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ビートたけし

ビートたけし(1947年1月18日 - )は、日本のコメディアン、タレント、映画監督、俳優、脚本家である。本名:北野 武(きたの たけし)。日本国外では本名名義の映画監督・北野 武としての知名度が極めて高い。東京都足立区島根出身。オフィス北野所属。1980年代初頭に起こった漫才ブームの中で社会風刺を題材としたシニカルな笑いツービートで人気を獲得、フジテレビTHE MANZAIやその後継であったオレたちひょうきん族らに出演し番組が大ヒット、一般人、芸能人(特に後輩芸人)問わず未だに発言や行動に多大な影響力をもつ人物の一人。1990年代頃より司会業や映画監督業が中心で、中には20年以上続く番組がある。映画監督時や『平成教育委員会』(フジテレビ系列)などの番組では本名の「北野武」名義を用い、その他の番組、映画で出演するときは芸名の「ビートたけし」でタレント活動している。これに関して、2010年(平成22年)5月9日放送『平成教育委員会』では、「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べた。日本国外では基本的に本名である『takeshi kitano(北野武)』だが、『beat takeshi kitano(ビートたけし北野)』と、いう、本名と芸名を併せた名義を使うこともある。また、絵画では「ビートたけし・北野武」と言う名義で活躍もしている。立川談志一門でもあり、高座名「立川錦之助」を持つ。近年は落語を口演する際、立川談春から一字もらい「立川梅春」を名乗っている。東京都立足立高等学校から明治大学工学部(現理工学部)機械工学科中退(特別卒業認定)。元・東京芸術大学大学院映像研究科特別教授(2005年 - 2008年)塗装職人の父・北野菊次郎(1897年4月1日 - 1979年)と、母・北野さき(1904年 - 1999年)の五男(幼少時に早逝した兄が一人いるため、実質は四男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武(たけし)」と命名された。『平凡パンチ』1978年11月13日号のインタビュー記事では「浅草に生まれて、下町に育った」と語っており、1982年「週刊サンケイ」の小林信彦との対談でも「生まれたのは浅草で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している。色白で細面、小柄だが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母の北野うしに非常に可愛がられて育った(家族構成は、「家族・縁戚」を参照)。母親からは厳しく接せられた。足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は、母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は、軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムでボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は、漫才師の野球チーム「メダトーズ」に加入していた。また未成年時代に飲酒していたことも自身の著書で明かしている。1965年(昭和40年)に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし大学での生活には適応できず、五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。“LeftyCandy”や「新宿ACB(アシベ)」、名曲喫茶「風月堂」などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしていて、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二、小水一男らと知り合う。また「ビザール」のボーイの後輩に萩原朔美がいた。ヴィレッジヴァンガードで、遅番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件の永山則夫が早番のボーイとして働いていた。「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという。この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごす。ジャズ喫茶のボーイ以外に、菓子の計り売り、実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイ、東京国際空港での荷卸し、タクシー運転手、ガソリンスタンド店員を転々とする。東京国際空港の荷役作業ではジャズ喫茶の常連客だった中上健次が先輩におり共にガルーダ・インドネシア航空の荷役として働いていた。後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに除籍。のち、2004年(平成16年)9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞。学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。ただ、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。初舞台は、痴漢のコント。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため、深見から気に入られた。