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青木重兼

青木 重兼(あおき しげかね)は、摂津麻田藩の第2代藩主。旗本青木可直の長男、初代藩主青木一重の養子。諱は重壽(しげなか)とも言う。慶長11年(1606年)、播磨姫路藩にて生まれた。慶長15年(1610年)、徳川家康に初めて拝謁する。初代藩主一重には嗣子がなく、正重を養嗣子として迎えていたが、大坂城落城を機に病気を理由に廃嫡して、元和5年(1619年)の一重の隠居に伴ない、その養嗣子となって麻田藩1万石を継いだ。寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に随行し、従五位下甲斐守に叙任された。寛永4年(1627年)、飛び地となっていた伊予国の領地を、摂津国豊島郡、川辺郡内に移転される。寛永13年(1636年)、初めて領国へ帰ることを許された。藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。寛永18年(1641年)より、京都御室の仁和寺の造営奉行を務め、功績を挙げた。10年に及ぶ京都滞在中、花園の妙心寺近辺に仮寓した縁で、妙心寺の愚堂禅師に参禅するようになった。明暦2年(1656年)、摂津の普門寺で隠元という中国より渡来した禅師と知遇を得た。万治2年(1659年)2月、摩耶山麓に仏日寺を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には、第2代住持として隠元の弟子の慧林性機を招致した。寛文3年(1663年)、摂津川辺郡の多田院再興の奉行も務めた。寛文7年(1667年)には、萬福寺の大雄宝殿が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。寛文12年(1672年)12月9日、隠居(致仕)した。彼には女児しか子がなく世継ぎがいなかったため、婿養子として重成(重正)を迎えて、これに家督を譲った。重兼は仏門に傾倒しており、延宝7年(1679年)、隠元の弟子で萬福寺第2代住持の木庵の下で出家した。僧名は端山性正という。その後、川辺郡に大覚山方広寺を開き、七堂伽藍を建立し、開山に木庵を招いた。後には自らはその2世住持となった。天和2年(1682年)、麻田において死去した。享年77。法名は竹岩院殿端山性正大和尚。墓所は方広寺。

出典:wikipedia

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