西洋占星術(せいようせんせいじゅつ)は、アラブ世界(アラビア半島、ソマリア、スーダン除き)や西洋諸国で発達してきた占星術の体系である。ヘレニズム時代に成立した体系が基盤となっており、一般的にはホロスコープを用いる。占う対象に影響を及ぼすとされる諸天体が、出生時などの年月日と時刻にどの位置にあるかをホロスコープに描き出し、それを解釈する形で占う。近代になって一般に広まったサン・サイン占星術では、太陽のあるサインを基にして占う。日本の雑誌などでよく見かける十二星座を基にした星座占いは、これを通俗化したものである。占星術一般がそうであるように、西洋占星術もまた、近代的な科学の発展に伴って「科学」としての地位から転落し、科学史などでは疑似科学に分類されるのが一般的である。西洋占星術の起源はバビロニアにあった。バビロニアでは、紀元前2千年紀に天の星々と神々を結びつけることが行われ、天の徴が地上の出来事の前兆を示すという考えも生まれた。『エヌーマ・アヌ・エンリル』(, 紀元前1000年頃)はそうした前兆をまとめたものである。ただし、当時前兆と結び付けられていた出来事は、専ら君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み取りも星位を描いて占うものではなく、星にこめた象徴的な意味(火星は軍神ネルガルに対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかった。現代にも引き継がれている星位図を描く占星術は、天文学が発達し、惑星の運行に関する知識が蓄積していった紀元前1千年紀半ば以降になって興った(この頃も含め、古来、天文学と占星術の境界の曖昧な時代は長く続いた)。元々は暦のために整備された獣帯を占星術と結び付けることも、そのころに行われた。現存最古の星位図は、楔形文字の記録に残る紀元前410年の出生星位図(ある貴族の子弟の星位を描いたもの)である。ただし、この時点では、後のホロスコープ占星術に見られる諸概念はほとんど現れていなかった。古代ギリシャやローマの著述家たちは、占星術をしばしばカルデア人とエジプト人がもたらしたものとして叙述している。確かに、紀元前4200年の星図をともなうエジプトの占星術の歴史は古い。エジプト人の占星術は、太陽とシリウスの組み合わせが主役になっている。それが、エジプトに肥沃さと活力をもたらしてくれるナイル川の氾濫を予言するものとされた。しかし、西洋占星術に直接関わるような概念の発達には、エジプト占星術はほとんど寄与していない。「エジプト起源」がかつて語られたのは、アレクサンドロス3世(大王)の征服以後、ヘレニズム文化圏に組み込まれていたエジプト(特にアレキサンドリア)で、占星術が発達したことによって生じた誤伝らしく、正しくはヘレニズム時代における寄与と位置づけられるべきである。332年にアレキサンダー大王によって占領された後、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及したことは、西洋占星術へのギリシャ人の最大の貢献である。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)はギリシャ語で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である)。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった。ホロスコープの普及は、春分点歳差の発見者とされるヒッパルコス(紀元前2世紀)以降のことである。かつて彼は占星術を生み出した人物であるかのごとく位置づけられたが、実際にはバビロニアで天文学と並行して発達した占星術の知識を、ヘレニズム世界にもたらした人物であったといえる。そのバビロニアからもたらされたシステムは、後世作り上げられた完成の域にある程度達したものではあったが、ギリシャ人占星術師たちによっても、個人のホロスコープを描く上での重要な追加がなされはした。ギリシャがローマ帝国の支配下に入った後も、専らギリシャ人たちによって占星術は発達を遂げた。