ただ、深見は一般の場所でも唐突にギャグ(ボケ)を連発、間髪入れずに師を即興で罵倒という技術を仕込まれ、この特異な芸の仕込みに北野は深見に四六時中振り回される形となり芸を習得、模索する事になる。この指導もあり、舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれ、後に誕生する漫才コンビ・ツービート独自の芸風の基礎として取り入れられ漫才ブームで駆使し一気に開花する。当時は、フランス座の4畳間の屋根裏部屋で寝泊りをしていた。長じて、フランス座の新人芸人とコントコンビを組むことを考える。舞台(コント)が活動の主軸を旨としていた深見は、漫才での活動を望んだ弟子の北野を即刻破門(後に解除)、漫才を主軸に活動の場を放送媒体に移す。コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎からも漫才コンビを組むよう誘いを受けた。コントにこだわった武は漫才コンビに慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定の相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、「松鶴家次郎」の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は「松鶴家二郎」)。なお、深見からは引き続きフランス座の屋根裏部屋で住むことが許された。当初は、兼子がツッコミの正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし(コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り、営業に出たこともあった。また、当時はツッコミ担当で、ネタはきよしが作成していた。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされたため、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そして、この頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていき、ボケとツッコミの役割も入れ替わった。紆余曲折の後、2人はコンビ名を「ツービート (two beat)」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。丁度その頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、ツービートもスピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌していった。それに呼応するように、服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックへ変更することで、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは、代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのたけしのツッコミネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行ったり、型破りな舞台が多いため、他の芸人が観に行ってしまうので「ツービートが漫才を始めると楽屋が空っぽになる」と評判になった。演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」なる漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎や赤塚不二夫、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、自ずと距離を置くこととなった。1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行、亀有のアパートで生活を始める。11月、『花王名人劇場』(関西テレビ 企画:澤田隆治)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。1980年(昭和55年)、「マンザイブーム」(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのは、ジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、たけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」「少年よ大志を抱け。老人よ墓石を抱け。」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。1980年(昭和55年)6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS) の初代司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた。1981年(昭和56年)1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、たけしは乱戦の最中「コマネチ!」で自己主張をはかり、監督以下の顰蹙を買った。なお後年、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。1980年(昭和55年)10月、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年(昭和57年)10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。