土井氏(どいし)は、日本の姓氏のひとつ。著名なのは、土井利勝に始まる江戸時代の大名一族である。以下これにつき詳述する。土井氏は、江戸時代に徳川幕府に提出した資料によれば、清和源氏土岐氏の庶流とされ、土岐五郎光定(光貞)の次男土井孫太郎定親から始まり、師親、貞秀と続き、途中不詳ながら戦国期に(早乙女)利重、(土居)利昌、利勝へとつながる。これは当時家系を名流に求めるのが常であったので、真偽は疑わしい。土井氏の直接の始祖である土井利勝も出生と育ちが複雑である。徳川家康の母於大の方の実兄水野信元の庶子として天正元年(1573年)に浜松で生まれ、のちに土井利昌(正利)の養子になったとされ、家康の母方の従弟であった。ただし異説もあり、利昌の娘(後玉等院)に産ませた家康の隠し子で、水野信元の養子となり、信元が暗殺されると利昌の養子にされたとも言われる。養父である土井利昌は、甚三郎または早乙女小左衛門と称し、家康に仕えて慶長3年(1598年)9月11日に没した。利勝は早くから家康と秀忠の近くで仕え、慶長7年(1602年)12月28日下総小見川1万石を与えられ、その後2万石に加増。慶長15年(1610年)1月に下総佐倉3万2000石、寛永10年(1633年)4月7日に下総古河16万石となった。幕府内でも順調に出世し、慶長15年(1610年)8月3日(一説には元和9年(1623年)9月)には老中、寛永15年(1638年)11月7日には大老に就任する。正保元年(1644年)7月10日に利勝が没すると、その遺領は4人の子(利隆、利長、利房、利直)に分与された。さらに利隆没後も分与があった。以下にその家系を示す。なお、利勝の血統は男系は絶たれ、女系が続いている。宗家らしく、幕閣の重臣を輩出した。利勝の大老は別格として、2代利隆が若年寄、8代利里が京都所司代、10代利厚と11代利位が老中となった。早くから利勝の血統が断絶し、養子相続が続いた。2代利意が寺社奉行、11代利善が寺社奉行と陸軍奉行を勤めている。初代利房は兄の利長より優遇が目立ち、石高も多く、老中も勤めている。7代利忠は藩政改革、財政再建を行い、藩校明倫館を設立して洋学を奨励、藩経営の商店「大野屋」の設立や、蝦夷地開拓に興味を持ったことで有名。 太線は実子、細線は養子。土井氏発祥の地は三河国額田郡土井村といわれ、現在の愛知県岡崎市土井町蔵屋敷の社口神社に、「土井氏一族発蹟地」という石碑がある。
出典:wikipedia
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