ローマでもマルクス・マニリウスの『アストロノミカ』(西暦1世紀)などが現れたが、西洋のホロスコープ占星術の発展において特に重要だったのは、天文学者・占星術師クラウディオス・プトレマイオスの貢献である。天文学と占星術が未分化だった時代にあって、彼の天文学書『アルマゲスト』とともに、占星術書『テトラビブロス』(四つの書)は、その後の西洋占星術の伝統における基盤となった。『テトラビブロス』では第一の書で惑星の冷熱乾湿などの一般的原理が講じられ、第二の書で社会変化を占う占星術が、第三の書と第四の書で個人のホロスコープ占星術が論じられている。ギリシャ人(特にプトレマイオス)のもとで、惑星(太陽、月も含む。後述)、ハウス、十二宮などが合理化され、それらの機能も策定された(今日のものは若干の修正が施されている。以下では必要に応じて古典的な解釈にも触れている)。バビロニアでも部分的には見られたことだが、ヘレニズム時代以降に占星術の適用範囲は、実質上科学と位置づけられるもの全てに拡がった。すなわち、植物学、化学(錬金術)、動物学、鉱物学、解剖学、医学などである。天上の星々は地上の諸々の物質との照応関係を持つものとされ、星々に対応する金属(太陽と金、水星と水銀など)、鉱石(これが誕生石の起源になったという説もある)などが定められた。また、人体との照応関係をもとに占星医学()も発達し、その治療に用いる薬草類の研究が天体植物学として体系化された。さらに、前出のマニリウスは全5巻の『アストロノミカ』の第4巻で、占星地理学(世界の地域を十二宮に対応させる)を論じている。個人の運命を星位と結びつける観点は、人体の各部位を星々と結びつけることに繋がった。『テトラビブロス』の第三の書でも、占星医学が論じられている。学派によって、その照応関係は異なるが、概ね頭部を第1のサインである白羊宮に、足先を第12のサインである双魚宮にそれぞれ対応させ、その間に残るサインを当てはめていく。外科医学でもこうした照応関係は重視され、後には瀉血で切る部位を決める際にも、占星術的な判断が用いられた。ローマ帝国では、既に見たように理論面ではギリシャ人に多くを負い、独自の発展はほとんど見られなかった。歴代ローマ皇帝には占星術を重視する者も見られ、占星術師トラシュルスを重用したティベリウス、占星術で最期を予言されたことに怯え、実際に暗殺されたドミティアヌスなどがいたが、キリスト教の広まりとともに衰えた。西ローマ帝国滅亡後にも迷信的とされた通俗占星術は命脈を保ったが、当時「科学」の一端を担っていた占星術の理論体系は、ヨーロッパ社会からは失われた。中世のヨーロッパ社会では、ヴェズレーの大聖堂の彫刻など、獣帯を描いたものも見られたが、それらは主として暦を表していたに過ぎず、占星術との関連を論じるのは適切ではない。東ローマ帝国では、レトリオスの『フロールイト』(500年頃)が、火、水、風、土のグランドトラインを論じるなど、『テトラビブロス』をいくらか発展させた研究も見られたものの、基本的には東ローマ帝国滅亡(1453年)まで古代ギリシャ占星術を教条化し、固持し続けた。ヘレニズム時代に体系化されたシステムは、ほとんどそのままアラブ・ペルシャなどのイスラム世界の占星術師たちに引き継がれた。ダマスカスとバグダードにあった彼らの研究拠点では、ヨーロッパが忘れていた天文学、占星術、数学、医学などのギリシャ語の古典がアラビア語に翻訳され、大いに発展を遂げた。彼らの知識はヨーロッパに逆輸入され、ルネサンスの開始を助けた。アラブの占星術師たちのなかでは、占星術以外の翻訳でも大いに功があったアル=キンディー(アルキンドゥス)と、その弟子筋に当たるアブー=マーシャル(アルブマサル、)が特に重要である。後述するように、アブー=マーシャルの著書『大序説』(ラテン語名Introductorium in Astronomiam)は、のちのヨーロッパに絶大な影響を及ぼした。もう一人重要なのが、ペルシャの数学者、天文学者、占星術師、地理学者アル=フワーリズミーである。彼の名前は「アルゴリズム」の語源としても知られる。アラブ人たちは、天文学の知識も大いに増大させた。アルデバラン、アルタイル、ベテルギウス、リゲル、ヴェガなどの星々を最初に命名したのも彼らである。