安佐南区(あさみなみく)は、広島市を構成する8つの行政区のひとつ。1980年(昭和55年)4月1日 - 広島市の政令指定都市移行と同時に設置。祇園町、佐東町、安古市町、沼田町の旧安佐郡南部区域から成り、人口は、広島市8区の中で最多の約24万人で、市立大学、私立大学、市立高校、私立高校などが多く置かれた学園都市となっており、そのため、区章はペンを模している。広島市に合併以来、広島市による安佐地域への都市化政策・投資が目白押しで、急速に都市化が進んでいる。広島市第三セクター広島高速交通広島新交通1号線(アストラムライン)の区間のほとんどはこの安佐南区であり、その開通によるマンション・戸建住宅・商業施設の増加に伴う人口流入も大である。関係者によると、広島市が安芸地区より安佐地区に多く投資しているのは、安芸地区で進まない合併問題(海田町・坂町・熊野町による広島市への合併拒否)があり、地域の一体的な開発が難しいためで、合併問題が解消すれば安芸地区への投資は増えると言う。※公民館は、「教育」の項を参照警察消防工業は、以前三菱重工業の広島(祇園)工場が存在したが2003年に閉鎖された。旧油谷重工はコベルコ建機株式会社広島事業所となって創業している。農業は、川内(旧佐東町)では「広島菜漬」が生産されている。江戸時代に京菜を導入したと言われている。以下に記載する商業施設は大規模で広域集客力のある物に限定し、店舗の大まかな説明も記載している。百貨店はサテライト店舗でない物、ショッピングセンターは原則10,000m以上(参照)としている。ただし、施設が集積しているなどしている場合は、例外的に掲載している場合も有る。高速道路一般国道主要地方道一般県道広島市の文化財(1) 有形文化財:建造物・広島市の文化財(10) 記念物:史跡・広島市の文化財(11) 記念物:名勝・広島市の文化財(12) 記念物:天然記念物・広島市の文化財(13) 登録文化財より。公立私立区内の公立高校は1975年(昭和50年)以降の創立で、広島市の旧市内(中、南、西各区全域と東区の一部)と違い総合選抜が行われなかった。結果、安古市高等学校が県立高校屈指の難関高となって旧市内の私立高校への上位層流出をある程度食い止めた反面、安古市高等学校のある毘沙門台団地の生徒で安古市高等学校へ入学できない生徒は、必然的に区内および安佐北区の他校への遠距離バス通学が必至となった。このため、毘沙門台団地の住民の一部より「安佐南・北区での総合選抜の実現」の運動がされていたが、アストラムラインの開通による通学事情の改善と旧市内での総合選抜廃止の動きの流れの中で実現せずに立ち消えになった。公立私立公立私立公立公立私立公立私立安芸武田氏は、承久3年(1221年)の承久の乱の戦功によって安芸国守護に任じられたことから始まる。武田信時が元寇に備えて佐東銀山城(安佐南区祇園町)を築き、南北朝時代に武田信武が足利尊氏に属して戦功を上げ、甲斐国と安芸国の守護に任命され、武田氏信が安芸守護となった。大内氏と対立関係にあり、応仁の乱でも東軍方につき、以降、尼子氏らと組んで大内氏に対抗したが、1541年(天文10年)6月に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城した。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は武田信重の子にあたり、江戸時代前期、朝廷や徳川将軍家、諸侯の診療にあたった武田道安も、安芸武田氏の流れを汲むとされる。また、子孫には呉武田学園理事長の武田信寛がいる。安芸香川氏は、承久3年(1221年)の承久の乱の戦功によって安芸国に地頭職を得て、香川景光が八木城(安佐南区八木)を築いた。安芸武田氏に従ったが、武田氏の滅亡により、毛利氏一門となって香川光景が家臣として活躍。毛利水軍の一角(川内水軍)も担って、多くの戦に参加して功績を上げた。毛利氏の防長移封以後の香川氏は、岩国領吉川氏の家老職を務め、香川正矩は『陰徳記』を記す。その次男の景継は延宝元年(1673年)、宣阿として『陰徳記』の加筆・修正を行い『陰徳太平記』を出版するなど、歌人として京(京都)に在住するようになり、「梅月堂」と称して徳大寺家に仕えた。また、その子孫も代々徳大寺家に仕え、著名な歌人を輩出した。香川正経(正恒)は、現在も岩国市に残る「香川家長屋門」を建て、香川景晃は文化3年(1806年)、今津・室の木沖干拓事業を進め、「麻里布開作」と名付けて、岩国を海上交通や物流の拠点とした。また、文人・歌人としての家系である香川氏らしく、国文学者や歌人としても活動。岩国市藤生の「松巌院」には、景晃の書が遺っている。
出典:wikipedia
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