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モノレール

モノレール()とは、1本の軌条により進路を誘導されて走る軌道系交通機関。語源は「一つのもの」を意味する接頭語「モノ」と軌道を意味する「レール」。ただし厳密には「1本のレール(走路)」ではないものもまざっており、「一般の二条式鉄道とは異なるものの総称」として機能している。日本の営業路線については日本のモノレールを参照のこと。二条の鉄製レールを持つ「鉄道」が最初に商用化されたのは1825年だった。それとほぼ同時期の1824年に、最初のモノレールであるパーマー式モノレールが登場している。二条式鉄道が一般化する中で「モノレール」は、軌道系交通機関の多大な予算と労力を必要とする用地買収、線路の設置、および保守点検の簡素化をメリットとして軌道系交通機関の発展の中で生き延びてきた。21世紀初頭では、モノレールは、毎時9,000 - 28,000人程度の輸送力を持つ、新交通システムやミニ地下鉄と同レベルの中量輸送システムとして位置付けられ、都市での営業路線コース構築の柔軟性や低騒音という側面からも注目されている。他の軌道系交通機関とはさまざまな利害得失があることから、主流とはなっていないものの継続的に新規路線が建設されている。モノレールと一般の二条式鉄道との利害得失は以下のとおり。モノレールが開発されたのは19世紀初頭である。たとえばヘンリー・ロビンソン・パーマー (Henry Robinson Palmer) が1821年にイギリスで特許を取得しており、このあたりがごく初期のものであると考えられている。このモノレールは、高い位置に一本のレールを通し、そこに両フランジ式の車輪をひっかけ、左右に荷台を振り分けてやじろべえのようにバランスを取るというものだった。パーマー式は、荷物の量によって左右のバランスが変わるという欠点があった。その問題を解決するためにさまざまな模索が行われた。一方で、「レールの真下に車体を持ってくることによって、左右バランスの影響を少なくする」というスタイルが考案された。初期のものである程度知られている実例には1887年にアメリカ合衆国ニュージャージー州に作られた「南セントポール高速高架鉄道(ユーノス電気鉄道)」や、1901年に開通したヴッパータール空中鉄道に採用されたランゲン式モノレールなどである。これらはレールの真下に車体を配置することで、左右のバランスという問題を回避した。この「レールの真下に車体を配置する」という方法は懸垂式モノレールの定石となった。もう一方で「振れ止めとして下方に別のレールを設け、1点支持から3点支持にする」というスタイルが考案された。初期のものとしては、1876年にアメリカ合衆国フィラデルフィアで開催された「アメリカ合衆国建国百年博覧会」で発表されたリロイ・ストーン式モノレールや、1882年に開発されたラルティーグ式モノレールがある。3点支持化によって左右のバランスは厳密さを求められるものではなくなり、また車体を上に伸ばすことができるようになった。このレールにまたがり3点で車体を支持するという様式は、マイグス式モノレールと逆T字方式モノレールを除く跨座式モノレールの基本形となった。他に、一本のレールをガイドウェイとして使う方式のものもあり、それらも「モノレール」と呼ばれている。ユーイング式モノレールとラルマンジャ式モノレールである。前者についてはその後類例が出ていないが、後者はゴムタイヤ式トラムのTVRと似ているということもできる。また、さらに他に、レールこそ2本以上あるものの、一般の二条式鉄道とは明らかに異なることから、なんとなくモノレールに分類されているものも数多くある。それらについては古典的な方式の節を参照されたい。モノレールの基本的なコンセプトは、20世紀初頭にはおおむね出尽くしている。20世紀中盤になってからはアルヴェーグ式・スカイウェイ・上野式などを契機としてゴムタイヤが導入されたことが一番大きな変化であると言える。その後は規格の統一化や細かい改善が続けられたりしながら現在に至っている。なお、一世紀以上にわたって忘れられていたコンセプトを採用した「逆T字方式」を採用した新しいタイプの跨座式モノレールが20世紀末以降に登場している。方式として、懸垂式 (Suspended System) と跨座式 (Straddle-beam System) の、大きく二つに分類できる。