占星術においては、彼らは「アラビック・パーツ」()として知られる擬似的な天体を多数作成ないし再発見した。アラビック・パーツは実在天体ではないが、実天体の位置やハウスの境界であるハウスカスプの位置から計算されるポイントとそれに付加された名称、象意の総体である。最も有名なアラビック・パーツであるPart of FortuneはASC + Moon - Sunという式で計算される。中世ヨーロッパでは、11世紀頃まではアラブの占星術理論を受け入れられるだけの知的基盤自体がなかったが、いわゆる「12世紀ルネサンス」の中で、他の科学書とともに多くの占星術書がアラビア語からラテン語に翻訳され、占星術知識が再興・発展した。ヨーロッパの占星術師達はイスラム世界の占星術の技法を吸収し、またそこから新たな技法を見出すこととなった。例えばハウス分割において現在主流であるプラシーダスの技法はイスラム起源であり、プラシーダスがヨーロッパで広まる500年前にアブラハム・イブン・エズラがこのハウスシステムの計算方法を述べている。1130年頃から1150年頃までに、クレモナのジェラルドらによって、プトレマイオスの『アルマゲスト』『テトラビブロス』、アブー=マーシャル『大序説』、偽プトレマイオス『ケンティロクイウム』(百の警句)などが訳され、特にアブー=マーシャルはその後1世紀あまり占星術の権威と見なされた。占星術書を特に多く翻訳したのはセビーリャのフアンである。彼はアブー=マシャール、マーシャーアッラー、アル=カビーシーらの複数の著作、『ケンティロクイウム』などの翻訳をてがけたほか、自身でも『全占星術綱要』を執筆した(これは16世紀に出版された)。古代ギリシャに存在していたとされるアストロラーベも、イスラム世界を経由してヨーロッパ人たちに再認識された。しかし、イスラム世界の占星術の権威は長続きしなかった。西洋の占星術師たちが独自の技法を発展させていったことや、キリスト教神学者の間での議論の影響を受けたためである。神学者ではないが、ダンテもイスラム科学をキリスト教徒が使うことには批判的で、その影響を強く受けた占星術にも同様に批判的だった(彼は『神曲』の中で13世紀の代表的な占星術師グイド・ボナッティとマイケル・スコットを地獄に落としている)。ただし、こうした動きはイスラム世界起源の占星術書が全く省みられなくなったことを意味しない。特に15世紀以降の印刷革命に波に乗って、ルネサンス期には多くのアラブ系の占星術書が出版されたし、近世の著名な占星術師の一人ウィリアム・リリーは、否定的な見解を示しつつも、アラブの占星術も研究したと語っている。さて、13世紀以降は、神学者たちの間で、占星術に関して大きく議論が戦わされた。スコラ哲学者の中では、アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスが占星術に好意的な見解を示したが、他方でニコル・オレームは『判断占星術師論駁』のなかで、多面的な批判を繰り広げた。当時、判断占星術に対する評価は様々であった。チェッコ・ダスコリ()などは、キリストの誕生や最後の審判に関するホロスコープを作成したことを咎められて、1327年に火刑に処されている。他方で、やや時代が後になるオレームの弟子ピエール・ダイイは、晩年判断占星術に強く傾倒し、歴史上の重大事件と天体の合の関連を研究した。彼はそれを未来にも適用し1789年に反キリストが出現すると予言した(この予言はルネサンス期に持て囃され、チュレル、ルーサ、ノストラダムスらが直接・間接的に踏襲する)。このように、判断占星術が毀誉褒貶だったのに対し、占星医学はむしろ高級占星術として評価されることが多く、大学などでも受け入れられていた。このため、当時医学研究で主導的地位にあったサレルノ大学、ボローニャ大学、モンペリエ大学などの医学部でも、占星医学は講じられていた。また、1347年から1350年にペストが流行した際には、パリ大学医学部が、その原因は1345年3月20日に宝瓶宮で起こった木星、火星、土星の三重合にあったとする公式声明を出している。伝染病の流行と星位を結びつけるこうした言説は、現在でも「(星の)影響」を語源に持つ「インフルエンザ」などにその痕跡を見出すことが出来る。