トウメイは日本の競走馬。1971年天皇賞(秋)と有馬記念を連勝して史上初の牝馬の啓衆社賞年度代表馬に選出された。代表産駒に史上初の天皇賞母子制覇を成し遂げたテンメイがいる。競走馬名の「トウメイ」は、「メイトウ(名刀、銘刀)」で申請したところ却下されたため、メイとトウをひっくり返したものである。"※馬齢は旧表記に統一する。"1966年5月17日、北海道静内町の谷岡牧場で生まれる。1965年、谷岡牧場場長の谷岡増太郎は繋養する繁殖牝馬トシマンナを種牡馬トサミドリと交配させようと計画したが、体格が小さいことを理由にトサミドリ側から断られた。代わりに交配する種牡馬を探す谷川は牧場に隣接する軽種馬農協静内種馬場で繋養されていた種牡馬シプリアニの筋肉の質と柔軟性を見て交配を閃いた。その結果誕生したのがトウメイである。シプリアニは後にヒカルイマイやタカツバキを送り出し種牡馬として成功を収めるが、当時はまだ無名の存在であった。誕生当初のトウメイは小柄ながらも均整のとれた体格と、父シプリアニの譲りの柔軟性をもっていたが、次第に成長が止まり、外見上はただの小柄な馬になってしまった。見栄えのしない外見はトウメイに生涯つきまとい、「ネズミのよう」と形容されることになる。しかしながら気性面では負けず嫌いで気の強い面を見せていたという。谷岡牧場は庭先取引でトウメイを売却しようと他の馬とのセット販売まで試みたが上手くいかず、1967年秋にセリ市に上場され、165万円で落札された。希望価格を200万円に設定していた谷岡は落胆し売却せずに連れ帰ろうとしたが、せっかく値がついたのだからとセリ市の関係者に説得され売却を決めた。トウメイを購入した近藤克夫は苫小牧市の藤沢牧場へ移送して競走馬となるための訓練を施し、大井競馬場でデビューさせるつもりでいたが、預託する予定であった調教師が急死した。貧相な体格が災いして代わりに預かろうとする調教師はなかなか現れず、結局1968年春になって中央競馬所属で栗東トレーニングセンターに厩舎を構える清水茂次が、セリ市で購入を勧めた責任を取る形で引き受けることになった。半年後、トウメイの能力が向上した形跡がないと判断した清水は、育成に要した費用にお詫びを上積みした300万円を近藤に支払ってトウメイを地方競馬へ移籍させようとしたが、引き受け手が見つからなかったため話は頓挫し、やむなく引き続きトウメイを手元に置くことにした。清水は担当厩務員を決めようとしたがまたもや引き受けようとする者が現れず、調教助手を務める清水の弟が、調教の合間に面倒を見ることになった。トウメイは札幌競馬場へ移送されたが気性が荒く人になつかなかったため積極的に面倒をみようとする者はおらず、夕方まで厩舎前の空き地に留め置かれ、夕方になると厩舎の中に入れられる日々を過ごした。1968年8月30日、札幌競馬場で行われた新馬戦でデビュー。8頭中6番人気とファンからの評価は低かったが2着に入った。翌9月の新馬戦を勝つとトウメイに対する厩舎関係者の評価は一変し、担当厩務員も決まった。栗東トレーニングセンターへ移送されたトウメイは10月の萩特別で5着に敗れた後、11月から12月にかけて3連勝を達成。関西の3歳牝馬ナンバーワンと評価されるようになった。翌1969年3月に京都4歳特別を勝ち重賞初勝利を挙げると、4月の桜花賞では1番人気に支持された。5番手を進んだトウメイは最後の直線で一時先頭に立ったがヒデコトブキに交わされ、2着に敗れた。レース後ヒデコトブキは右前脚の故障を発症し、5月の優駿牝馬では再び1番人気に支持されたが、前を行くライトパレーを捉えることができず、さらにシャダイターキンに交わされ3着に敗れた。6月にオープンを勝った後札幌競馬場へ移送され、3戦1勝2着2回の成績を上げた。この時期に管理調教師であった清水茂次が死去し、トウメイは佐藤勇厩舎を経て坂田正行厩舎へ移籍した。1970年に入り坂田の下、3月のオープン、4月のマイラーズカップを連勝。しかし5月の阪急杯では2着に敗れた上、右後脚に裂蹄の一種である白腺裂を発症した。復帰まで半年以上を要すると診断されたことを受け、陣営は復活を期してトウメイを療養させることにしたが、当時の競馬ファンやマスコミはこの選択を、「あれだけの安馬が、こんなに稼いだんだからもう充分じゃないか。まだ稼がせるつもりか」と批判的にとらえた。翌1971年1月にレースに復帰したトウメイは復帰4戦目のオープンを勝つと、続く4月のマイラーズカップで前年の菊花賞馬ダテテンリュウを2着に退け優勝し同レースを連覇した。6月には前年2着に敗れた阪急杯を、出走馬中最も重い58kgの斤量を背負いながら優勝した。調教師の坂田によると阪急杯の負担重量とレース内容から、「これはひょっとしたら長い距離もいけるかもしれんぞ」と考えるようになったという。