ただし、過去には懸垂式にも跨座式にも分類できないものも存在した。今後も、たとえばレールから横に車輌を突き出して支持する方法(カンチレバー式・片持ち式)など、この分類では区分できないものが登場してくる可能性はある。また、電車線で使用される電力は、設置される電車線のスペースや輸送力の関係から直流の1500Vが標準となっている。懸垂式(けんすいしき)とは、車輌を吊るように上にレールがある(レールに車輌がぶら下がっている)形態のモノレールである。歴史的には跨座式より古く、また商業的に成功したのも懸垂式の方が先である。懸垂式は、車輪と軌道が車体の上にあるため、車体も屋根上を支点に振り子のように揺れるため、横風に対して左右の揺れが大きくなるが、車両の重心が軌条面からかなり下に位置しており、最も安定した方式である。そのため、カーブでは遠心力による重心の移動にあわせて自動的に車体が傾く自然振り子式となり、速度制限が厳しくないという利点もある。また積雪にも強い。日本国内に存在する懸垂式モノレールには、東京都交通局と日本車輌製造による上野式(上野動物園)・三菱重工業がフランスから導入したサフェージュ式(湘南モノレール、千葉都市モノレール)・神戸製鋼所と三菱重工業によるスカイレール、の3方式がある。ランゲン式モノレールは、民間のドイツ人技師カール・オイゲン・ランゲン (Carl Eugene Langen) が開発した。彼は、1880年代から、懸垂式モノレールシステムについての研究開発を行っていた。1885年には、アルバート・シャルリエ (Albert Charlier) が同様の発想による「空中自転車」を開発したため、ランゲンは念のためにこの方式についてのパテントを取得した。1898年に、ヴッパータールでの建設計画が着工に移され、ヴッパータール空中鉄道が1901年に開通している。その後100年以上にわたってこの路線は実用的交通手段として運行され続けており、そのためランゲン式は世界で最初に成功したモノレールシステムとされる。ランゲン式では、レール・車輪ともに鉄製である。車輪は両側にフランジを持つもので、間のみぞにレールがはまりこむことにより、支持・案内が行われる。車輪は2輪のボギー台車に取り付けられており、片側から下ろしたアームによって車体は懸荷される。また、レールも、車体を支えるアームとは逆側から、片持ちで支持されている。従って、走行システムは左右非対称である。走行装置・車体は、カーブなどでは左右に15度の範囲で振り子状に揺れることができる。戦後の都内の交通渋滞を緩和するため路面電車や路線バスに代わる近距離交通手段として、東京都交通局は日本車輌と共同で独自に研究を開始し、上野動物園内に、園内輸送施設の東京都交通局上野懸垂線として設置された。1957年12月17日開業、以降幾度かの施設更新を経て、2014年現在も現役。前記のランゲン式と類似した方式ではあるが、軌道がレールではなく、軌道桁となっており、走行輪が鋼製の車輪からゴムタイヤ方式になっている。ランゲン式とは逆に、軌道桁の上部が窪んでおり、そこにゴムタイヤがはまりこむようになっている。また、軌道桁の両側面には、案内用タイヤが台車から挟み込む形で設けられており、車両を案内する。上野懸垂線は、その設置目的から極めて短い営業区間のピストン輸送を行っているだけであり、線路には分岐機を持たず、交換設備なども設置されていない。また、非対称型懸垂式モノレールへのゴムタイヤの導入は、前年にアメリカ合衆国ヒューストンに作られた「スカイウェイ」が先鞭を付けており、上野式が最初ではない。上野式は、結果として当初の目的である都電や路線バスの置き換えとはならなかったが、戦後東京の都市交通計画の一端を今に伝える貴重な産業遺産といえる。サフェージュ (SAFEGE) 式は、フランスのリュシアン・シャーデンソン (Lucien Chadenson) を中心とする設計チームが1957年に開発した方式である。サフェージュ式という名称は、この方式を開発するためフランス国内の25の企業が集まって結成された企業連合である(「フランス経営経済研究株式会社」の意)の頭字語である。軌道桁を下面中央部が開いた鋼板製の箱型とし、下面中央部から台車を介して車両を懸垂している。軌道桁の開口部両側には、対称形の走行桁を設けて、その上の走行路を車両側の台車に装備された走行輪のゴムタイヤ車輪が車両を支持・駆動させ、軌道桁の内部両側面には、H鋼による案内軌条を設置して、そこを車両側の台車に装備されている案内車輪が両側で走行することで車両を案内する方式である。