1982年(昭和57年)の夏にはブームは完全に終息し、たけしは“タレント・ビートたけし”として、この頃以降は、単独で司会をする番組を多く持つようになるなどしていった。漫才ブームを生き残ったたけしは、自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。1981年(昭和56年)元旦からニッポン放送・NRN系のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月からフジテレビ系の『オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始される。1982年(昭和57年)から1984年(昭和59年)にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。日本テレビ『スーパージョッキー』、TBS『笑ってポン!』等が始まった。また、博識が評価されて、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。上記は、1985年(昭和60年)当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。なお、『たけし城』『元気』『スポーツ大将』は、全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピュータのゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。漫才を披露する事はほとんどなくなったが、かつてはTVでは島田洋七との「B & Beat」で、稀に弟子のライブに飛び入りで相方ビートきよしとの「ツービート」として、漫才を披露することがある。過去に4回「クイズ$ミリオネア」に挑戦した。2014年10月27日、約30年ぶりとなる単独ライブを渋谷のCBGKシブゲキ!!にて開催。ライブのタイトルは「たけしが毎週ニュースキャスターの楽屋で、朝ズバッ!なんかで使ったパネルを勝手に拝借して、イタズラ書きをしてはニュースキャスター後のS1でTBSに来ていた、爆笑問題田中の楽屋にそっと置いていたパネルが溜まったのでテレビでお披露目しようとしたら、何処の局からも相手されなくて、仕方なくLIVEでお披露目することになった、たけし的スライドショーなLIVE」。約200席のプレミアライブは約1分で即完売となった。自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは、「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。たけしのものまねをする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(しかし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。たけしが司会のバラエティ番組などにおいて、他の出演者(主に女優や子供タレント、たけしより先輩のタレント等)がくだらないことを言ったり、話が噛み合わなかったりなどちょっとしたミスをするとたけしの近くにいるタレント(例:「世界まる見え!テレビ特捜部」の所ジョージ)やたけし軍団などの後輩芸人をたけしがピコピコハンマーやハリセン、メガホンで叩いて笑いに変えることがある(例:たけし「あいつを何とかしろ!ピコッ!」)。これは、たけしが過去に出演した映画「戦場のメリークリスマス」において、監督の大島渚が、たけしがNGを出した場合、本業が俳優でないたけしへの配慮として助監督が代わりに叱られるというものから来ている(詳しくは戦場のメリークリスマスの『エピソード』欄を参照)。このたけしのやり方によって、普段はなかなかツッコめない女優や先輩タレント相手または、ロケなどでちょっと離れた場所にいるタレントにも(間接的ではあるが)結果的にツッコむことができるので、このツッコミをマネする芸人もいる。また番組冒頭で「というわけで(ございましてですね)…」という台詞と同時に司会を始めるたけしのスタイルは、元々は他の出演者に「どういうわけだよ!」とツッコミを貰うためのボケにすぎなかったが、バラエティ番組などで当たり前のように常用されている。愛称は「たけし」、多くの芸能人からは「たけしさん」と呼ばれるが、タモリや和田アキ子からは「たけちゃん」、たけし軍団やたけしを慕っている後輩芸人からは「殿」と呼ばれており、所ジョージからは「北野さん」や「おじさん(おいさん)」と呼ばれ、明石家さんまからはたまに「おっさん」「ビート」「タケ」と呼ばれる。笑福亭鶴瓶からは「兄さん」とも呼ばれている。※詳細は各項を参照。1999年(平成11年)8月に母が死去した際には通夜の後に記者会見で、「俺を産んで良かったと思って欲しい…」と絶句し、泣き崩れる場面を見せた。同じ浅草出身の先輩芸人萩本欽一に対しては、漫才ブーム当時などすでにお笑い界のトップに君臨していた萩本に対し、批判的な意見を述べていた。コント55号の毒のある笑いは好きだったが、萩本が1人で司会をするようになってからのアットホームな笑いやザ・ドリフターズの子供向けの笑いに自身の目指すお笑いと今後のテレビ界に危機感を感じたため、「萩本欽一といかりや長介を引きずり下ろしたかった、この2人の牙城を崩さない限り、ひょうきん族はありえないと思った。」と語っている。萩本やザ・ドリフターズと入れ替わるようにたけし自身がお笑い界のトップに君臨することとなる。現在では、「お笑いの地位が上がりお笑いタレントがテレビ番組の司会ができるような時代になったのは萩本さんのおかげ」などリスペクトする発言をしている。たけしによると萩本とテレビ局の廊下ですれ違ったことはあるものの、萩本とたけしのテレビでの共演は未だに実現していない。