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小川芋銭

小川 芋銭(おがわ うせん、本名:小川茂吉、幼名:不動太郎、男性、1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家である。小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる。生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている。芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられた。贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。芋銭が自宅敷地に建てたアトリエ。完成してまもなく芋銭が脳溢血で倒れたため、ほとんど病室として使われた。現在は牛久市の管理の下、小川芋銭記念館として公開され、複製画や芋銭の愛用品が展示されている。牛久沼のほとりにあり、近くには「河童の碑」もある。小川芋銭に関する学術的な研究及び情報発信を行っていた。稲敷地方広域市町村圏事務組合の牛久消防署西部出張所であった建物を使用しており、かっぱの里生涯学習センターに併設されていた。2008年(平成20年)7月1日に発足2009年(平成21年)5月31日までは芋銭の旧居「草汁庵」内(茨城県牛久市城中町2770、集落内)に設置されていたが、2009年6月1日からは基本的に現在の施設(牛久市城中町1888、牛久第三中学校前)に置かれていた。小川芋銭検定なども実施していた。2016年(平成27年)10月、体制が替わり不要の存在となり閉鎖され、短い歴史を閉じた。「改善一歩」道標は、1922年(大正11年)に城中青年会(矯風会)によって旧牛久村の主要な道沿いに立てられた道標である。当時、青年たちが道標を立てる計画をしていたところ、芋銭がこれを知り、永久に耐えられる石柱にしなさいと青年たちに好意で寄付をしたため、青年たちは芋銭の名を刻もうとしたが、芋銭は自分の進む道を良い方向に改めて進みなさいという意味の「改善一歩」という言葉を提案したという。現在、7柱が牛久市の城中町・牛久町・刈谷町に点在している。編集者で農民運動家犬田卯(1891年 - 1957年)は除隊後、農業をしていたが、近所に住む小川芋銭の引き合わせで俳人石倉翠葉の俳誌の編集を手伝うことになった。それがきっかけで博文館に入社し編集者となる。小説家住井すゑ(1902年 - 1997年)は1935年7月末、夫犬田卯、娘増田れい子(1929年 - 2012年)を含む家族で夫の郷里、牛久村城中に移住し、数軒隣に住む芋銭と親交があった。数百世帯の小集落ではあるが文化人を多く輩出したことになる。小川芋銭検定は、小川芋銭の人物像や作品など小川芋銭に関するさまざまな知識を問う検定。2014年11月23日の実施で第9回となる。試験の種類は小学生の部、初級、中級、上級、最上級、特別級があり、飛び級受験は認められない。合格者には認定証が贈られ、「小川芋銭展」図録を割引で購入できる特典が付く。小川芋銭研究センターの閉鎖に伴い、現在は実施されていない。

出典:wikipedia

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