乗り心地を良くするため、走行路にエポキシ樹脂などの舗装を行う場合がある。軌道桁を支持する支柱は、T型鋼製であり、支柱間隔は30 - 40mとしている。この方法は、走行装置や走行路が雨水・積雪にさらされることがないために天候にかかわらず安定した運行が可能であること、同じ理由からメンテナンスが楽になること、また走行系メカニズムが左右対称で逆方向にも走ることができ単線構成が可能になることなどの大きなメリットがあった。サフェージュ式は、1960年から7年にわたって、オルレアン近郊に実験線を作りテストを行なった。この時期のものの動画は、映画『華氏451』の冒頭部で見ることができる。日本では三菱重工業が、サフェージュ式の技術導入に際し日本エアウェイ開発を設立。東山公園モノレールで行われた実用試験を基に湘南モノレールが開通した。サフェージュ式の派生形としていくつかのものが存在する。シーメンスが提案する運行管理システムなどを含めたSIPEMシステムは、ドイツで2か所、「Hバーン(H-Bahn: ドルトムント)」「スカイトレイン(Skytrain: デュッセルドルフ空港)」で実用化されている。アメリカ合衆国では、ダラスやシアトルにサフェージュ式をベースに高速化を目指して鉄レール・鉄輪に変更した「エアロレール (Aerorail)」が、フロリダ州タンパで鉄レール・鉄輪と箱桁内にボギー台車と台車をつなぐ床板構造をおさめた「スカイトレイン」が、それぞれ提案されているが、現状では提案のみにとどまっている。日本の懸垂式モノレールは運転台のある車両のみの編成で構成されていることが多い。ただし、サフェージュ式の湘南モノレールは、開業当初は中間車はなく2両編成だったものの、現在では懸垂式モノレールとしては日本で唯一、中間車が存在する。また、サフェージュ式の千葉都市モノレールは懸垂式モノレールとしては世界最長の営業距離で、ギネスブックに掲載されている。Iビーム式は、I型断面を持つ軌道桁をレールとして使い下側のフランジに車輪を乗せて車体をぶら下げる方式で、車両の支持・案内はI型断面を持つ軌道桁と車輪で行う。小規模なものは吊り下げ式の荷物輸送用設備や遊戯施設などに多用されている。また厳密には乗り物ではないが、プラレールにおけるモノレールシリーズもこの方式と言える。実用的な乗り物としては、1964年から1965年にかけて開催されたニューヨーク万国博覧会の会場内輸送に使われたAMFタイプモノレールを挙げることができる。他に、タイタン社がリニアモーター駆動のシステムを提案しているが、こちらは実用化されていない。次節で述べるスカイレールも車体の支持・案内方式はIビーム式である。ただ、スカイレールは駆動方式などに類例を見ない特徴を持つ。スカイレールは、神戸製鋼所・三菱重工業が急傾斜地の頂上にある住宅街と谷側の鉄道駅を結ぶために開発した小規模交通システムで、概念としては懸垂式モノレールシステムに含まれる。一見したところロープウェイに類似した乗り物だが、ロープではなく高架構造の軌道桁にゴンドラがぶら下がっている。そのためロープウェイと比べて風に強いが、支持体の鋼桁を設置する必要があるためロープウェイよりかなりコストが高くなる。車体の支持・案内方法はIビーム式を採用している。駆動系に特徴があり、軌道桁に沿ってロープを通し、それが一定の速度で回っており、駅間では車輌はそのロープをつかんで駆動され、駅では、車輌はロープから離れて、地上一次式のリニア誘導モーターで駆動される。そのため、基本的に線路は「複線でループ構造」となる。最小回転半径は30m、最大勾配は270パーミル(27%)、最大距離は3.2km、想定輸送力は2,200人/時間。一般の軌道系交通機関とはかなり様相が異なる小規模短距離システムではあるが、概念としてはモノレールに含まれ、また見方によっては懸垂式ケーブルカーとの解釈もできる個性的な運送機関である。2014年現在、広島市のスカイレールみどり坂線が唯一の導入事例である。跨座式(こざしき)とは、車両の下にレールがありレールに車両が乗っている形態のモノレールである。跨座式はその多くが、車両下部に走行輪・案内輪・安定輪を装備した台車を取付けており、軌道桁の上にある走行路を走行輪が接して車両重量を支えて車両を走行させ、軌道桁の左右に接する案内輪と安定輪で車両を案内するという方法を取る。