1985年までのお笑いBIG3は萩本、タモリ、たけしであったものの、この3人を前面に出した番組はなかった。ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルなど、広くドキュメンタリー番組が好きでよく見ている。たけしが、ドキュメンタリー番組をよく見ている理由として、「B&Bが、連日のギャグの連発で、とうとう才能を枯渇させてしまったのを見て、人気が出て有頂天になっていると、アッという間に地獄に滑り落ちる怖さを知ったからだ」語っている。これに関連するエピソードとして、2003年(平成15年)、偶然に見ていた浅草喜劇について扱ったヒストリーチャンネル制作のドキュメンタリー「20世紀のファイルから—証言・あの時、あの人—(第40話)お笑い人生ここにあり」で、たけしが若い頃によく通っていた浅草の居酒屋が番組に登場し、この店では多数の芸人がサインを壁に直接書いているが、たけしのサインが無かったため、店の主人が他の芸人が壁をサインで埋め尽くしてしまわないように店の壁の真ん中の箇所に額を掛けて、長い間、たけしのサインのためのスペースを空けて待っているということを番組を見て初めて知り、この番組の初回放送の終了直後に、弟子を連れてこの居酒屋を訪ねて店の壁にサインをしている。後日、このエピソードを知った番組制作スタッフが浅草に出向いて居酒屋を改めて取材し、同番組のアンコール放送の際に、後日談として本編終了後に付け加える形で放送された。トーク番組の最終回に、スペシャルゲストとして招かれることも多い(『たかじんnoばぁ〜』(1996年7月13日放送)、『すてきな出逢い いい朝8時』(2001年9月29日放送)、『クメピポ! 絶対あいたい1001人』(2009年7月29日放送)、『笑っていいとも!』「テレフォンショッキング」(2014年3月31日放送 ※レギュラー放送分)等)。在阪放送局のローカル番組にも時折出演することがある。特にたけしのレギュラー番組を多数制作している朝日放送に関して縁が深く、『探偵!ナイトスクープ』『ナンバ壱番館』などにもゲスト出演している。また、関西テレビや讀賣テレビに関してはやしきたかじんとの親交もあり、たかじんの番組にゲスト出演している。一方で、毎日放送に関してはイースト・エンタテインメント制作の全国ネット番組に限定され、ローカル番組では出演がない。また、関西・関東いずれにおいても独立局への出演は全くと言っていいほどなく、極めて珍しい例として2015年5月22日放送の『バラいろダンディ』(TOKYO MX)にゲスト出演したことがある。『バラいろダンディ』への出演が実現したのは、長年の親友である、島田洋七が、金曜MCを担当していたのが大きく関わっている。2009年(平成21年)10月3日放送分のTBS『オールスター感謝祭』で総合司会の島田紳助が「番組開始前に自身の楽屋に挨拶に来なかった」として解答者の東京03に激怒したとされる件に関し、同年10月27日付けの東京スポーツに「紳助が『あいさつがない』とかって若手の東京03ってのを怒ったものだから、出番前にタレントがいちいちオレんとこにあいさつに来て、うるさくってしょうがないよ」とのコメントを発した。紳助引退後のオールスター感謝祭2011秋からは乱入して問題を出すことが恒例。非常にマイナーな問題で回答者を混乱させることが多い(例:ベルヌーイの定理を問う問題、「TBSのざるそばはどれ?」、「和田アキ子さんの秘密はどれ?」)。毎回、「二階堂栄さんはどれでしょう?」が出題される。難しすぎるため、たけし軍団などが乱闘するそぶりを見せ、それに加わった太田光を袋叩きにしている。IMALUがアシスタントしていた時のTBS『A-Studio』の2010年(平成22年)6月11日放送分にゲスト出演した際、「TBSで、自分(たけし)、鶴瓶、さんまで『32時間テレビ』をやろう」と鶴瓶に持ちかけた。林家三平の襲名披露興行で披露して以来、三平と国分佐智子の結婚式や『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で行われた飯尾和樹」(ずん)の披露宴、『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキング最終回等で表彰状ネタ(その人物等への表彰状を読む体裁で随所にブラックジョークなどを盛り込んで話すスタイル)をしばしば行っている。所ジョージに嫉妬していることを告白した『一流が嫉妬したスゴい人』で、たけしは甲本ヒロトにも嫉妬していることを告白している。「俺、もしかするとお笑いじゃなくて音楽をやりたかったんじゃないかなって気付かされて、嫉妬したね」と話し、「あの人(ヒロト)は悲しいのよ。不良になりたいけど、歌での表現でしか不良になれないっていう人。よく考えれば、(THE BLUE HEARTSの歌は)パンクではなくて演歌。だけど、感じがパンク」と評している。さらにたけしは、「俺は、偶然お笑いの世界に入っちゃっただけなんだよね。だから俺は、今でもお笑いをやりたかったのかなって思うことがある。もう取り返しつかないし、今更歌ったってしょうがないんだけどね…」と話している。カラオケが好きであり、付き人のシェパード太郎によるとテンションが高い時は付き人に「エロいの歌ってくれ」とサザンオールスターズの楽曲をリクエストし、逆にテンションが低い時はTHE BLUE HEARTSの楽曲などをリクエストするという。天皇陛下・皇室に対しては尊敬の念を述べている。竹田恒泰との対談の際、天皇陛下について「信仰に近いというか、神にかなり似た存在」と形容しており、「日本の歴史を振り返ると天皇は『はなからいる』存在」とも述べている。2013年秋に園遊会で天皇陛下に手紙を渡した山本太郎については、「我々にとって、天皇陛下というのは、戦後日本の文化や、あらゆるものの象徴だからね。その方に政治的な意見を考えさせちゃいけないね。それは内閣がやることだもん」と牽制し「失礼だよね」と苦言を述べている。