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広島文理科大学 (旧制)

旧制広島文理科大学(きゅうせいひろしまぶんりかだいがく)は、1929年(昭和4年)4月に設立された官立の旧制大学。高等師範学校を基盤に、中等学校教員の養成を主要な目的として設立された「旧二文理大」の一つである。歴代学長は附置校となった広島高等師範学校の校長を兼任。大学本館は、文理大発足後の1931年6月に竣工したRC造3階建の建造物で、1933年までに現状(2014年)のヨの字型構造となった。文理大各学科の事務室・研究室が設置されていたが、第二次世界大戦末期には建物全体の1/3が中国地方総監府に接収された。原爆被災により本館は大きく損傷し建物内部もほぼ全焼したが倒壊を免れ、応急修理を経て1946年9月には本館での講義・研究が再開された。戦後の新制移行に際して広島大学に移管されることとなり、文理大を母体として発足した理学部の1号館(本館)校舎として使用された。1991年、理学部が東広島市の新キャンパスにへ移転すると建物は閉鎖され、その後は国立大学財務・経営センターが管理していたが、2010年から広島市に移管され、旧大学本部キャンパスの大半を転用した東千田公園内の遺構建物となった。戦後、広島大学の旧制前身校に由来する被爆建造物が次々に取り壊されていく(広島大学旧理学部1号館#旧・広大キャンパス内のその他の被爆建造物参照)なか、広島大学附属中学校・高等学校講堂(旧・広島高等学校講堂)とともに、原爆投下時からほぼそのままの姿を残す、広島市内でも貴重な数少ない被爆建造物の一つとなっているが、2014年現在は壁面タイルの欠落など老朽化などの理由で立ち入り禁止となっているため、建物内部も公開されていない。その一方で保存に向けての協議も進行中である。また、被爆時に負傷者が暗闇のなか館内を手探りで脱出したさい、血痕が付着した1階北口の壁面タイルはキャンパス移転に際して取り外され、2つの衝立に仕立てられて移転先の理学部校舎において展示されている。永懐閣(えいかいかく)は、1925年10月11日、広島高師の初代校長である北条時敬校長の転任を記念して尚志同窓会によって建造されたのち高師に寄付され教育博物館として使用されたレンガ造・2階建ての建物である。広島では初めての本格的ゴシック風建造物であり、設計・施工は県立広島職工学校(現・広島県立広島工業高等学校)が担当した。高師(文理大)正門(現在の東千田キャンパス正門)に向かって右側の電車通りに面する地点に位置し、当初は展示室・貴賓室のほかペスタロッチ研究室が設置されたが、文理大の発足にともない一時閉鎖されたのち、1934年1月には同校の附属教育博物館に転用された。その後、永懐閣は博物館としては開店休業状態になっていたが、1944年8月に附属理論物理学研究所が設置されると同研究所の所屋として使用された。原爆被災時には爆心地から1.6㎞の位置にあり、爆風によって東西のレンガ壁と尖塔アーチを残してすべて崩壊した。このため詳細な時期は不明だが、戦後ほどなくして解体・撤去された。跡地は広島大学東千田キャンパスが立地する敷地の一部となっている。1945年8月6日の原爆投下による熱線・爆風により、大学本館は内部が1Fの3室を除いて全焼し、外郭のみが残る状態となった。理論物理学研究所として使用されていた高師以来の永懐閣も先述の通りほぼ全壊した。原爆による死亡者は、即死または数カ月以内に死亡した者だけで教職員が46名、学生が21名(学徒動員されずに残っていた学生や東南アジア諸国からの留学生である南方特別留学生が含まれる)、計67名である(1945年末までに計134人が死亡)。また文理大本館に設置されていた中国地方総監府の職員も多数の犠牲者を出した。文理大では1934年(昭和9年)から三村剛昂(理論物理学研究室)と岩付寅之助(幾何学研究室)による相対性理論と量子論の包括を目指す「波動幾何学」の共同研究が開始され、理論物理学の「広島学派」として全世界からの注目を集めていた。「理論物理学研究所」は、この共同研究を基礎に戦時下の1944年(昭和19年)8月、大学附属の研究所として設置された。この研究所は理論系の物理学研究所としては日本最初のものであり、初代所長には三村が就任、施設には先述の永懐閣があてられた。三村は物理学の権威として広島に駐留する陸軍関係の講演会でしばしば講師を務め、偶然にも広島への原爆投下前日の1945年(昭和20年)8月5日、宇品の陸軍船舶練習部において「科学兵器について」の演題で原子爆弾製造の可能性について言及し「今次大戦には到底間に合わない」と述べている。しかし設立から1年も経たない翌日の原爆被災により研究所や設備は完全に焼失し、岩付など2名が殉職、三村を含む多くの研究員も重傷を負った。戦後まもなく研究所は御調郡向島の文理大付属臨海実験所に間借りしていたが、三村所長の郷里である賀茂郡竹原町(現・竹原市)から施設の提供を受け、1948年(昭和23年)3月にこの地に移転・開所して再出発を果たした。新制広島大学への移行に伴い、研究所は広島大の附置研究所となり、以後約40年間、竹原の地で活発な研究活動が行われた。しかし1990年(平成2年)、京都大学基礎物理学研究所との統合により竹原の研究所施設は廃止された。現在、跡地には記念碑が建立されており、旧研究所建物が広島大学瀬戸内圏フィールド科学教育センターとして使用されている。第二次世界大戦後、広島県における国立総合大学設立をめざす動きが起こり、1947年(昭和22年)1月には県政座談会で国立広島総合大学の設立が取り上げられ、県民の熱望が高まった。これを受けて文理大も同年10月「国立広島綜合大学設立試案申請書」を文部省に提出、12月23日には県知事直轄の国立広島総合大学設立推進本部が設置された。翌1948年(昭和23年)1月12日には広島大学設立期成同盟が結成され、文理大は「国立広島総合大学設置申請書」を文部省に正式に提出、以上のような動きが1949年(昭和24年)5月の新制の国立広島大学設立につながった。

出典:wikipedia

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