この方法では、車輌の床下と軌道桁上部の間に車輪があり、さらにその下に案内車輪が存在するため、車輌の高さが通常の鉄道車両よりはるかに大きくなるという欠点がある。他に、軌道桁の下部左右に車両重量を支える車輪を設け、上部を左右方向に抑えて案内をする、マイグス式や逆T字方式もある。この方式では、車輌の高さをおさえることができるが、一般化はしていない。日本では、日立製作所によってドイツから導入された、コンクリート製の軌道上をゴムタイヤで走行する「アルヴェーグ式(アルウェーグ式)」あるいはこれを基に規格を統一した「日本跨座式」と呼ばれる方式が主流である。過去には川崎重工業によって導入された、コンクリート軌道上に設置された鉄製レール上を鉄車輪で走行する「ロッキード式」や、東芝がアルウェーグ式を参考に独自に開発した「東芝式」もあった。日本国内では東京モノレール・大阪高速鉄道(大阪モノレール)などで採用されている。アルヴェーグ式は、1950年にジョン・A・ヘスティングが、ロサンゼルスに導入する予定の新しい交通機関の調査を始めたところから始まる。元々、線路にまたがる方式のモノレールの特許は、ドイツ人技術者レシャーが持っていたが、第二次世界大戦で消息不明になったため、アクセル・レンナルト・ヴェナー=グレン (Axel Lennart Wenner-Gren) が事業を始めた。そのため、頭文字を取って「アルヴェーグ (ALWEG、日本語表記では「アルウェーグ」とも)」と呼ばれるようになった。事業体は1951年に交通機関研究所 (Verkehrsbahn-Studiengesellshaft) が設立、さらに1953年にアルヴェーグ開発 (Alweg-Forschung GmBH) に名前を変えた。特徴は、空気タイヤをはめた車輪で走行することにある。そのため、車体の重量をゴムタイヤで支えねばならず、タイヤが大きくなり、車内にタイヤ部分の出っ張りの部分が出来てしまうという欠点がある。また、軌道桁の上辺の走行路は、エポキシ樹脂混合物を上塗りとしているものと鋼板床を敷いているものがある。また、軌道桁は、太い中空I字型のPSコンクリート製としているが、交差点などの長い径間を必要とする場所では鋼製桁としており、支持する支柱の支柱間隔は15 - 22mとしている。この方式は、名鉄犬山モノレール(1962年開業 - 2008年廃止)で採用されたのち、よみうりランド(1964年開業 - 1978年廃止)や、東京モノレール(1964年開業)で採用されている。これら日本国内で用いられた方式は日立製作所が携わったことから「日立アルヴェーグ式(日立アルウェーグ式)」とも呼ばれる。アルヴェーグ式を参考にして東京芝浦電気(現:東芝)が開発。連接台車や自動ステアリングを採用したことが特徴。この方式はかつて、松尾國三の肝いりで奈良ドリームランドモノレール(1961年開業 - 廃止)として採用後、横浜ドリームランドへのアクセスとしてドリーム交通モノレール大船線(1966年開業 - 1967年休止)で採用されていた。しかし後者は急勾配のコースが多く、それによって連結器や台車などの駆動系部品を中心に設計変更が生じたが、これにより車両が大幅な重量オーバー(設計時30トンが実際には46トン)となって車両故障が頻発し、ついには橋脚のコンクリートにも亀裂が入り始めたことから、陸運局からの運行休止勧告を受けて1967年9月に休止となった。1967年11月6日にはドリーム交通と設計した東芝との間で訴訟となり、運行再開されないまま2003年に廃止されている。このことから奈良ドリームランドでは、車両更新の際は日本輸送機にて新車両が製作された。1967年度に当時の運輸省(現国土交通省)が、「都市交通に適したモノレールの開発研究」を行なった。これは、交通渋滞が悪化してきた環境で、より優れた輸送手段としてのモノレールを研究対象にしたものである。これは、日本モノレール協会に委託された。その研究結果として、懸垂式と一緒にまとめられたものが、日本跨座式である。日本跨座式はアルヴェーグ式をベースに、軌道桁を太くし、台車を2軸ボギーの空気バネ台車にし、ゴムタイヤを使用する。アルヴェーグ式よりも床面高さを高くすることで、室内の床を平面にした。しかし、「重心が高くなるために曲線の通過速度が遅くなる」「プラットホームと線路床面の落差が2メートル以上となり、転落の際の安全性に問題があり、ホームに転落防止柵設置が必須となる」「車輌断面が大きくなるためトンネルを設けるコストが大きくなる」などの欠点が生じた。