中世後期には王侯貴族の中にも占星術を重用する者は少なくなかった。例えば、フランス王シャルル5世の場合、蔵書の2割(180冊)を占星術書が占めていたとされる。これは当時の他の王族の蔵書と比べても突出して高い比率であった。こうして、中世には、しばしば重要な政治的・軍事的決定には、占星術師の判断が仰がれることもあったのである。ルネサンス期には、神秘主義的傾向も持つネオプラトニズムが流行したが、その中心人物たちは必ずしも占星術に好意的ではなかった。マルシリオ・フィチーノは占星医学などには理解を示していたが、判断占星術には批判的だった。ピコ・デラ・ミランドラは、人間の自由意志を否定するものとして、『予言占星術論駁』で占星術への強い批判を展開した。他方で、16世紀のイタリアでは、数学者としても活躍した占星術師ジェロラモ・カルダーノが現れた。彼は『誕生占星術の実例集』では、自身の過去の占星術判断の誤りなども提示している。ルネサンス期の占星術にとって特に重要だったのは、コペルニクスの『天球の回転について』(1543年)である。これによって、プトレマイオス的な地球中心説とともに、伝統的な占星術における太陽や月を含む「惑星」概念が否定された。同時に、宇宙が地球を中心とする狭い同心円でなく、大きな広がりを持っていたことが認識され、そのように離れた星々が、どれほどの影響を行使しうるのかという問題も発生した。17世紀に入ると、天文学者でもあったヨハネス・ケプラーが、この問題に取り組んだ。ケプラーは『へびつかい座の新星』では、「賢いけれども貧しい母」(天文学)と「その生活費を稼ぐ愚かな娘」(占星術)の対比によって、占星術があくまでも日々の糧を稼ぐための道具であると述べていたが、『占星術の確実な基礎について』(1602年)、『第三に介入するもの』(1610年)、『世界の調和』(1619年)などでは、新たな占星術理論の構築を試みている。しかし、太陽中心説を軸とする刷新はうまくいかず、当時はむしろジャン=バチスト・モランの『ガリアの占星術』(1661年)のように、プトレマイオス的世界観を墨守することを表明するものもあった。他方で、ケプラーは占星術を数学的に純化しようとしたことをはじめ、様々な改革を試みており、アスペクトなどでは重要な貢献を行っている。ケプラー以前のアスペクトは、第1にサインとサインの関係であったが、ケプラーは星と星の間の角度として再定義し、この新たなアスペクト概念は多くの占星術師に受け入れられ、現代に到っている。16世紀の占星術の「先進国」はフランスであったが、17世紀半ばにはそれはイギリスになった。イギリスでは、一時期占星術が公認されていた時期があった。これは占星術の正しさを認めたわけではなく、占星術に対する禁止令を度々出していたローマ・カトリックへの対抗意識をイギリス国教会が持ったことや、御用占星術師を使った大衆宣撫を視野に入れていた政府の意向などによるものである。17世紀半ばに御用占星術師として名を馳せたのは、ウィリアム・リリーである。彼は議会派の有利になるような予言を多く行った。また、暦の発行も手がけ、暦書『天使的なるマーリン』は、1646年に13500部、その3年後には30000部が発行された。彼は御用占星術師としてのパンフレットを多く執筆した一方で理論書も手がけており、『キリスト教占星術』(Christian Astrology, 1647年)は、その後長らく当時の占星術の技法を網羅した解説書として影響力を持った。占星術と天文学の分離が明確になったのは、アイザック・ニュートンの登場によって、天文学に力学が導入されてからである。ニュートン以前は、遠い未来に起こる天体現象を正確に予想できることから、天体の運動は地上における現象とは別の原理によって説明される、より神秘的で完全なものであり、地上における現象にもなんらかの影響を及ぼしているという考え方に一定の根拠があった。ニュートンによって惑星運動と地上における落下現象が同じ万有引力の法則によって説明されることが示されたことにより、これと矛盾する占星術は自然科学の体系から完全に離れた。