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タイタニック (客船)

タイタニック(RMS "Titanic")は、20世紀初頭に建造された豪華客船である。処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(他に1,490人、1,517人、1,522〜23人など様々な説がある)であり、当時世界最悪の海難事故であった。その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北大西洋航路用に計画した、3隻のオリンピック級客船の2番船であった。姉妹船にオリンピック、のちに病院船として運航されたブリタニックがある。主任設計技師はアレキサンダー・カーライル()で、沈没時に運命を共にしたことで有名なトーマス・アンドリューズはホワイト・スター・ラインと折り合いの悪かったアレクサンダー・カーライルが辞任したのちに主任設計技師として計画に参加し、タイタニックの設計図面を完成させた。北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフ造船所で建造された、当時世界最大の豪華客船である。タイタニックの正式名称「RMS(またはSteamer)Titanic」のRMSは郵便船(英国郵便汽船)を意味する艦船接頭辞であり、船上でステーショナリーを買ったり、手紙を投函することもできた。タイタニック号の造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長・ウィリアム・ピリーが、1907年、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインのジョセフ·ブルース·イズメイ()社長に大型客船3隻の造船計画を発案したことに始まる。ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。また、当時としては安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられていた。特等〜1等船室は贅沢な造りであったが、船体下層の客室にはレシプロ蒸気機関の振動が響くなど、快適とは言いがたい環境であった。船底は二重底になっており、船体も喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分されていた。そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、Gデッキより上の隔壁こそ手動であったが、下層デッキの隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。各区画にも手動スイッチが設置されていた他、15cm以上の浸水時には自動的に閉鎖される機能も備わっていた。そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝され、現に現在から見ても本船は極めて安全な船であると言われている。煙突は4本あるが、ボイラーと接続されているのは3本で、4本目は厨房の換気や蒸気タービンの換気のみに使用された。したがって4本目の煙突からは航行中黒煙は排出されずダミー的なものであった。これは船の外観を重視したためである。また、実際に「4本目の煙突はダミー、伊達であり、この4本目の煙突は、乗客が持ち込んだペットを預かるスペースとして使用されていた」という調査・証言もある。ボイラー室は6つあり、合計29基の石炭ボイラーが設置されていた。その後方には巨大な複式機関(3段膨張4気筒レシプロ蒸気機関)が2基あり、左右2軸のスクリューを駆動した。レシプロ蒸気機関の更に後方には蒸気タービンが1基設置されていた。これはレシプロ蒸気機関を通過したものの、まだ十分な圧力と温度を保った蒸気を再利用するもので、中央のスクリューを回転させ燃費を改善する目的があった。しかし減速ギアを持たない直結タービンだったので、タービン回転数が低く、十分な出力は得られなかった。そのため中央のスクリューは、左右のレシプロ蒸気機関で駆動されるスクリューより若干直径が小さめに造られていた。先述の通り、タイタニックには1年先立って竣工した姉船・オリンピックと、妹船・ブリタニックが存在した。これはドル箱航路であり、他社との競争も激しい北大西洋を航海する際に1隻では賄いきれないため、最低2隻を常に交代させる必要があったためである。予備船を入れての3隻体制は実に合理的な運行体制であった。客船3隻の先駆けとしてオリンピックの造船が開始され、ほぼ同時期に2番船タイタニックが、少し遅れて3番船ブリタニックの造船が開始された。ブリタニックはタイタニック沈没により大幅に造船が遅れ、安全面も大きく見直され再設計されるものの、第一次世界大戦勃発により病院船として徴用、商船として一度も使われないまま触雷により沈没した。一方オリンピックは輸送船として徴用されたが、無事戦火を潜り抜け客船として復帰、1935年まで現役を勤めて引退した。タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に造船が開始されたこともあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つであった。1997年の映画『タイタニック』では、まるでタイタニックのみが最も巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックがその代表であり、タイタニック、ブリタニックという2隻の姉妹船を含め「オリンピッククラス」と呼ばれていた。