徳武 定祐(とくたけ さだゆき、1938年6月9日 - )は、東京都豊島区出身(青森県三戸郡五戸町生まれ)の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。旧名は定之。早稲田中学校へ入学するも、野球に集中する為に早稲田実業学校高等部へ移籍。2年次のに夏の甲子園都予選で準決勝へ進出するが、並木輝男を擁する日大三高に9回サヨナラ逆転負け。夏の都予選は1年生エース・王貞治の好投もあって勝ち進む。準決勝では後に国鉄で同僚となる村田元一を擁する明治高に2-1で辛勝し、決勝は成蹊高に13-1で大勝。同期の醍醐猛夫とクリーンアップを打ち、四番・遊撃手として夏の甲子園に出場。1回戦で新宮高を破って2回戦に進出するが、県岐阜商に敗退。高校卒業後は早稲田大学商学部に入学し、東京六大学リーグでは在学中2度の優勝に貢献。の日本選手権では決勝で関西学院大学を下して優勝。早大では主に三塁を守り、4年時には主将を務め、秋季の早慶六連戦でも活躍。1学年下の安藤元博とともに優勝の原動力となる。本塁への激しい突入プレーで「リンゴ事件の再来か」と言われるなど紛糾の主役となった。リーグ通算88試合出場、313打数92安打、打率.294、3本塁打、46打点。秋季リーグからベストナインに5季連続選出(外野手1回、三塁手4回)された。大学同期に金沢宏(大昭和製紙)、野村徹がいる。に11球団の争奪戦の末、国鉄スワローズへ入団。当初は巨人から長嶋茂雄をショート、広岡達朗をセカンドに回すからと誘われたが、大学時代の長嶋の恩師である砂押邦信監督に「長嶋はショートはできない、巨人に入団しても出番はないからうちに来なさい」と諭され、入団を決めた。金銭面よりも、選手としての出場機会を取った選択だった。国鉄は選手の給料もままならない貧乏球団であったが、同球団としては破格の600万円で契約。「徳武に出す金があるなら国鉄の運賃の値上げを止めろ」という抗議が殺到し、林家三平もこれをネタにした。入団1年目はシーズン途中から4番を任され、球団初のAクラス入りに貢献。新人で3例目のフルイニング出場も果たした。には藤村富美男一軍打撃コーチの指導を受け、生涯一度の打率3割を記録。リーグ打撃成績6位に喰いこみ、オールスターゲームにも出場。入団から6年間で821試合連続出場の記録を持つが、の開幕3戦目でストップ。当時の連続試合出場の記録を持っていた飯田徳治監督から「接戦だったため徳武の記録を忘れていた」との不可解な理由で止まってしまう。に河村保彦との交換トレードで、内野手の層の薄い中日ドラゴンズへ移籍。産経時代は板東英二に強く、当時の首脳陣が「徳武を取ったら板東の勝ち星も少しは増えるだろう」という理由で迎えられ、レギュラー三塁手として活躍。に島谷金二が入団すると控えに回り、に現役引退。引退後はドジャースで1年間学び、帰国後は中日の二軍打撃コーチ()・一軍打撃コーチ( - )・ヘッドコーチ( - )、ロッテの一軍打撃コーチ( - )・二軍打撃コーチ( - )・チーフコーチ( - )・二軍監督( - )・一軍ヘッド兼打撃コーチ( - )、フロント(, )を歴任。監督代行を務めることが多く、ロッテのヘッドコーチを務めていた1990年6月23日の西武戦(西武球場)で、園川一美のボークの判定を巡って金田正一監督が審判の高木敏昭に対して暴行し退場、30日間出場停止となったため、出場停止期間中の監督代行を務めた。また、中日でヘッドコーチを務めていたには、監督の高木守道の辞任に伴い監督代行を務めたが、12勝25敗と低迷し徳武は解任。島野育夫二軍監督が昇格し、シーズン終了まで監督代行を務めた。ロッテ、中日共にコーチとして最下位になっている。その後は、プロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスのコーチや、母校・早稲田大学の打撃コーチを務める。元タレントで、3月31日に郷ひろみと入籍した徳武利奈は次女。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。