松(まつ)は大日本帝国海軍の駆逐艦。松型駆逐艦(松型一等駆逐艦)(丁型)の1番艦。日本海軍の艦名としては2代目である。丁型一等駆逐艦第5481号艦として舞鶴工廠で建造。1943年(昭和18年)8月8日、起工。当時の舞鶴工廠は、夕雲型駆逐艦3隻(浜波、早波、早霜《345号艦》)、秋月型駆逐艦8番艦「冬月《361号艦》」等の建造、損傷艦(不知火、初春、太刀風、長波、大波、巻波、名取、長良、木曾《11月10日到着》)等の修理を抱えていた。同年12月22日、命名。同日附で駆逐艦一等の部中に松型が新設され、その1番艦に定められる。1944年(昭和19年)2月3日に進水し、本籍を舞鶴鎮守府に定められる。3月25日、「松、冬月」の艤装が急がれる中、舞鶴では松型4番艦「桃」が進水する。また秋月型12番艦「花月」や松型8番艦「槇」、同型11番艦「榧」の建造も始まっている。同日附で、米井垣雄少佐(古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」水雷長、樅型駆逐艦4番艦「栗」駆逐艦長)等)は松艤装員長に任命される。4月27日附で米井少佐は本艦初代駆逐艦長に任命。4月28日、竣工。訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入され、5月1日に舞鶴を出港して呉に回航された。6月2日、松駆逐艦長は米井少佐から、吉永源少佐(吹雪型駆逐艦15番艦「天霧」沈没時駆逐艦長)に交代。後日、米井少佐は松型9番艦「樅」駆逐艦長に任命され(9月4日附艤装員長、9月7日附駆逐艦長)、同艦沈没時(1945年1月5日)に戦死した。吉永駆逐艦長を迎えた「松」は6月18日まで瀬戸内海方面で慣熟訓練を行った後、長良軽巡洋艦1番艦「長良」、夕雲型駆逐艦19番艦「清霜」とともに横須賀に回航され、第十一水雷戦隊に加勢された他の軽巡洋艦、駆逐艦および輸送艦とともに、小笠原諸島方面への輸送作戦に投入された。「松」は機銃を増設、上陸作業用の十m運貨筒を搭載。軽巡「長良」と秋月型8番艦「冬月」および第4号輸送艦とともに硫黄島への輸送部隊の第一陣に加わり、6月29日に横須賀を出撃。硫黄島への輸送任務を終えて父島を経由し、7月2日に横須賀に帰投した。帰投後、「松」は横須賀鎮守府部隊に編入された。7月15日、日本海軍は秋月型2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊を、松型4隻(梅、竹、松、桃)により第43駆逐隊を、それぞれ編制する。第41駆逐隊司令には脇田喜一郎大佐、第43駆逐隊司令には菅間良吉大佐が任命された。2人とも陽炎型駆逐艦8番艦「雪風」駆逐艦長を務めた経歴を持つ。7月23日、南方諸島への緊急輸送作戦を実施するにあたり、連合艦隊より第三航空戦隊(空母「瑞鳳」)と護衛の駆逐艦4隻(秋月型駆逐艦2隻《初月、秋月》、満潮型《山雲》、不知火型《野分》)が派出され、輸送作戦護衛に協力することになった。「瑞鳳」は本来の搭載航空隊ではなく、対潜哨戒を主目的とする第九三一海軍航空隊より九七式艦上攻撃機12機を受け入れた。7月29日、「松」は第二護衛船団司令部(高橋一松少将・海兵40期。吹雪型駆逐艦21番艦「暁」初代駆逐艦長等を歴任)の旗艦として、『第三七二九船団』を指揮。神風型駆逐艦5番艦「旗風」、第4号海防艦、第12号海防艦、第51号駆潜艇と、第109師団(栗林忠道中将)指揮下の歩兵第145連隊主力を乗せた輸送船5隻を護衛し、館山を出港して父島へ向かった。硫黄島の戦いに備え、硫黄島の戦力を増強するための輸送作戦である。輸送船団は父島に入港。続いて8月3日、硫黄島へ進出した。『第四八〇四船団』と改称後、8月4日8時に父島を出航した。しかし、10時30分に父島北西20海里の地点にさしかかったところで、スカベンジャー作戦のため来襲した第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機に発見された。一部書籍では、米軍は空母「瑞鳳」を仕留めるために行動していたとする。この時、「瑞鳳」は第61駆逐隊(初月、秋月)、第4駆逐隊(野分、山雲)に護衛されて小笠原諸島・硫黄島方面への船団護衛に従事、8月2日に横須賀へ帰投。同日附で直接護衛部隊から除かれていた。翌日には第九三一海軍航空隊より借りていた九七艦攻10機(事故で2機喪失)も返却している。8月4日、第一空母部隊(ホーネットⅡ、フランクリン、カボット)と第二空母部隊(バンカー・ヒル、レキシントンⅡ、サン・ジャシント)から攻撃隊が発進。艦載機は二波に分かれて襲来した。「松」は第一次空襲で5機撃墜を報じた。空襲後の第四八〇四船団および父島在泊艦艇は全滅状態となる。健在艦は「松」と第4号海防艦(戦死4、負傷21)、「利根川丸」を残すのみとなり、損傷した第12号海防艦(戦死6、負傷50)は別途で横須賀に向かっていた。ミッチャー中将は第四八〇四船団を全滅させるために、クリーブランド級軽巡洋艦「ビロクシ 」("USS Biloxi, CL-80") 、「モービル」 ("USS Mobile, CL-63") 、「サンタフェ 」("USS Santa Fe, CL-60")の大型軽巡3隻および駆逐艦12隻の混成部隊(L・デュ・ボース少将、米第13巡洋艦隊)を分離させて、第四八〇四船団が彷徨っている海域に急行させた。この動きは日本側にも観測された。18時ごろ、第4号海防艦はデュ・ボース少将の艦隊を発見して砲戦を開始した。「松」も18時30分に砲撃を受けたことを報告。第四八〇四船団は利あらずと更なる退却を続けていたが、第4号海防艦と「利根川丸」を逃がす為、高橋少将(松座乗)は『四号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ』と命令、「松」は反転すると単艦でデュ・ボース少将の艦隊を迎撃していった。19時15分、巡洋艦および駆逐艦10隻と交戦中と打電。交戦地点は聟島の南西約20kmであった。19時40分、「松」は第4号海防艦に対し『われ、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す』と最期の打電をおこなう。この後、「松」は消息不明となった。「松」が逃がそうとした「利根川丸」も逃げ切ることが出来ず、20時ごろに艦砲射撃およびB-24(サイパン島より発進)の夜間爆撃で撃沈された。「松」乗組員は吉永艦長以下全員が戦死し、高橋少将以下第二護衛船団司令部員全員もこれに殉じた。その最後の戦いの詳細は不明であるが、アメリカ側の記録では、聟島北東25海里地点で、モービルが指揮下の駆逐艦とともに「松」と「利根川丸」を撃沈したとある。第4号海防艦は静岡県伊豆下田港へ到着、第12号海防艦は翌日横須賀へ帰投した。また「旗風」も内地にたどり着いた。10月10日、駆逐艦「松」は松型駆逐艦、帝国駆逐艦籍、第43駆逐隊のそれぞれから除籍された。
出典:wikipedia
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