1781年に天王星が発見されたとき、占星術師にはこれを組み込んで「より正確な」占いを行おうとする者たちが現れた。占星術が真に科学と呼べるものならば、ここで占いの正確さのためにまだ足りない要素があることに気付くべきであったが、そのような見解はなかった。他方、天文学は天王星の摂動によって、未発見の惑星(海王星)の存在を正しく予見した。科学史家の中山茂は、この海王星の発見が、占星術と天文学の「科学性」を考察する重要なものであったとしている。西洋占星術はこうして疑似科学と見なされるようになり、1940年にはアメリカ社会心理学会が、未来予知のツールとしての占星術の有効性を否定する公式声明を発表した。また、1975年には前アメリカ天文学会会長バート・ボックらが文責を負い、ノーベル賞受賞学者18名を含む計186人の科学者らが連署した占星術批判の声明が出されている(『ヒューマニスト』誌1975年9月号)。ただし、これには、占星術に懐疑的な論者からも、権威主義との批判が寄せられた。こうした声明の一方で、国際的に知られたジーン・ディクソンや、ロナルド・レーガン大統領(当時)の夫人ナンシーに重用され、大統領の日程へも関与したジョーン・キグリー()のように、社会的に影響力を持った占星術師は存在した。また、特にアメリカでは、新聞、雑誌の占星術コーナーを始め、メディアで多く採り上げられ、学術理論としての有効性を失った代わりに、人気のあるサブカルチャーのひとつとなっている。近代になって主流となってきた、いわゆるモダンな占星術はクライアントのパーソナリティに焦点を当てたチャートの読解を行ってきた。そこから心理占星術に行き着くのはある意味当然であった。しかし一方でそれは、占星術で恋愛を占って成就するのかしないのか、いなくなったペットは帰って来るのかといった、個々の事象についての成否を占う力を無くして行く道でもあったと認識する者たちも現れた。これを踏まえて1990年代あたりから、占星術がかつて持っていたとされる個々の問題への適応能力を復活させようという動きが出てきた。既に故人となった英国のオリビア・バークレイは、1996年9月にエクセターで開かれたアストロロジカル・アソシエーションの「カーター・メモリアル・レクチャー」において「伝統的占星術の必要性」と題した講演を行い、伝統的な占星術への回帰を宣言している。伝統的な占星術への回帰は必然的にホラリーへの再評価へとつながり、ホラリーの技法が多数記されている中世からひいては古代占星術文献の掘り起こしへと到った。この中世文献の掘り起こしプロジェクトの代表的なものにProject Hindsightがある。Project Hindsightでは非英語で記述された占星術の古典がボランタリ・ベースで英語に翻訳された。こういった古典的な占星術に基づく占星術は古典派や伝統派と呼ばれているが、2007年の時点で既に古典的な技法の上に独自の解釈を組み込もうとする方向性も見えており、古典派と一括りにできない状況となっている。また一方で、ハーフサムや調波といった新しい、もしくは再発見された技法の研究も行われている。十二宮は黄道を12に分割して得られた区画である。占星術師たちは、それぞれの宮と、それが持つ意味について注記している。一般的な西洋占星術では、天の赤道と黄道の東側の交点である春分点から、十二宮の起点である白羊宮を始めるトロピカル方式を採用している。ゆっくりとした地軸の味噌擂り運動である、歳差運動によって、それぞれの宮(サイン)の天の配置は既にギリシア時代にサインの指標とされた星座に一致しなくなっている。西洋占星術師の中にも、サイデリアル方式を採用することで占星術創成期のサインと指標の星座との一致を試みる動きもある。近代の西洋占星術では、十二宮のサインは、12の基本的な個性を表すものと信じられている。12のサインは、火、水、空気、土の古典的な四大元素に分類されている。同時に、活動宮、不動宮、柔軟宮という三分類もされている。このようにサインと季節には対応関係があり、例えば春の最初のサインである白羊宮は、春分から穀雨直前まで太陽が位置するサインである。「暑さ寒さも彼岸まで」というように、通常は白羊宮に太陽が位置する期間から気温が上昇したということが実感できる。