この方式は、日本万国博覧会(大阪万博)で会場内の交通機関として採用された。以後に跨座式を採用して開業した路線はすべてこの方式である。日本国外にも輸出されており、中国の重慶軌道交通2号線、3号線、韓国の大邱都市鉄道公社3号線は日本跨座式が採用されている。ロッキード式は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるロッキード社が開発した方式である。コンクリート製の軌道の上に鉄のレールを敷き、その上を鉄の車輪を使って走行する。鉄製の車輪のため、小径の車輪でも車輌の重量を負担することができ、室内の床は平面ですむ。コンクリート桁の左右下部にも鉄レールが設けられており、そのレールを左右からおさえて車体を安定させる。日本では、ロッキード社から技術を導入するため、川崎航空機工業、川崎車両、日本電気、西松建設などが出資した日本ロッキード・モノレールが設立された。当初は時速160km/hでの高速営業運転が可能である、乗り心地が良い、といった点をアピールポイントとしていた。また、姫路〜鳥取間を高速ロッキード式モノレールで繋ぐという計画もあった。しかし日本以外での導入事例はなく、ロッキード社自体もこのモノレール事業からは早々に撤退した。この方式は、姫路市交通局(当時、のち姫路市企業局交通事業部を経て廃止)の姫路市営モノレール(1966年開業 - 1974年休止・1979年廃止)と、小田急電鉄の向ヶ丘遊園モノレール線(1966年開業 - 2000年休止・2001年廃止)の2路線で採用された。いずれもすでに廃止されており、現存路線は存在しない。逆T字方式は、中央案内軌条式の新交通システムと類似した構造を持つ。実用的な交通システムとしては、スペインで開発されたユーロトレン (Eurotren) とアメリカ合衆国で開発されたアーバノート (Urbanaut) がある。逆T字方式は、アルヴェーグ式と異なり、レール上面にタイヤが乗らないために、高さを抑えることができるというメリットがある。日本の法律上はモノレールには分類されないが、案内軌条式鉄道の一部には、中央に一本の案内用軌条を持ち、重量は別に設けられた走路が負担するという逆T字方式のモノレールに近い形態のものがある。具体的には、VONA方式を採用した桃花台新交通桃花台線(2006年廃止)と山万ユーカリが丘線である。札幌市営地下鉄でもこれと似た札幌方式が用いられている。産業用の簡易輸送施設としてモノレールを使うという発想は古くからあり、起源は不明である。モノレールの嚆矢とされるPalmer式モノレールも産業用モノレールとして始まっており、その後も多くの同様の趣旨で作られた路線があった。ここでは、もっぱら産業用として限定的に開発されたモノレールの系譜についてまとめる。遅くとも1949年には、交通機関としてではなく不整地での工事用・工場内での物資輸送などを主な目的とする産業用モノレールが開発され商品として販売された。同年に、イギリスのレール・マシンズ・リミテッド (Rail Machines Ltd.) から発売されていたという記録がある。この産業用モノレールは、特許取得の記録が残されており、それなりに商業的にも成功をおさめたようである。日本では、1966年に、当初は主にみかんを初めとする果樹栽培の、急傾斜地での労働軽減を目的とした農業用モノレールがニッカリと米山工業株式会社によって開発・販売された。これらは摩擦ではなくラック・アンド・ピニオンで車輌を駆動するようになっている。速度が遅いという欠点はあったものの、勾配には強く、最大45度まで許容できた。この農業用モノレールは、基本的に物資輸送用であり人間が乗ることは想定されていなかった。しかし、その物資輸送用モノレールに無理やり乗車する者が後を絶たず、しばしば死傷事故を引き起こした。そのため、「乗車することを止められないのならば、安全に乗車できるシステムを」という方向で、農林水産省・厚生労働省・経済産業省なども参加して安全基準などを定める方向に至った。その後、人員輸送用にも使えるものや、急傾斜地の工事現場で作業用道路が不要となることが注目されてコンクリートなどの資材や小型重機などの運搬ができるものなど、高性能で安全なものが開発されるようになり、多くの会社で製品化されている。物資運搬用以外にも、長崎市の斜面移送システムのような自動車道路の建設が困難な地域での生活の足や、老齢者の福祉介護用、山岳地帯の送電塔などの保守用、急傾斜を登らなければならない展望観光地の観客輸送・バリアフリー施設用などにも用途が広がっている。