そのため、タイタニックの写真としてオリンピックが使われることが度々行われていた。これらの事例からわかるように、当時タイタニックはオリンピックの陰に隠れた存在であった。先立って運航されていた一番船オリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックとは多少異なってきた。その代表としてAデッキの一等専用プロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは全体が海に対しベランダ状の吹さらしとなっていたのに対し、タイタニックは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付けサンルーム状の半室内にした。これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためであり、結果タイタニック号はオリンピック号よりもすっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となった。他にも、オリンピックはBデッキの窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックからはBデッキのプロムナードデッキが廃止され、代わりに窓際全体に1等船室を新たに設けるように変更された。その結果、1等船室の数がオリンピックに比べ大幅に増加し、専用のプライベートプロムナードデッキが設けられたスイートルーム(1997年の映画『タイタニック』のヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設計され、また後部には豪華絢爛な一等船客専用レストラン、「アラカルト」が設けられることになった。当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずであったが、1等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピック(45,324総トン)よりも1,004総トン大きい46,328総トンになった。厳密な意味で言えばタイタニックはオリンピックを越し、またオリンピックには存在しないスイートルームの増設など、当時世界最大で豪華な設備を有した客船であった。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉なことに沈没事故の後であった。1912年4月10日に、タイタニックはイギリスのサウサンプトン港にある専用の埠頭であるオーシャンドックからニューヨークへとむけた処女航海に出航した。エドワード・J・スミス船長の指揮下のもと乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せており、一等特別室は、6日の航海の費用4,350ドルと伝えられている。サウサンプトン港出航の直前、ワイルド航海長の着任に伴った上級船員の異動により、降格となったブレア前二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことをライトラー二等航海士に引き継がないまま下船してしまい、双眼鏡はそのまま行方不明となった。このため、周辺の監視を双眼鏡を使わずに肉眼で行うしか方法がなかった。さらにサウサンプトン港出航の際には、タイタニックのスクリューから発生した水流によって、客船ニューヨークと衝突しそうになったが、この時は間一髪で回避できた。そのままフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン(現コーヴ) に寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。14日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは同日に6通の警告通信を受け取っている。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、航海士間での情報共有も徹底されなかった。さらに混信があり、衝突の40分前に近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン」から受けた流氷群の警告も雑音として見過ごされてしまった。タイタニックの通信士たちは前日の無線機の故障もあり、蓄積していた旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。スミス船長は氷山の危険性を認識しており、航路を通常より少なくとも18km南寄りに変更していた。4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。この海域は暖流と寒流がぶつかりちょうど境界面に位置するため、世界的にも海霧が発生しやすい海域として有名であり、タイタニック号が氷山に遭遇した頃も直前まで海面には靄が漂っていた(当直見張員フレデリック・フリートの証言による)。また双眼鏡が無く(但し、双眼鏡自体は『遠くにある物を見る』機能しか持っていない為、タイタニック号が置かれた状況下では、あっても役に立たなかった可能性が高い)、月のない星月夜の海は波もなく静まり返っていたため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。見張り員のフレデリック・フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのは6等航海士だった。