東京スポーツ連載『たけしの世相斬り』2015年1月19日分にて2014年秋に紫綬褒章を受賞し、同年12月31日の年越しライブ「ひつじだよ! 全員集合!」のMCで披露した際に時間調整などの焦り故に衣装のポケットから褒章を取出すハプニングを起こし、「5000円から」といったオークションを意識したギャグをし、のちに謝罪したサザンオールスターズの桑田佳祐に対して、桑田がお笑い好きである事を理解したうえで「音楽の才能は認めるけど、お前はお笑いをわかっていない」「俺が金獅子賞・コマンドゥール章を受章した時みたいにニセモノを出さないと」「『ありがたいもんだ』ってフォローをしないから、桑田は怒られるんだよ。ギャグとしてはいいんだけど、フォローがなってなかった」と述べている。なお、この際たけしは「桑田がポケットから褒章を出すパフォーマンスをした」といった事実認識の一部の間違いを起こしている。過去に自身にも紫綬褒章受賞の打診が来たが、断ったエピソードを明かしており、理由は本人曰く自身に逮捕歴・前科があることや受賞式に配偶者が出席しなければいけないという決まりがあったからであるといい、「本当はもらいたかったけど、俺はもらうような立場ではないとお断りを入れた」とも述べている。ツービート時代からの漫才はもとより、『週刊ポスト』連載の「毒針巷談」(その後「世紀末毒談」を経て「21世紀毒談」)や『新潮45』連載、さらには『ビートたけしのTVタックル』などのテレビ番組で世相を風刺する発言も多く行っており、それが話題となることもある。例えば、1990年代に「『北野党』を立ち上げる」と冗談で発言したことが大きく取り上げられたこともあった。別の一例としては、1992年(平成4年)に『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、「地球に優しくしたいなら人間殺さないといけない」と、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った。この「『地球にやさしく』- 」は、同年6月18日付けの朝日新聞に「ビートたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。なお、この文章は1996年(平成8年)の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。原子力発電に対して称賛とも皮肉・揶揄ともとれる発言をしたことも話題になった。「北朝鮮による日本人拉致問題をテーマにした映画を作りたい」と2008年7月21日放送分「TVタックル」2時間スペシャルの収録で発言したが、その場面がすべてカットされたことが「週刊文春」2008年7月24日号で報じられたことがある。ニッポン放送『オールナイトニッポン』にて、日本テレビから同局が「チャリティー番組」として放送し、募金活動も行っている『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演オファーを受けたが、拒否したことを明かしている。さらに、「ヨダレ垂らした芸能人どもがめちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。チャリティーっていうくらいならお前ら全員ノーギャラで出ろよ!」と発言し、偽善番組とも述べている。ただし、たけし本人はこういった発言があまりにも大きく取り上げられることに対し、「芸人の言っていることを一々真面目に取り上げるな」などの反応を示すことが多い。また、後述の佐高信には「床屋政談」と評されたこともあった。漫才ブームが過ぎ、次代に生き残るための材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」と考え、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽(ジャグリング)が必修科目となった。その中で、太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊も習うようになった。タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画『座頭市』の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。最近では2013年にポカリスエットのCMでタップダンスを披露している。ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネまでで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。これは、さらに上を目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だとする、彼の考えに由来する。オフィス北野の社長である森昌行の証言によると、技巧的なものよりシンプルな物を好みレコーディングでも何度もやり直すのも苦手で、譜面どおりにやる事よりも自分が気持ちよいと思わなければOKを出さないとの事で、ロックで言えばビートルズよりもストーンズのような物を好んでいるという。また、ヘヴィメタルのような音楽は好んでおらず、過去にLOUDNESSの高崎晃がたけし側に曲を依頼されてデモテープを製作したが最終的に使われることが無かった。ミュージシャンとしてのサザンオールスターズの桑田佳祐を「大した天才だと思う」と述べており、カラオケのレパートリーとして「真夏の果実」「マンピーのG★SPOT」「SEA SIDE WOMAN BLUES」を挙げている。ただし、桑田が監督を務めた映画『稲村ジェーン』や前述の2014年の年越しライブでの紫綬褒章に関連するトラブルに関しては批判的な発言を述べていた。また、桑田も芸人としてのたけしを認めている。