また日本国外でも、農業用、またはパイプラインの敷設などの産業用モノレールとしての使用実績もある。これらの中には、重量物輸送用の高性能タイプなど主軌条のほかにバランスを取るための副軌条を持つシステムもあり、厳密には「モノレール」とは呼べないものも含まれている。しかし副軌条を持つものを含めて、おおむね「産業用モノレール」としてまとめられている。産業用モノレールの主な銘柄としては、以下のものがある。遊園地のアトラクションや博覧会場内の移動用としての簡易なモノレールもさまざまな会社で製造されている。つくばで行われた国際科学技術博覧会の会場内交通機関として使われた「ビスタライナー」を製造した泉陽興業は、同システムを発展させた「ニュービスタライナー」をローコストで軽量級の交通機関として提案している。同様に、スイスを拠点とする遊戯施設メーカー・インタミンも実用モノレールをラインナップしており、モスクワや中国深圳での採用実績がある。イギリスに本拠を置く遊戯施設メーカー・セヴァーン・ラムもSLシリーズという実用モノレールを製造しており、アミューズメントパークの交通機関ではあるが、イタリアのサヴォイで採用実績がある。モノレールあるいはモノレールに類似した交通システムの中には、考案されはしたものの実現されなかったもの、ごくわずかな実例しか存在しなかったもの、一時期はある程度普及したがその後すたれたもの、などがたくさん存在する。その一部を歴史順に紹介する。高い位置にレールを通し、そこから車輌をぶら下げる懸垂式モノレール。荷台・客室は左右に振り分けられ、バランスを取っていた。ヘンリー・ロビンソン・パーマー (Henry Robinson Palmer) が開発したもので、1821年11月22日にイギリスで特許が登録されている。1824年にロンドンのデプトフォード造船所に荷物輸送用のものが作られ、翌1925年にはハートフォードシャーに旅客輸送用モノレールが開設された。のちにランゲン式を採用したヴッパータール空中鉄道を建設することになるヴッパータールでもパーマー式モノレールの導入が検討されたが、実現はしなかった。当初の動力は馬・人・ラクダ(北アフリカ)などだったが、詳細不明ながら遅くとも1878年頃までには蒸気動力が導入されていたことがわかっている。この方式のものが、一般的には「世界最初のモノレール」とされている。1本のレールに車体が乗り、車体の片側に取り付けられた幅広の車輪で支持して転倒しないようにして走行する方式。19世紀後半(1868年頃?)にイギリス人発明家のチャールズ・ユーイング (Charles Ewing) により考案されたものと考えられている。ユーイング式は、線路に全重量の95%程度がかかるように設計されており、走行抵抗は通常の鉄道と大差ない程度におさえられている。また、レールを1本しか必要としないため敷設コストが節約できるほか、線路が占有する幅員が狭いために道路と同居しやすいという利点があった。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではないため、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。この方式はイギリス人のウィリアム・サロルド (William Thorold) によって具体化され、インドのパティアーラ州立鉄道 (PSMT) に導入された。PSMTは1910年に開通した路線で、全盛期には実に2路線80kmにも及ぶものとなった。馬力鉄道として開通し、のちに蒸気機関車が導入された。蒸気機関車はオーレンシュタイン・ウント・コッペル社により製造された。PSMTは、道路の改良と自動車の出現によって1927年に廃止された。その後長らく存在すらも忘れ去られていたが、1962年に再発見された。その後、車輌はレストアされ、インドのニューデリー鉄道博物館で動態保存されている。1876年に行われたアメリカ合衆国建国百年記念博覧会の会場にセンテニアル・モノレールとして設置されたものであり、極初期、あるいは最初の跨座式モノレール。リロイ・ストーン将軍(General Leroy Stone)により考案された。A字型の橋脚の上に一条、下に左右に二条のレールを持ち、上の車輪で車重を支え下の車輪でバランスを取るという方法。