ムーディはただちに指揮を執る一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。マードックは即座に「Hard starboard!(取舵一杯)」と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それからテレグラフ(機関伝令器)に走ると、「Full Astern(後進一杯)」の指令を送り、喫水線下の防水扉を閉めるボタンを押した。だが、回避するにはあまりにも時間と距離が足りなかった。氷山まではおよそ400〜450mであったが、22.5ノット(およそ秒速11.6m)から停止するまでに、実に1200mもの距離が必要だったからである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷をかすめ、同船は停止した。このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ、衝突の数秒前に船舶の操縦特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切った。舵は速力が高い方が効きやすいので、「速力を落としたために、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」と主張する説もあるが、あくまで結果から見た推論に過ぎない。そもそも、衝突時にはかなりのスピードが出ていたと推測される上に、氷山発見から衝突までの時間はせいぜい30秒程度しかなかった(説によっては氷山を前方100〜200mほどまで発見できなかったため10秒しかなかったとも言われる)ため、速度はほとんど変化せず、舵効きにも影響しなかったようである。映画等の影響で、防水扉の閉鎖は衝突後だった、缶部員はすぐに逃げ出したとの誤解もあるが、缶部・機関部員で実際に持ち場を離れた者は非常に少なかった。ベル機関長は浸水状況が悪化した後に彼らにも職務からの解放を命じたが、ほぼ全員が最下甲板に留まり汽缶稼働・排水・電力供給を続けた。衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず、船体の破孔はせいぜい数インチ程度の幅で、総面積も1m²程度であったことが海底探索によって判明している。だが、右舷船首のおよそ90mにわたって断続的に生じた損傷が船首の6区画にもたらした浸水は防水隔壁の限界を超えていて、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾に向かって浸水が拡大していった。また、第六区画であった第五缶室の損傷は軽微で、ポンプによる排水も成功したように見えたが、第五・第六区画間の防水隔壁の崩壊により完全に浸水した。これは事故前に発生していた船内火災の影響と言われているが、前部5区画が浸水している時点で沈没は確定しており、いずれ上部から浸水することは免れなかったことから、損傷そのものが無視されることが多い。かつてはボイラーに冷水が触れたことで起こった水蒸気爆発で船体の側面に巨大な穴が開き、ここからの大規模浸水が致命的だったという説が有力であったが、船体調査の結果ではボイラー付近にそのような破孔は確認されなかった。これは海水の流入に備えて、衝突後も稼働していたボイラーの蒸気圧をあらかじめ下げておいた火夫達の決死の尽力の結果である。沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で判明したが、現在最も有力視されているのはティム・フェイキやジェニファー・ホーバー・マッカーシーらが唱えた、船体の損傷よりも衝突の衝撃で広い範囲のリベットが抜け落ち、その結果生じた鋼板の隙間から海水が浸水したのが致命的だったという説である。ハーランド&ウルフ社に残る資料によると、タイタニック号は300万本ものリベットで船体の金属板をつなぐ設計だったが、姉妹船オリンピックと同時注文のためレベル4の鋼鉄製リベットが不足し、船首と船尾はワンランク劣る鉄製のレベル3が使われた上に直径も設計の25ミリより薄かった。またリベット数自体が設計より間引きされ、熟練工の不足のために不完全な打たれ方のものも少なくなかったという。このほか、2005年の海底調査による剥離した船底の発見にもとづき、ロジャー・ロムのように衝突の際にタイタニックは水面下で広がった氷山の突起に乗り上げるかたちで船底にも損傷を受け、沈没時に船体が折れる原因になったという説もある。スミス船長は海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、効果は薄かった。日付が変わった4月15日0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか10-17海里(約18-30km)ほどの距離に、先立って流氷群の注意電報を送っていたカリフォルニアンが停泊していたが、1人しかいない通信士が就寝中で無線を受信できなかった。また、カナディアン・パシフィックの「マウント・テンプル」も受信し救助に向かったが、タイタニックから20km未満の距離の海域に到着した後に、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れて明かりを消して停船し、周辺海域に存在しないよう装った(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88km)と記録されている)。マウント・テンプルの複数の乗客が、タイタニックの船体が折れる音を聞いたと証言している。