して、百済の遼西領有が事実だと主張する。百済の遼西領有説においては、その時期についても争点となっている。『梁書』によれば、遼西領有時期は晋の時代で、高句麗が遼東を占領した以後だが、高句麗と前燕が遼東の争奪戦を繰り広げたのは好太王(在位391–413年)の頃で、それが最終的に高句麗の手に落ちたのは404年のこととみられている。ところが、この時期の百済は高句麗との戦争に敗北して58個の城を奪われており、遼西に進出する余力はなかったと考えられるため、それ以前に高句麗が385年に一時的に遼東を占有した時に百済の遼西進出があったと見る学者もいる。これに対し金庠基・金哲埈・日本の井上秀雄らは百済の近肖古王が371年に高句麗を破った時、余勢を駆ってさらに北方に進出して一時的に遼西を支配したと推測している。また申采浩は近仇首王の時、鄭寅普は責稽王・汾西王の時と見る。また百済の遼西領有説の出典である中国の史書は共通して百済伝の冒頭においてその建国・起源・発祥とのかかわりで述べており、解釈によっては夫余王の尉仇台が百済の創設者とも読めることから、遼西を経略したのは百済ではなく夫余であり、遼西経略も帯方における百済建国もともに、公孫氏との同盟下で同時期になされた夫余の対外発展の一環とみる説がある。以上のべたこれらすべての諸説はみな遼西領有時期を404年以前に想定している。ただしこれら以外にも実に多様な数多くの説が存在する。"帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」も参照のこと"中国は、百済は歴史上中国の一部であると主張している。満州族のルーツである女真族と扶余族のルーツは同じツングース民族であることから、民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国の立場として、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と定義している。また、中国の歴史学者の李大龍は「百済は扶余族が建てた国なので、百済は中国民族が建てた国だ」と主張している。中国の教科書の記述では、高等教育出版社『世界古代史』に「古朝鮮・高句麗・扶余は韓国の歴史ではなく、韓国史の始まりは統一新羅から」との主旨で記述している。中国の100余りの大学で使用されている福建人民出版社『中国古代史』には「扶余・高句麗・沃沮・穢貊は中国・漢代の東北地区の少数民族だ」と記述している。
出典:wikipedia
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