10月に入り陣営は関東遠征を敢行。牝馬東京タイムズ杯では59kgのトップハンデ(2番手はナスノカオリ・パールフォンテンの54kg)を強いられたがこれを快勝。3番人気で天皇賞(秋)に出走した。このレースでは「マイルの女王」と呼ばれるようになっていたトウメイが3200mの長距離戦をいかに乗り切るかに注目が集まった。大川慶次郎によると菊花賞優勝馬アカネテンリュウや東京優駿優勝馬ダイシンボルガードなどを相手に勝つのは無理だと見る者が圧倒的に多かったが、トウメイは両馬を下し優勝した。大川は競馬場や距離、斤量、馬場状態を問わないトウメイの活躍ぶりに「本当にオールマイティな馬なんだな」と感じたという。続いて陣営は有馬記念出走を決め、トウメイはレースまでの時期を遠征馬の入る外厩で過ごすことになった。前日発売の段階では有馬記念で過去2年連続で2着に敗れていたアカネテンリュウが1番人気に支持されていたが、馬インフルエンザのため出走を取り消した。メジロアサマとカミタカも同様に出走を取消し、この年の出走馬は有馬記念史上最少となる6頭となった。最後方からレースを進めたトウメイは第4コーナーで先頭に並びかけるとそのまま先頭に立ち、優勝した。大川慶次郎は「メジロアサマが取り消したことは、トウメイにとって幸運以外の何ものでもなかった」と評し、外厩で過ごしていたことによりトウメイ自身は感染を免れたようだと述べている。調教師の坂田もこの勝利を、「トウメイは強いのも強かったが、……力に運がプラスされていた」と振り返っている。中央競馬史上、牝馬による有馬記念優勝はスターロッチ以来11年ぶりであった。トウメイはこの年の啓衆社賞年度代表馬、最優秀5歳以上牝馬に選出された。レース後トウメイは、馬インフルエンザの感染拡大防止のため栗東トレーニングに戻ることを許されず、東京競馬場に留め置かれた。3月になって競馬が再開されると栗東トレーニングセンターへ移送され、そのまま北海道へと移送された。この影響により、トウメイの引退式は行われなかった。春に関西で引退レースに出走するプランもあったが、間もなく流感にかかったため、有馬記念が最後のレースになった。引退時の獲得賞金額は当時の中央競馬における牝馬歴代第1位であった。トウメイは引退後14頭の産駒を出産した。そのうち最も活躍したのはルイスデールとの間に生まれたテンメイで、1978年に史上初の天皇賞母子制覇を達成した。産駒にはテンメイのほか、中央競馬で2勝を挙げた後ホッカイドウ競馬へ移籍し、道営記念などを勝ったホクメイがいる。競走馬引退後のトウメイが繋養されていた幕別牧場の場長土井勇は、産駒は総じて体が小さく、気性の荒い馬が多かったと述べている。トウメイの馬主であった近藤克夫は、遺族には競走馬を所有しないよう、ただしトウメイだけは死ぬまで世話をするよう遺言していた。近藤が1991年に死去するとトウメイを除く繁殖牝馬はすべて売却されたが、場長の土井は高齢のトウメイを他の牧場へ移すのは忍びないと考え、幕別牧場でトウメイの繋養を続けた。土井によるとトウメイは1997年3月上旬に体調を崩し、食欲を失っていった。同月下旬に入ると食事をとらなくなり、点滴で栄養を補給するようになった。翌4月7日、土井が様子を見に馬房を訪れると、トウメイは息を引き取っていたという。トウメイは、近藤の遺言に基づいて牧場内に建てられていた墓に埋葬された。トウメイの死とともに幕別牧場はその役割を終えたが、墓参りに訪れるファンのために牧場の看板は掲げられ続けた。大川慶次郎は、牝馬には成績が安定せず全盛期が短い傾向のある中、トウメイが3年以上にわたり安定した成績を残したのは特筆すべきことだと指摘している。大川はさらに、生涯着外(6着以下)になることがなかったことから、競走馬として「最強馬の中でも上位」にランクすると評価している。前述のように競走馬時代のトウメイは気性が荒く、人になつかなかった。また、他の馬が近づくと蹴ることもあった。主戦騎手を務めた清水英次によると、トウメイにはレース中に鞭を入れると怒って走らなくなる傾向もあった。一方幕別牧場場長の土井勇によると、競走馬引退後のトウメイは終始一貫しておとなしく、むしろ他の馬に遠慮するところを見せていた。しかしながら土井は産駒が見せた気の荒さから、トウメイの気性も本来は荒いのではないかと推測している。トウメイは内臓や歯が丈夫で、飼い葉をよく食べ病気をしたことがなかった。幕別牧場場長の土井勇によると晩年を除き、獣医師にかかった記憶はほとんどないという。産駒の数が多かったこともあり、現在も牝系子孫は残っている。第8仔トウウンの孫にあたるニックバニヤンが2008年の羽田盃を制している。
出典:wikipedia
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