その他にも、「バーマ」(距離70海里(130km))、「フランクフルト」(距離153海里(283Km))、「バージニア」(距離170海里(315Km))、「バルチック」(距離243海里(450km))、「オリンピック」(距離500海里(約930km))など様々な船が遭難信号を傍受しているが、どれもタイタニックから遠くを航行しており、すぐには救助にいけない状態であった。結局、58海里(約107km)離れた地点にいた客船「カルパチア」が応答しボイラー破損のリスクを負いながら高速(従来14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、「SOSを世界で初めて発信した」とする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。しかし、当時のイギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく(規定では978人分。規定が改訂されたのは、タイタニックの沈没後)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。規定が1万トン級船舶が主流だった頃に作成されたものだったからである。またタイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故も影響していたといわれる。リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。また、定員数一杯に乗せないまま船を離れた救命ボートも多い。これはライトラー2等航海士を含め、多くの士官がボートをダビット(救命ボートの昇降装置)に吊り下げたまま船が沈没することを最大の恥辱と感じていたため、できるだけ早く海面にボートを下し、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、タイタニックの乗組員の多くが未熟で、ボートフォール(救命ボートを吊るロープ)の扱いに慣れていなかったことや、ダビットが乗員の重さで曲がってしまうことを恐れたためともいわれる(実際にはボート設備の施工時に、定員65人乗りのボートに70人乗せてテストを行い良好な結果を得ていたが、その結果を船員に周知しきれていなかった)。最初に下ろされた中には、定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。そして結局、1500名近い乗員乗客が本船から脱出できないまま取り残される状況となってしまった。船底の防水隔壁を徐々に突破していった海水の影響で、タイタニックは船首から沈み、船尾が大きく海面から突き出た状態になった。通常の設計では有り得ない負荷がかかり、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共に船体は二つに折れてしまった。検証によれば折れた個所は構造的に比較的弱かった後部大階段付近(第3煙突前方)であり、引きちぎられるように折れた。なおデッキの多い客船は、沈没の際に早期に転覆するのが通常であり、タイタニックのように最後まで転覆せず、船尾が空中高く持ち上がり、あまつさえその負荷により船体が折れる事例は極めて珍しい。なお、電気系統は船体が折れる直前まで稼働していた。二つに折れたタイタニックは、船首側がまず沈没し、残った船尾側もやや遅れて沈んだ。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かうため、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、ロウ5等航海士が準備を整えて救助に向かった時、沈没から既に30分は経過しており、既に手遅れであった。4月の大西洋は気温が低く、人々が投げ出された海は海水温度が零下2度。乗客の大半は低体温症などでほとんどが短時間(数十分〜20分)で死亡(凍死)か、低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したと考えられている。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。2時間後、近くを通りかかった客船が救助船を出し生存者を捜索し、まだ海に浮かんでいた中で2名の生存者を救出した。その二人の内一人は、浮遊していたドアによじ登っていた者で、水に浸かっていなかったため低体温症のスピードが遅れて間に合ったと見られている。驚くべき事例がもう一人の者で、全身が水に浸かっていたのにもかかわらず生存していた。医学的検査の結果、内臓や血管などに特殊なものはなく、唯一の差は『酔っ払っていた』ことであった。しかし、酔っ払っていたから助かったとは言い切れない。救助された後に亡くなった犠牲者の中には同じように酔っていてアルコール血中濃度の高い者もいたからである。この生存者は、平均して20分程度で死亡した周囲の脱出者の中で2時間も生存した、稀有な例である。最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると、この事故での犠牲者数は1,513人にも達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)として採択された。また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラード (Robert Ballard) 率いるウッズホール海洋研究所およびフランス海洋探査協会の調査団は海底3,650mに沈没したタイタニックを発見した。2004年6月、バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としている。