この3点で車体を支えるという方法は跨座式モノレールのひとつの様式となり、その後のラルティーグ式・アルヴェーグ式・ロッキード式などにも踏襲されている。リロイ・ストーン式では、すべての車輪は両フランジとされた。動力は蒸気。その後の「跨座式」と類似のレイアウトではあり、やたら背が高くなるという欠点はすでに顕在化していた。リロイ・ストーン式では、下側車輪の左右に垂れ下がった車体の部分を、機関車では水槽や炭庫として使い、客車ではそこにも客席を設けてダブルデッカー構造として、スペースを有効に活用すべく努力した形跡が認められる。中央の一本のレールを誘導用として使用し、両側に取り付けられたフランジの無い幅広の車輪で駆動・支持して走行する方式。両側の車輪は木製の板の上を走行する。フランスのジャン・ラルマンジャ (Jean Larmanjat) により考案された。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではないため、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。類似した発想に基づくユーイング式では一条の鉄軌道が大半の重量を負担したが、ラルマンジャ式はそうはなっていない。鉄軌条は、全車輌の案内と機関車など重量車輌の重量の大半の負担を受け持っていたが、客車などの軽量車輌はその重量の大半を側車輪が負担するようになっていた。客車は、馬車などに中央の鉄軌条による案内を付け加えたような構造となっていた。1868年8月にフランスでイベント用交通機関として実用化され15か月間使用されたという記録が残っているが、詳細は解明されていない。その後、1870年代にはリスボンの市街鉄道で使用された。両側の走行用の板が早く傷んでしまい、乗り心地も悪かったため普及には至らなかった。上下に1本ずつ計2本全4面を持つレールを設置し、下部のレールを外側に傾いて設置された車輪で両側から挟み込んで車重を支え、上部のレールを水平に設置された車輪で両側から挟み込んでバランスを取る方式の跨座式モノレール。アメリカのジョー・V・マイグス (Joe V. Meigs) により考案されたもので、1886年にマサチューセッツ州のケンブリッジで試験的に使用された。これは都市での高架鉄道の試行のひとつであり、ルート28の上に敷設された。一般に跨座式モノレールの場合、軌道桁の上面で車輌重量を支えるが、マイグス式では軌道桁の下部で支えている。そのため軌道桁から床面までの距離を詰められるという特徴があった。この考え方は、のちの「逆T字方式」と呼ばれる方式のモノレールにも共通するものである。A字型の支柱の上と支柱の下の左右に合計3条のレールが設けられており、上のレールで車輌重量を支え下のレールで車体を安定させるという方式。アルジェリアなどでパーマー式懸垂式モノレールの建設に携わっていたシャルル・ラルティーグ (Charles Lartigue) が開発したもので、これは跨座式モノレールとしてはポピュラーな様式であり、アメリカ合衆国建国百年博覧会で披露されたリロイ・ストーン式モノレールなどの先例がある。1888年3月1日にはリストウェル・パリブニオン鉄道(アイルランド・ケリー州)の14.4kmの路線が開通した。動力は蒸気で、3軸式の機関車が用意された。この路線は1924年にアイルランド内戦によって破壊されたことから廃線となった。2002年には短い区間ではあるが観光目的で復元され、レプリカの車輌で運転されている。機関車は蒸気機関車風の外装になっているが、ディーゼル機関車である。他に営業に使われた路線としてはフランスのフュール=パニシエル鉄道がある。開通は1893年で、延長は16.9キロだった。この路線は1902年に廃止された。蒸気機関車が一輌、保存されている。最後のラルティーグ式モノレールは、1924年にアメリカ合衆国カリフォルニア州のマグネシウム鉱山・クリスタルヒルとトローナの鉄道駅との間を結んだものだったと考えられている。こちらでは内燃機関を積んだ機関車が使われた。これは20世紀後半になって開発された産業用モノレールに酷似していた。ラルティーグ式の欠点は踏切が作れないことで、踏切を設けざるを得ない場所では必要に応じて線路を取り外すという方法が採用されていた。また、分岐器は最後まで開発されず、やや湾曲したレールを持つターンテーブルによって代替されていた。