そのため白羊宮は火つまり熱く乾燥したサインであり活動宮として捉えられており、またその性質が牡羊の持つ突進力になぞらえられている。続く金牛宮は地のサインの不動宮であり気温の上昇が緩やかになってきていることに対応している。そして春のサインの最後である双児宮が変動宮であり、夏への転換点となっている。サイデリアル方式を採用する場合、季節とサインの対応が壊れてしまう。12宮の性質はおおよそ以下のようなものとされる。あくまでも一例であり、かつ、統計学をはじめとする各種学術研究に裏打ちされたものではない。2区分・3区分・4区分も参照のこと。生年月日と出生時刻でホロスコープを作成すると月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星のすべての天体の他、ハウスなどが以下のサインに対応している。例えば月のサインが双魚宮で、水星のサインが人馬宮、第1ハウスが天秤宮など個人にとってあるサインの重要度は、そのサインの中での惑星の位置とアセンダントに依存する。もしも任意のサインの中に何の星もなかったなら、そのサインはパーソナリティの中での役割は弱くなる。他方、例えばある星が太陽や月とともに巨蟹宮にあったなら、そのサインの特質は組み合わせの中で強く表れることになる。新聞や雑誌などには、しばしば星座占いのコーナーがある。それらのコーナーでは、生まれたときに太陽があった黄道十二宮に対応させて、その日に起こるかもしれない出来事の案内を提供していると主張している。しかし、これらの占いは非常に曖昧で一般的なものであるため、占星術師たちの中にもほとんど価値がないと見なしている者もいる。そうであってもKim Farnellによるとサン・サイン占星術の起源はホロスコープ占星術を同じくらい古いらしい。サン・サイン占星術の曖昧さに対して、プロの占星術師たちはより完璧な、個人に特化したホロスコープを使えば、的中精度が上がると主張するが、懐疑派は事実でないと批判している。20世紀末には、へびつかい座を加えた13星座占いとすべきだというものも現れた。詳しくは、13星座占いを参照のこと。月は人間の感情や情緒的気分などの心理的傾向を示すといわれている。木星の位置でその年の運勢と傾向を占い、約12年周期で運勢のバイオリズムを読み解く。西洋占星術では、白羊宮の始点に関して二通りの見解がある。サイデリアル方式では、始点を固定的なものであると考えるが、西洋占星術の主流であるトロピカル方式では春分点を白羊宮の始点とする。春分点は歳差運動にともなって移動するため、西洋占星術の主流では、黄道十二宮(サイン)と黄道十二星座の結びつきが損なわれている。一方、サイデリアル方式では始点が固定的なため、その結びつきは保持されている。しかし黄道十二宮と季節の対応は損なわれているため、どちらの方式を採用するかは術者の判断による。なお地球の歳差運動は、「宝瓶宮の時代」の概念的基盤を与えている(詳しくは春分点#春分点と星座を参照のこと)。近代の西洋占星術では、「惑星」は人間の精神の中の基底的な原動力ないしは衝動を表す。これらの「惑星」は天文学の定義と異なり、太陽、月、そして2006年に惑星から降格された冥王星なども包含する概念である。それぞれの惑星は、サインと惑星の類似性ないし共感性を基盤として、十二宮のうちの一つないし二つのサインの守護星であるとされる。逆に言えば占星術において惑星とはサインの守護星としての性質を持つものであり、他は天体ないし星ではあっても惑星ではない。(とはいえ、サインの守護星とは何であるか?と問うならば、惑星に対するこの定義は循環論法の可能性がある。)近代以降に発見された3つの惑星も、占星術師たちによって支配するサインを割り当てられている。現代主流の占星術で惑星とされている、トランス・サタニアンの天王星・海王星・冥王星は、望遠鏡による観測によって確認されたものであり、18 - 20世紀に発見された天体である。そのため近年のリリーの再評価から始まりラテン語やさらにはイスラム圏の文献を英語に翻訳し、過去の技法を蘇らせようとする、ある意味伝統的な占星術では使用しない。ただ天王星や海王星を受け入れた現代的な占星術師においても、冥王星については、2006年に準惑星となった際に、チャートから外す占い師もみられた。