漫才ブームの頃は、三宅一生の服を愛用していた。しかし三宅から「服を着ないでくれ」と言われたことを漫才のネタにして、三宅のとこに電話して「着るぞ。ガタガタいうと買うぞ」と脅かしてやった、などとテレビで話し有名になった。実際に三宅の事務所の広報担当からたけしに直接電話があり、「たけしさん、本人はあんまりいい顔していませんよ。なるべく着ないでください。イメージくずれるから」と言われたと1982年の週刊誌のインタビューで話している。「幼少時代」にもあるように教育熱心だった母親は、日本が高度経済成長期であったことを踏まえ「算数を勉強しておけば将来働き口に困らないだろう」という考えから、たけしが子供の頃から算数などの理数系に力を入れて勉強するきっかけとなった。理系学部出身であったことからも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語った。1980年代の民放番組の司会進行中に、「自分は漫才師になったので今がある、物理学の道に進んでいたら、もう既にノーベル賞を取っている」と真剣な面持ちで話し、編集されなかったこともあった。数学好きが高じ『たけしのコマネチ大学数学科』をスタートさせ、その才能を発揮させている。『ここがヘンだよ日本人』では、「数学というものは哲学であって、全ての事象は数学に支配されており数学で説明できる」と発言している。『たけし・逸見の平成教育委員会』では「数学は答えさえ合っていれば良い」という独自の考えで、正解ながらも解の論拠が間違っている生徒を優秀生徒に選出した事がある。野球をこよなく好む。幼少の頃からプロ野球・読売ジャイアンツファンで、特に長嶋茂雄を敬愛している。草野球チーム(「たけし軍団」)では、投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ! コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。現在では、日本のプロ野球よりもメジャーリーグへの感心が高い。神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年(平成3年)の阪神タイガース・ファン感謝デーならびに1992年(平成4年)の千葉ロッテマリーンズ・ファン感謝デーで、軟式ルールながら阪神・ロッテに勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ』(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、1989年)では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれていた。格闘技では、自身もジムに通った経験を持つボクシングを好み、映画『キッズ・リターン』を作った。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手斬りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は、「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年(昭和38年)の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年(昭和46年)の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年(昭和62年)のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し、拳の一部が変形している。キム・ヨナの表現力(=指先の微妙な動きと豊かな表情)を高く買っており、「役者として演技力がうまいな。技術は真央ちゃんと変わらないし、ジャンプは難しいことやっていないのに、演技力が圧倒的だった」「真央ちゃんは芝居を勉強したらいいよ」と述べている。浅田真央に対しても『情報7days ニュースキャスター』2014年2月22日放送分で「真央ちゃん(の演技)良かったね、いいんだよ、どうせあんな採点なんてインチキなんだから」と冗談交じりで述べ「真央ちゃんみたいなのはね、メダルとれなくたってね、感動があるんだよ。だからいいんだよ」と評価している。他にもサッカーに詳しく、Jリーグ開始以前の国内・海外選手に特に詳しい。また、相撲にも造詣が深く、自身がメインキャスターを務める『情報7days ニュースキャスター』の番組内で、その博識ぶりを発揮している。一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、後にたけしの出演番組内でもネタにされ、『たけしの跳び箱オリンピック』と題した苦手克服企画が、1988年(昭和63年)の年末に放送された。『その男、凶暴につき』(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は、1989年(平成元年)に予定通り公開された。この時のことを後年関根潤三の著書の推薦文で「(映画監督について)あんなに大変な仕事はあるのかと思った。」と述べている。1997年(平成9年)、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「今度またイタリアと組んでどこか攻めよう」「Let's try again with Italia and go to some country to war」と日英両語でスピーチ。帰国時の記者会見で、現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して、笑いをとった。第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で、約5分間のスタンディングオベーションを受けた。