海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第3煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて確実に立証された。深海では通常バクテリアの活動が弱い為に船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為にバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っている。また船内にはシャンデリアや鏡、暖炉といった多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れず、ほぼ当時のままの状態で残存している。さらに、客室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップ、食器棚に収められた皿、ストラウス夫妻の客室の暖炉に置かれていた金の置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけられたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。なお、現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、2100年頃までに自重に耐え切れず崩壊する見込みである。それらのバクテリアのうち、新種が2010年になって発見され、タイタニックにちなんでハロモナス・ティタニカエ ("Halomonas titanicae") と命名された。海底のタイタニックには度々潜水探査船による調査が行われた。特にタイタニック (1997年の映画)では、2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録された。一方で、無断で海底の遺品を収拾する行為も広く行われ、一部の遺品は利益目的に販売されるなどされ、非難を集めている。事故原因をめぐっては、上記のリベットの強度不足を主な原因とする説、鋼板の脆弱性を主な原因とする説等の他にも様々な説がある。2010年9月に、2等航海士のチャールズ・ハーバート・ライトラー の孫、ルイーズ・パッテンは、イギリスのデーリー・テレグラフに対し、「ミスがなければ、氷山への衝突を避けることは簡単だった。氷山が近くにあるのを見てパニックに陥った操舵手が、間違った方向に舵を切った」と語り、基本的な操舵ミスが原因だったとしている。記事によるとマードックが氷山を発見したのは衝突の4分前、衝突時に減速がほとんど効いていなかったとされることから氷山との距離は約2700mであったと算出される。これは十分に停止可能な距離であるが、マードックは操舵のみで回避できると判断しロバート・ヒッチェンズ操舵手に「Hard Starboard!」の号令をかけた。この号令は帆船時代からの名残で「舵輪を左に回して“舵柄を右に動かし”左へ急速回頭する」の意味で使用されており(Tiller Orders・間接法)、タイタニックでも採用されていた。しかし蒸気船式の号令(Rudder Orders・直接法)では「舵輪を右に回して舵柄を左へ動かし“右へ急速回頭する”」を意味するため直接法で訓練されていたヒッチェンズ操舵手はパニックに陥り舵輪を右に回してしまう。操舵手のミスに気付いたマードックは左回頭に修正したが手遅れであった。「後進一杯」が発せられたのはこの修正時と思われる。同記事には「ブルース・イズメイ社長が船長に微速前進での航行を命令したことにより、船首に水圧がかかり浸水が早まった。前進していなければカルパチア号到着まで沈むことはなかった」との証言も記載されている。実際に、衝突直後に計測された現在位置と沈没現場には数海里の誤差がある。事故後、ライトラーは海運会社の倒産を恐れ、調査でもミスを隠したと説明している。また、事故当時に見張りについていたフレデリック・フリートは後に自殺、事故後南アフリカのケープ・タウンの港湾長に任じられたヒッチェンズ操舵手は知人のヘンリー・ブラム等に「タイタニック号の事故に関して秘密を守るためにケープ・タウンまで送られた」と告白しているが、関連は不明である。「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」とする、つまり陰謀だったとする「陰謀説」がある。説の「根拠」として、タイタニック号を管理していたのはホワイト・スター・ライン社であったが、その事実上の所有者はホワイト・スター・ライン社に出資していた国際海運商事の社長であるジョン・モルガンであった。そのモルガンはタイタニック号のスイートルームに乗船予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったが、この夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイがこの部屋に収まった。しかし、病気のはずのモルガンは、同時期に北アフリカからフランスにかけて旅行をしていたことが後になって判明しており、イタリアでは愛人にも会っている。しかも、キャンセルした客の中にモルガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モルガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。また、モルガンはタイタニック号で運ぶはずだった私的な貨物も、直前に運ぶことをキャンセルしている(「タイタニック号は沈められた」より)。しかし本人が乗船をキャンセルしたこともあり、それに伴い私的な貨物を同時にキャンセルするのは当然であるという意見もある。