もっとも欧米では、冥王星はおろかさらに小さな小惑星までも使用することが多く、その中でも代表的なものは、ケレス、パラス、ジュノー、ベスタ、キロンである。また、今後エリスが占星術に取り入れられる可能性がある。冥王星から惑星の地位を奪い、人類に対して少なからざる影響力を持ったからである。すでにエリスを表示できるホロスコープ作成ソフトウェアも存在する。各惑星は、どのサインに入っているか等の条件から品位(ディグニティ)とよばれるパラメータが割り振られる。あるホロスコープにおいて相対的に品位が高い惑星は凶星(マレフィック)であっても良い作用があり、品位が低いと吉星(ベネフィック)であっても悪い作用を持つとされる。古典的な7惑星についての品位の計算方法は厳密で細かく規定されているが、新しい惑星では品位の計算方法が確立していない。伝統的な占星術では、近代になって発見された惑星を使用しないことの理由付けの一つに、品位が計算方法が不完全であることを挙げている。他方、新しい惑星を組み込んだ近代占星術において、品位は忘れられかけた技法のひとつとなった。占星術で使われる11の惑星は以下の通りである。これらの7つの「惑星」(ここでは、太陽と月も「惑星」に含む)は古代には知られていたものであり、各個人の7つの基礎的原動力を表していると信じられている。このため、占星術師たちは、これらの星を「パーソナル・プラネット」と呼ぶ。これらの惑星は近代になって発見され、それ以降西洋占星術でも重要な意味を持つ星として取り入れられた。これらの惑星を使用する場合、それぞれ対応する宮の守護星であった古典的な惑星を副守護星として扱う。エリス(準惑星):射手座の守護星。意味するものは、運命、全能、退化、不和、信仰、絶対者(神)など。占星術では月の交点(ルナー・ノード、ノード)も重要である。ノードとは、黄道と白道の交差点する点であり、蝕が発生する点である。北のノードは、月が南から北へと横切る点で、昇交点(Caput Draconis, ドラゴン・ヘッド)と呼ばれる。南のノードは月が北から南へと横切る点で、降交点(Cauda Draconis, ドラゴン・テイル)と呼ばれる。龍が出てくるこれらの名称は、バビロニア占星術で龍に変じたティアマトの姿に由来しており、インド占星術に導入された後、中世イスラム世界を経由して、西洋占星術にも取り入れられた。西洋占星術ではそれぞれの惑星ほどには、重要な要因とは考えられていないが、考慮に値する繊細なエリアと見なされている。西洋占星術は、主にホロスコープの作成に基礎を置いている。ホロスコープは、ある特定時点の天の「チャート」を表した図である。選ばれる「時」は、ホロスコープの主題となる存在の始点(人物であれば生まれた時)である。これは、主題となる存在は、その生涯を通じて、始点における天のパターンを引きずると考えられているからである。理論上、ホロスコープは企業の創設から国家の樹立に至るまで分析の対象としうるが、最も一般的なのは、個人の誕生時を基礎とする出生図()である。西洋占星術でのホロスコープの解釈は、以下のものに支配される。占星術師の中には、のような様々な数学的なポイントの位置を用いる者もいる。ホロスコープには、基礎的なアングルが存在する。以下に挙げるもの以外にも、占星術師の中によっては、ハウスのカスプがしばしば重要なアングルとして含められることもある。ホロスコープは占星術師たちによって12に分割され、ハウスと呼ばれる。日本では室、舎、位などと訳される。ホロスコープにおけるハウスは、人生や活動の12の異なる範囲として解釈されている。ホロスコープにおけるハウス分割法には様々な方法があり、古来アル=カビーシー、カンパヌス、レギオモンタヌス、プラキドゥス・デ・ティティ(プラシーダス)らが様々な分割法を試みてきたが、確定的なものはない。しかし、その意味するところは概ね以下のように解釈されている。第1室: 個人の外観や身体特質。自我。物事の始まり。第2室: 金銭と財産、価値と優先事項。物事の成長。第3室: コミュニケーション、兄弟姉妹、隣人関係、ローカルな旅行や輸送、教育、日常的な問題。