2005年(平成17年)4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール(300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。2005年(平成17年)4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の特別教授および映画専攻長に就任(〜2008年。なお、監督領域の教授は北野と黒沢清の2名)。北野大も淑徳大学教授であったので、兄弟で教授となった。2007年(平成19年)5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。2007年(平成19年)8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作『監督・ばんざい!』に基づき「監督・ばんざい!賞」が新設され、表彰式に出席した。2008年(平成20年)6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年(平成15年)の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。2010年(平成22年)3月9日、フランス芸術文化勲章の一つであるコマンドゥール章を受章。13日の帰国会見ではでは勲章の披露の前に、自身が作った「バンクーバー」と書かれた金メダルを出すボケを行い、笑いをとった。2011年秋公開予定だった『アウトレイジ2』について「宮城県」でクランクインの準備をしていたら「東日本大震災」に遭遇しロケが取り止めとなり「6000万円以上損害が出た」と語っている。なお『アウトレイジ2』は、舞台を神戸市に移して『アウトレイジ ビヨンド』として、2012年10月6日に公開。北野映画の特徴として以下のようなものが挙げられている。自らの映画作品に暴力団が登場することについては「暴力団を賛美した表現をしたことはなく、拳銃を使った人間は幸せになれないようなシナリオにしている」と述べている。「キタノ映画」のビジュアル面での特徴として、画面全体のトーン、小道具の色などに青が頻繁に使われるというものがあり、気品があるとして「キタノブルー」と呼ばれる。特に『ソナチネ』など中盤までの作品において顕著で、ヨーロッパで高い評価を得た。突然の雨により画面が青一色になったのがきっかけとされる。極力余計な色を使用しないようにしていたことから、以降青を意識するようになったという。ただし『Dolls』からはキタノブルーの傾向は薄れている。また、このキタノブルーにはジャン・ポール・ベルモンド主演の『いぬ』やアラン・ドロン主演の『サムライ』、リノ・ヴァンチュラ主演の『影の軍隊』などで知られるジャン=ピエール・メルヴィルの影響を強く受けており、他にも歩くシーンが多いやセリフが少ない、省略演出の多様もメルヴィルからの影響を強く受け、自著でも特に『サムライ』を絶賛している。(自著「お前の不幸には訳がある」や古山敏幸『映画伝説ジャン=ピエール・メルヴィル』、『映画秘宝』2013年08年月号の町山智浩「男の子映画道場」での『サムライ』『仁義』『いぬ』の評など)。メルヴィルの『ギャング』のリメイク版であるアラン・コルノー監督の『マルセイユの決着』が2008年に日本で公開された際にプレスシートなどに「お前の不幸には訳がある」のたけしのメルヴィル絶賛コメントが掲載された。「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と語っている。また、「たった1枚の絵画だけで20分も30分もその場に人を釘付けにできるのだとしたら、映画も少ないカットでそういう事ができるのを感覚的に目標にしている」と語っている。自らが俳優として数々の作品に出演する際の姿勢として、撮影方針に口出ししないようにしているため、監督を務める際にも撮影方針に意見をする俳優は嫌いだと発言している。また、有名俳優でも撮影後気に入らないと出演シーンを編集でカットすることもある一方で、大杉漣や寺島進など北野作品に多く出演したことで名前が知られた俳優もいる。映画音楽は『Dolls』まで、久石譲が長期にわたって担当していたが、その後は梶浦由記や鈴木慶一を起用している。水道橋博士によると、久石の起用を辞めたのは、映画そのものではなく、音楽が評価されてしまったからだと語っている。フランスと日本の文化観の違いとして「芸人という立場が映画監督としては悪影響を及ぼす、なんて気はなくて、フランス人の見方は、もっと才能があるんだっていう。この人はまだいろんなことがやれるんだって感じがあって。だからギャング映画撮っても問題ないし、バカバカしいことをやってもそれはそれとして見てくれる。映画は映画、バラエティはバラエティって分けてくれるんで、ありがたい。気が楽になった」とコメントしている。「日本は漫才師が映画撮った、みたいな雰囲気があって、松本人志が映画撮ると、“かつて映画を撮ったお笑い人”の中に必ず俺が入っている」と、異業種の人間に対する偏見が強い日本の見方には苦言を呈している。また、海外メディアが(監督・北野武としての)彼にインタビュー取材を行った際に、彼が映画製作に使う専用のオフィスへ海外メディアクルーを招き、オフィス内部の紹介やインタビューに応じる姿があった。なお、日本のメディアに対してはオフィスは基本的に非公開であったが、この海外メディアによるドキュメンタリーを扱った日本のテレビ番組で放送された際に、初めて明かされている。映画(太文字は北野が出演している作品)ショートムービーミュージック・ビデオなお、2016年の第25回東京映画スポーツ映画大賞については発表時には監督賞・北野武(『龍三と七人の子分たち』)と発表されていた。