アメリカのイーベン・ムーディー・ボイントン (Eben Moody Boynton) により考案された方式で、上下に1本ずつ計2本のレールを設置し、下部のレールに車重がかかり、上部のレールで車体を支持するというもの。跨座式にも懸垂式にも分類できない。そもそもレールが2本あるので厳密にはモノレールではないが、一般的に黎明期のモノレールの一種と理解されている。1890年にコニーアイランド付近の廃止された線路を流用した路線でボイントン自転車鉄道 (Boynton Bicycle Railway) がこの方式のデモンストレーションを行った。また、1910年から1914年にかけては、ニューヨーク市ブロンクスのペラム公園 & シティアイランド鉄道 (Pelham Park and City Island Railroad) で採用されたが、脱線事故を起したことから短命に終わった。右写真はこの時期の電車。後にイギリスのエルフリック・カーニー (Elflic Kearney) が改良型を考案し、ロンドンの地下鉄用に提案した。オーストリアのルイス・ブレナン (Louis Brennan)、ドイツのアウグスト・シェールル (August Scherl)、ロシアのピョートル・シロフスキー (Piotr Schilovski) によってそれぞれ1900年頃考案された。1本の通常のレールの上を無支持で走行する。レールを1本に減らせば摩擦力が半減し、その分速度を倍増でき、高速走行時の蛇行動もなくなるという理論の元で考案された方式である。大型のジャイロスコープが車体に搭載され、車体の傾きに応じてジャイロスコープの軸が傾き、ジャイロ効果による復元力でバランスを取る仕組みになっている。シロフスキー式は1921年にソ連のレニングラードからツァールスコエ・セローまでの建設が、ブレナン式はインドの北西部での建設がそれぞれ検討されたが、資金難により実現しなかった。ジャイロその他の装置に多くの費用が掛かることが欠点である。また、鉄道車輌の走行抵抗は転がり抵抗と空気抵抗からなり、後者は速度の2乗に比例する(すなわち速度が2倍になると空気抵抗は4倍になる)。そのため、レールを1本に減らしたところで速度を倍増するほどの効果はない。反動トルクを打ち消すために複数のジャイロを使用する場合、ジャイロごとの大きさや回転数が異なればそれによってモーメントが発生し、姿勢制御にも影響する。逆にジャイロの回転数を積極的に加減することで曲線通過時に車体を内傾させるなど、能動的に姿勢を変える方法もある。ランゲン式と同じような発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、推進装置を台車に組み込まずプロペラで推進するというもの。フランスで1919年頃試験線が建設されたが、詳細な記録は残されていない。また、1930年には、ジョージ・ベニー (George Bennie) が改良型の試験線をグラスゴー近郊のミルンギャヴィー (Milngavie) に建設した。こちらの方はレールプレーン (Railplane) と呼ばれ、最高時速120マイルを目指して計画された。レールプレーンは、安定性を確保するために下部にもう1本振れ止めのレールを追加しており、厳密にはモノレールではない(下部レールは車体重量は負担しない)。当時、日本にも「軌道飛行機」として紹介された。第二次世界大戦の金属供出のため、試験線は1941年に撤去された(1950年代という説もある)。のちに、フランスでプロペラ(のちジェットエンジン)を推進装置として使用したアエロトランが開発され実験された。こちらは懸垂式ではなく、走路の上に車体が乗る案内軌条式鉄道に類似していた。アエロトランも実用化はされなかった。ランゲン式と類似した発想の非対称型懸垂式構造のモノレールだが、ゴムタイヤを使っている。1956年にアメリカ合衆国のヒューストンに試験線が作られ、8か月のテストののちに解体されダラスに移転、しばらく使われた。動力は310馬力の内燃機関を2台搭載しており、案内はレール上面に設けられた板状のガイドレールによって行われた。また、運転士はレール下のキャビンではなくレール上の台車に搭乗して運転した。想定での最高速度は160km/hであり、都市近郊(インターアーバン)や都市間の高速交通機関として使うことを想定して作られたが、実用化されることはなかった。

出典:wikipedia

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