津田沼(つだぬま)は千葉県習志野市の一地名である。習志野市が町村合併によって成立した際、中核となった前身自治体が当時の千葉郡津田沼町であり、今日習志野市の津田沼地区(旧久々田村)にその名を残す。ちなみに「千葉県習志野市津田沼」の郵便番号は275-0016である。
ただし、単に「津田沼」と呼称した場合には、同駅北口商店街の一部を構成する船橋市前原地区や南口の谷津・奏の杜地区を含んだ「(概ね)津田沼駅周辺の地域」を指すことが多い。この地名は1889年(明治22年)に町村制施行に伴い谷津村、久々田(読み方くくだ、くぐた)村、鷺沼村、藤崎村、大久保新田の旧来からの5ヶ村が合併したことに由来し、中核となった谷津、久々田、鷺沼の3ヶ村から一文字ずつ取ったものである。これによって津田沼町の前身の津田沼村が成立した。これらの前身5ヶ村は、下総台地に古くから成立した多くの村落と同様に、下総台地に発達した樹枝状の浸食谷、すなわち谷津田の谷底を水田として開発して成立したものであった。谷津村、鷺沼村はそれぞれひとつの小規模な谷津田を単位としており、久々田村は菊田川河谷に形成された谷津田の下流部に、藤崎村はその中流部に成立した村であった。菊田川河谷の最上流部に成立した村は田喜野井新田であったが、これは明治時代の合併で二宮村となり、その後船橋市に編入されている。最後に大久保新田であるが、これは今日千葉市の幕張の中核となった馬加村と同じ浜田川河谷の最上流部に形成された村であった。伝統的にそれぞれの村においては谷津田の水田における稲作と、それを取り巻く台地の縁辺部の畑における畑作を組み合わせた農業が営まれ、さらに東京湾に発達した干潟では、船橋漁民の独占的な魚漁が行われたため、専業の漁業は発達しなかったが、農業の片手間の潮干狩り的な貝漁が行われ、ハマグリやアサリなどを産した。海岸には下総台地の縁辺部が迫っており海食崖を成し、その足元の海岸線との間の狭い平地には房総往還=千葉街道(今日の国道14号)が通っていた。ここに小規模な宿場も形成されていたことが、久々田村の小字に浜宿、鷺沼村には上宿と下宿があったことから知られる。近代になると、久々田地区は北総内陸部と江戸内湾の物資の集散地として栄え、薪炭・肥料・米穀などを扱う商店が軒を連ねた。1921年(大正10年)、京成電鉄の開通に伴い京成津田沼駅ができると、駅から海岸に至る商店街が発展し久々田地区の市街地化が進んだ。また、大久保新田は隣接する習志野原の陸軍施設との結びつきを強め、現在の京成大久保駅の北側で市街地化が進行した。津田沼駅も習志野原への玄関となり、駅前商店街が形成されたがそのほとんどは隣接する二宮町(現船橋市)に属する。しかし、1907年(明治40年)に駅に隣接する谷津・久々田地区北部に鉄道連隊が転営し、1918年(大正7年)に鉄道第二連隊となると「津田沼」は鉄道連隊の町として知られるようになった。一方谷津の地先干潟では塩田開発が行われたが、大正期の台風被害で操業停止となり、跡地に遊園地(谷津遊園)が成立し、久々田、鷺沼の地先干潟の潮干狩り・海水浴とともに東京からの行楽地として有名になっていったほか、京成線の谷津遊園駅(から船橋市の花輪駅にかけて)の北側台地は、療養地、別荘地として開発が進んだ。また地盤のしっかりした砂質干潟は日本の黎明期の航空産業の滑走路としても利用され、鷺沼の海岸沿いには伊藤音次郎の伊藤飛行機研究所など、飛行機やその関連部品の工場やパイロットや整備士を養成する学校などが立ち並んだ(移転元の稲毛海岸も含めて、いわゆる本来の「袖ヶ浦」である。当海岸埋立地に残る習志野市袖ヶ浦の名はそこに由来する)。谷津の塩田跡地のうち干潟の部分は、昭和放水路計画のため大蔵省の所有地となったため、1960年代以降の千葉県企業庁による埋め立てを免れ、今日の鳥獣保護区谷津干潟成立の伏線となった。また戦後海苔の人工培養技術に基づく養殖技術が成立すると、津田沼の半農半漁の漁業を行っていた人々の間で率先してこの技術が導入され、海苔の養殖も大規模に行われるようになった。1954年(昭和29年)に津田沼町が千葉市の一部(旧幕張町の北部)を編入して習志野市が成立すると、谷津と鷺沼の2ヶ村の名称は習志野市の行政区画として存続したが、久々田はそれ自体行政区画名としては存続せず、旧久々田村の区域が習志野市の行政区画の津田沼町とされた。「久々田」の地名は、飲食店組合の名称とバス停(現、久々田。以前は久々田海岸)、それと「久々田公園」にその名を残すのみである。