ところが、授賞式では同賞の審査委員長を務める北野が「是枝監督に」と自身が受賞したトロフィーを会場に来ていた是枝裕和監督(『海街diary』で出席)に手渡し、これにより是枝監督が監督賞を受賞することとなった。主催者である東京スポーツの授賞式記事(受賞者一覧)では「監督賞:北野武(「龍三と七人の子分たち」)→是枝裕和(「海街diary」)」となっている。この項目は、他監督の作品として出演した映画の一覧である。「戦場のメリークリスマス」で注目され、「JM」でハリウッド映画出演も果たした。自らが映画監督の立場としては俳優に撮影方針を意見されることを好まないため、俳優として他監督の作品に出演する際にも同様にしているという。特記のないものはTBS製作特記のないものは日本テレビ製作特記のないものはテレビ朝日製作特記のないものはテレビ東京製作特記のないものはフジテレビ製作【主演】は主演ドラマ。★印は連続ドラマ。大橋巨泉と共演の広告「アサヒ生ビール」は撮影終了後、フライデー襲撃事件の影響で放映されなかった(なお、広告のスナップショットは巨泉の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年(昭和59年)、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較広告をパロディ化した『デミュートサンスター』では企画・演出に関わった。2007年(平成19年)からロシアCIS地域でPanasonicブランドの薄型テレビの広告に出演。同広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々で広告モデルになるのは初めてではないか」との事。他多数連載コラムや著書の文章のほとんどは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(『コマネチ!2』にて、本人のコメントによる)。"ツービート、ぢ・大黒堂名義で発表された作品についてはそれぞれの項目を参照。"1986年12月に発売され、たけしが監修したファミコン用ソフト『たけしの挑戦状』(タイトー)は「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され、言葉通りその斬新さと理不尽きわまりない内容で多くのユーザーに衝撃を与え、伝説のクソゲーとして名を残すこととなった。たけし自ら、「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」とコメントしている。世界観は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む世帯持ちのしがないサラリーマンである。多くの書籍などでクソゲーの代表格とされることが多い一方で、過去の名作ランキングでは必ず上位にランクされるほど非常に印象深い作品となり、現在では、「北野映画に通じるところがある」「早すぎたグランド・セフト・オート」など、ゲーム内容を再評価する声もある。1986年(昭和61年)12月9日、たけし軍団を連れてタクシー3台にそれぞれ4人ずつ分乗して講談社に行き、フライデー襲撃事件を起こし逮捕。翌年6月10日に懲役6か月、執行猶予2年の判決が下された(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『スーパージョッキー』への出演については、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなった。なお、当時たけしと交際していたといわれた女性への暴行で告訴された記者は、罰金10万円の判決を受けた。1987年(昭和62年)、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。ビートたけしは1994年(平成6年)8月2日午前1時40分、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中に自損事故を起こして重傷を負った。事故後は東京医科大学病院に救急搬送されて一命を取り留めたものの、長期の入院などにより約半年間に渡ってテレビ出演が出来なくなった。また、事故は酒気帯び運転によるものであったために書類送検され、起訴猶予処分を受けた。退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、退院会見では「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と、自らの怪我をネタにした。翌年3月4日の平成教育委員会でテレビ復帰し、その後レギュラー番組にも復帰した。テレビ朝日『やじうまワイド』で、大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。この事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故の前年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺は死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた。なお、このバイク事故の第一発見者は、「光GENJI」の諸星和己だったことをたけしが話していたとして、現在の付き人のシェパード太郎が記している。事故後の退院会見の際の、手首に巻いた数珠がたけしに事故をきっかけに信仰心を目覚めさせたものかと話題となった。2015年に昭和の大女優原節子から贈られたものであることを原節子逝去のニュース番組の中で明かした。ジョージアのCMへの出演が決定していたが、この事故のために撮影が中止された。

出典:wikipedia

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