また、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的自体が何であったかは明らかになっていない上、この事故は不注意な運航による予知しようのないものであったし、仮に航海士たちが巨額の資金で買収され、わざと氷山に衝突させたのなら航海士に死人は出ないはずであり、やはりこの「陰謀説」は「説」の域を出ないものである。なお、「タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越す」とされているが、これを証明するものはない上、これが事実だったとしても、数パーセントの直前の乗船キャンセルが出ることは客船にとって通常の範囲のことである。タイタニックには、姉妹船として「オリンピック」がタイタニックより1年程早く、北米航路に投入されていた。オリンピックは、タイタニックが就航する前に、2回事故を起こしている。この2つの事故を鑑みて、「オリンピックが近い将来に破棄される船だったのではないか」と言うのが、船すり替え説の論拠となっている。つまり、廃棄寸前だったオリンピックを、内装や若干の仕様を変更させて「タイタニック」に仕立て上げて、故意に氷山にぶつかったというのである。これら一連の陰謀説が唱えられる状況証拠として、などが挙げられている。同型船とは言えオリンピックとタイタニックには構造上の相違点がいくつかあり、その最も大きなものはボート甲板直下のAデッキ(プロムナードデッキ)の差で、またBデッキの1等船室の配置と数も異なり、オリンピックに比べてタイタニックでは1等定員が大幅に増加している。オリンピックとタイタニックをすり替える為には、オリンピックが座礁した2月24日から4月10日のタイタニックの処女航海までにこれらの工事を終える必要があり、両船の船員全員を配置転換しなければならないこと、改修に関与する造船所の工員の数などを考えると、すり替えが成立する根拠はほぼない。他にも「運んでいたミイラによる呪い説」の書籍も出版されており、この中でミイラの呪いかという点に言及されている。しかし、このミイラ(実際にはミイラの上に載せる人型の蓋(ミイラボード))は、1990年と2007年に海外に貸し出された以外に大英博物館を出たことはなく、1912年にタイタニック号に積まれた事実は無い。。購入者はイギリス人の旅行者で、購入後に様々な不幸を体験したとされる。その結果、人手を渡り大英博物館に収められることになったのだが、大英博物館の公式記録では最終的な寄贈者しか記録されておらず、それ以前の経緯はツタンカーメンの呪いと同じく噂の域を出ない。「不幸のミイラ」は現在も大英博物館に収蔵されており、その詳細なデータについては大英博物館のサイトで確認することが出来る。また、生存した船員が『船長はいつもと違い氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった』と、スミス船長に異常があったことを証言しているが、これについては「ミイラの呪い」との関連性を証明するものは何もない。また、スミス船長の態度がいつもとは違ったのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録(ブルーリボン賞)を出すためであった」という説がある(後述)。タイタニックが氷山に衝突したのは、大西洋最速横断記録(ブルーリボン賞)を獲得しようと無理な航行を強行したことが事故の遠因になったという説があり、根強く支持されている。しかし、1912年当時のブルーリボン賞を保持していたのは西回り/東回り共にモーリタニアであり、その平均速度は26ノット近いものであった。両船の要目を比較すると、であり、機関の性能から見て、タイタニックはブルーリボン賞を獲得できるような能力を持っていない。当時、ブルーリボン賞の獲得を目指したモーリタニアのような高速船は、その莫大な運航費用(燃料費)を輸送する人員や貨物だけでは賄えず、政府からの補助金によって運航が維持されていた。しかし、タイタニックを含めたオリンピッククラス客船は、豪華さを売りにし、また総トン数を上げ輸送力増大や機関出力を抑えての燃料費の低減など、補助金無しで採算が取れる運航ができるように設計された船であった。このことから、ブルーリボン賞を獲得しようとして事故を起こしたという説の根拠は薄い。事故年の地球・太陽・月の異常接近によって、その航路には本来ありえない程の氷山が呼び寄せられた、という説が新しく説えられた。タイタニック沈没事故の14年前の1898年に発表されていた、アメリカ人の元船員モーガン・ロバートソン(Morgan Robertson、1861年–1915年)の短編小説"The wreck of the Titan"の内容が、タイタニック沈没事故に酷似していたため、事故後「事故を予言した小説」として話題になった。小説中の「タイタン号」とタイタニック号は、船名、大きさ、構造、航路、沈没原因などが類似・一致しており、同書は事件後に欧米で大きな売り上げを記録したという。ただし、前述の類似点は事故後の改訂時に加えられたことが明らかとなっており、初版当初は大型船の沈没を扱ってこそいたものの、タイタニックの事故に酷似した内容ではなかった。タイタニックの主な乗員は、次のとおりである。タイタニックの著名な乗客は、次のとおりである。1912年4月21日にメジャーリーグベースボール(MLB)のニューヨーク・ハイランダーズとボストン・レッドソックスは亡くなった乗客の遺族たちのためにポロ・グラウンズで慈善試合を開催した。タイタニックをめぐって、多くの作品が発表されている。主な作品は、次の通りである。

出典:wikipedia

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