第4室: 家庭と家族、父親。不動産とその性質。相続、保持。人生の始まりと終わり。死後の名声。第5室: 悦楽と余暇、休日、遊戯と賭博。子供たち。創造性。深い関係とまではいえない恋愛沙汰。第6室: 召使、メイド。労働、職務と雑役。被雇用者とその業務。健康。小型の家畜。第7室: 対人関係。配偶者、結婚、ビジネス・パートナー。合意や協定。敵対者と戦争。第8室: 誕生と死、始まりと終わり。性的な関係やあらゆる種類の深くコミットした関係。税金、遺産、企業金融。オカルトや心霊的な事柄。第9室: 航海をともなう遠距離の旅行、移住。外国旅行、外国とその文化。宗教、法制、高等教育。見聞を広めるために求める全てのもの。自由。第10室: 意思と野望、人生の方向。社会における地位や経歴。有名人のハウス。4室からみた7室であり、父親の配偶者、つまり母親を意味する。第11室: 友人・知人などの限られた関係。グループ、クラブ、結社、それらの中でも特に慈善的なもの。第12室: 神秘主義、オカルト、心霊的なもの。病院や監獄のような隔離された場所。後退、反射、自己犠牲。大型の家畜。多くの近代的な占星術師たちは、ハウスは対応するサインと共感すると考えている。つまり、第1室は第1のサイン(白羊宮)と自然な親和性を持つ等であるが、古典的な占星術ではそうでもない。例えば第1室に対応する惑星は水星であって、白羊宮の守護星の火星とは異なっている。アスペクトとは、ホロスコープにおいてそれぞれの惑星やアセンダント、デセンダント、中天、天底などが形作る角度のことである。アスペクトは、地球から見た2点間の黄道上の離角を黄経上の度数で測定したものである。それらは、ホロスコープを読む上での焦点となる。角度がより正確であればあるほど、アスペクトは影響力が強くなるが、オーブ(orb)と呼ばれる数度の許容範囲が解釈においては認められている。以下のアスペクトは、重要度の順に並べたものである。アスペクトの中には、3つ以上の惑星が関与するものもある。主なグループ・アスペクトには以下のものがある。このような3個以上の占星点で形成されるグループアスペクトにおいては、単独のアスペクトより広いオーブ、あるいは狭いオーブを採用する場合がある。上記のような複数の惑星ないしASCやMCが特徴的な図形を構成するグループアスペクトの概念を緩くした、複合アスペクトの概念が存在する。例えば、3つの惑星A, B, CがあるときにAとB、BとC、そしてCとAの間にそれぞれアスペクトが存在するとき、3つの惑星A, B, Cが複合アスペクトを構成するという。そして複合アスペクトから吉凶象意を読みとって行く技法がある。日本では植田訓央が複合アスペクトを重要視したホロスコープの読解を行っていた。植田の技法はハードアスペクトによる複合アスペクトを中心にしていたが、その弟子の秋月瞳は、ソフトなアスペクトを加えた複合アスペクトを使用している。ただし、調停の説明にあるとおり複合アスペクトの考え方は古くから存在する。実際ほとんどのホロスコープに複合アスペクトが形成される。西洋社会では、古来占星術に対して様々な批判が寄せられてきた。古典的なものは、アウグスティヌスが『告白』で展開したものである。ほぼ同じ場所で同じ時刻に生まれた人は同じホロスコープを持つが、身分が異なることで裕福な家督を継いだ者と召使になった者がいたことなどを採り上げたのである。アウグスティヌスの批判は、中世にダンテが援用したほか、現代でも占星術批判で引用されることがある。逆に占星術師の中には、同じ時間に生まれた者(いわゆる「アストロ・ツイン」「宇宙双子」)がよく似た人生を歩むと主張する者もいるが、その根拠の不透明さも指摘されている。このほか、心理学者ハンス・アイゼンクや天文学者ピエール・クーデールらは、様々な観点からの統計学的調査に基づき、西洋占星術の妥当性に疑問を投げかけている(参考文献欄掲出の各文献を参照のこと)。1990年代に入ると、占星術のコーナーを持つアメリカの新聞には、科学的根拠のないゲームに過ぎないと断り書きを入れるものも現れた。
出典:wikipedia
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