また、異称である「菊田」の名前も京成津田沼駅近くの菊田神社、菊田公民館及び今日ではそのほとんどが暗渠化してはいるが、旧久々田村を流れていた菊田川にその名が残る。久々田と菊田のどちらが古いかは不明である。住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、津田沼1-7-15の地点で25万5000円/mとなっている。習志野市内で最も地価が高い。1977年~1978年に津田沼駅周辺に大型店の進出が相次ぎ、北口のイトーヨーカ堂、パルコと西友の二館体制の西武津田沼ショッピングセンター、南口のダイエーとの間で競争激化し、「津田沼戦争」と呼ばれた。1977年7月、国鉄津田沼駅北口駅前にパルコと西友の二館からなる西武津田沼ショッピングセンターがオープン。同1977年11月には、新京成新津田沼駅前にイトーヨーカ堂津田沼店オープン、開店当時同社屈指の大型店であった。翌年10月には駅を挟んで反対側にあたる南口にダイエーと津田沼高島屋を核テナントに迎えたサンペデックがオープンした事により、既に津田沼駅そばに1967年に出店していた地場資本の「サンポーショッピングセンター」(核テナントは扇屋津田沼店(のちの扇屋ジャスコ津田沼店))、新津田沼駅近くに1975年に出店していた長崎屋(のちの大塚家具、現在は飲食とアミューズメントの複合商業ビルとなっている)をも巻き込んでの価格競争が激化した。ダイエーのオープンセールに対抗し、イトーヨーカ堂はダイエーのセール品を無料で進呈するなど、日に日に両店の競争は勢いを増し、西友などの周辺の店舗にも影響を及ぼすなどし、価格競争はさらに激化した。この影響を受けて、サンポーと扇屋ジャスコも1978年頃には閉鎖、イトーヨーカ堂と目と鼻の先にあった長崎屋は1979年にわずか4年余りで撤退、ダイエーと同じサンペデック内の高島屋も競争に耐えきれず業績不振により1988年に撤退、西友も1985年11月に地下の食品売場だけを残し、レッツ館(現パルコB館)に業態転換。その後、ダイエーは高島屋の店舗跡に、ディスカウントストア「エキゾチックタウン」(業態の中身はバンドール)をオープンさせ、スポーツ用品や家電などを幅広く扱い、広範囲から集客を集めていた。やがて、津田沼周辺が発展していくにつれ、価格競争も次第に収拾していった。価格競争に生き残った両店は、1990年代前半にはダイエー津田沼店、イトーヨーカドー津田沼店ともに当時全国で一、二を争う売り上げ規模にまで成長した。しかし、ダイエーは急速に業績が悪化し、2002年にはエキゾチックタウンも閉店。その後、当時ダイエーが目指していたCVC(カテゴリーバリュセンター;直営または外部企業による専門店化)を具体化させるためにリニューアルオープンさせた。2003年には新津田沼駅北側にイオンがイオン津田沼ショッピングセンター(現・イオンモール津田沼)をオープンさせた。これはサンポーとともに扇屋ジャスコ津田沼店を閉店して以来のオープンとなった。新京成の線路を挟んでイオンとイトーヨーカ堂が、JRの線路をはさんでイオンとイトーヨーカ堂、ダイエーが立ち並んだ。結局、ダイエーは産業再生機構による経営再建の一環により、2005年11月30日をもって、ダイエー津田沼店27年間の営業に終止符を打った。また、北口にあった丸井も2007年2月12日に閉店しているが、同年11月にユニクロがキーテナントのミーナ津田沼となった。空きビルとなっていたサンペデックは日本生命が野村不動産系私募ファンドへ売却後イオンを初めとし、TSUTAYA、ヤマダ電機LABI、マクドナルド、ブックオフ等様々なテナントが入ったモリシア津田沼として2008年3月13日にリニューアルオープンした。上記のように、1980年代から2000年代にかけ「津田沼戦争」として全国に名を轟かせた流通戦争の最先端(関東地方のGMS(総合スーパーマーケット)業態のキープレイヤーは、結果ほぼ全てが係わった)も、京葉線、東葉高速線の開通に拠る津田沼駅経由の乗降客の減少、近隣地域に郊外型の大型店出店、それによる商圏の縮小・オーバーストア状態もあり、GMS業態では終息方向に向かっている。その代わりに近年では特に書店が集積し、激しい流通戦争を繰り広げている。モリシアのはす向かいにある、大規模な土地区画整理事業「奏の杜プロジェクト」用地の一角に2013年4月、新たな商業施設「奏の杜forte(フォルテ)」が開業した。
出典:wikipedia
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