対位法(たいいほう)()は、ポリフォニー音楽の作曲技法についての音楽理論である。ホモフォニー音楽では、簡単に言えば「歌と伴奏」のように、ある旋律が主役でその他のパートが脇役を務める。ポリフォニー音楽ではそうではなく、どのパートが主役かということは不明瞭で、それぞれのパートが対等であり、それぞれが独立性を持った旋律を奏でる。このように独立性を持ったパートを声部と言う。ポリフォニー音楽においても複数の旋律が同時に演奏されるので必然的に和声が形成されるが、ポリフォニー音楽では和声よりも各声部のメロディの流れにより重きを置く。複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和させて重ね合わせる技法である。対位法は、和声法より先んじて西洋の伝統的音楽理論の根幹をなしている。和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の類別や、和音をいかに経時的に連結するかを問題にするのに対し、対位法は主に「旋律をいかに同時的に堆積するか」という観点から論じられる。もっとも、対位法と和声法とは、相互に補い合う関係にある。対位法においても旋律間の調和を問題とする以上、音の積み重ねによって生じた和音を無視するわけではなく、和声法においても和音の連結を問題とする以上、その際に各声部の旋律の流れは論じられる。これら二つの理論の違いは観点の相違であって、全く相反するような性質のものではない。一例を挙げると、輪唱の場合、「和音が連続している」(音と音との同時的な堆積が経時的に連結している)ものとして捉えることも不可能ではないが、「旋律が時間的にずれて重なっている」(音と音との経時的な連結が同時的に堆積している)ものとして捉えるのがより自然である。そこで、輪唱は和声的というよりは対位法的な音楽であるということができる。歴史上、対位法の理論は和声法よりも先に研究され、後から発達した和声法は対位法の影響を多分に受けている。よって、特に初期の和声法ほど各声部の対位法的な扱いを重視している。また、狭義には対位法とは、フックスの理論書を淵源とする厳格対位法(類的対位法)の理論、並びにその実習のことであり、作曲の理論・実習のひとつである。多声音楽(複数の声部からなる音楽)そのものの起源は定かではないが、今日まで続く対位法の技法・理論は中世の教会音楽に端を発している。9世紀頃、単声のグレゴリオ聖歌に対して4度あるいは5度で平行する旋律を付加する、オルガヌムと呼ばれる唱法が出現した。当初、オルガヌムにはリズム上の独立性はなく、一つの音符に対しては一つの音符が付加された。“対位法”(counterpoint)という語の語源はラテン語の“punctus contra punctum”(点対点、つまり音符に対する音符)であり、ここに由来する。11世紀には、平行進行のみでなく反進行や斜進行も用いられる自由オルガヌムが用いられたが、リズム的には一音符対一音符のままであった。12世紀になって、単声を保続音としてその上により細かい音符を付加する、メリスマ的オルガヌムの技法が現れた。アルス・アンティクアの時代(12世紀中頃~13世紀末)には、声部の数がそれまでの二声から、三声、四声へと拡大し、オルガヌムもより複雑化した。アルス・ノーヴァの時代(14世紀)に至ると、それまでの定型的なリズムに替わって、より多様なリズムも用いられるようになった。また、オルガヌムのように既存の旋律に付加する形をとるのではなく、音楽全体を新たに作曲する傾向も生まれた。ルネサンス期(15世紀 - 16世紀)になると、各声部の独立性はさらに明確化した。ルネサンス末期に現れたパレストリーナの様式は対位法の模範とされる。またルネサンス末期には、旋律と旋律の積み重ねによってではなく、和音と和音との連結によって音楽を創る「和声」の発想が現れ、以後バロック期にかけて次第にこの発想が支配的となっていった。18世紀に入ると、教会旋法による音楽は次第に廃れ、長調・短調による調性的な音楽が主流となり、それに伴い対位法にもますます和声的な発想が入り込むようになった。それまで合唱、つまり声楽と共に発展してきた対位法が、この時代に至ると器楽も発達し、それに伴って器楽的対位法と言われる新たな音楽語法が現れた。この時代に活躍したJ.S.バッハの作品はそれまでの対位法的音楽の集大成であると同時に、和声的な音楽語法をも用いたものであり、音楽史上一つの転換点であるとみなされる。古典派やそれに続くロマン派の時代では、各声部が独自性を保っているポリフォニー的な音楽ではなく、一つの旋律に和声的な伴奏が付随するホモフォニー的な音楽が支配的となった。また、興味の方向が超絶技巧などの名人芸や楽器の改良など速度や音色へと変化したこともあって、対位法を駆使した楽曲は和声的な楽曲に比べて劣勢であったが、作曲技法の修練としては教育的価値を認められ存続していた。現代では、対位法的発想は以前とは全く異なった形で現れている。例えば十二音技法では、音列によって音組織が秩序づけられるので、音列を用いた旋律が重ねられたりすればそこには対位法的な発想を認めうる。この場合、音選択が問題であり、結果として生じた音程は偶発的な存在である。対位法は、教会旋法の音楽や長調・短調の音楽、さらには現代の無調性的な音楽においても使われてきている。その技法は時代によって変化している部分がある。無視できない対位法の種類はの四つである。古典派やロマン派以降の時代に対位法が存在しなかったわけではないが、これらの時代の聴衆の趣味は対位法を理解しない方向へ傾いた。ヨハン・クリスティアン・バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ワーグナー、フォーレなどの作曲家は個別の音楽体験に基づき方法論を探っている。彼らの時代においては、対位法そのものが時代の要求した教義ではなくなっていた。現代の音楽における対位法も、トータル・セリエリズムを通過して一種の音響作曲法まで作曲の概念が拡張した為、狭義の「対位法」の枠で作曲するかどうかは作曲家個人の選択に委ねられている。しかし、前述の中世、ルネサンス、バロックにおける対位法は時代が要求した教義そのものであり、十二音技法における対位法はシェーンベルクを中心としたメンバーが対位法的感覚を教義化したものである。これら四つの教義のうち、頻繁に一般人が言及するのはバロックの対位法であるが、音楽専攻者にとってはルネサンス時代のルールに基づく厳格対位法を有力視することが多い。オルガヌムとカノンの発案者は、現代においても不明のままである。グレゴリオ聖歌の単旋律から離れて、最初に作曲家が解決しなければならなかった問題は二つあり、一つは「旋律に対して旋律をつける際に協和するのかそうでないのか」「音符がどれくらいのの長さか」を「量る」こと、もう一つは「旋律を終わらせること」であった。前者はオルガヌムの多彩なパターンとして認知され、後者は多数の「終止形」と呼ばれる定型が生まれた。この時期を全て網羅するルネサンス時代に著された教程のようなものは存在せず、時代ごとに作曲家は個別に解決法を探っている。またグレゴリオ聖歌の元の旋律は、かなりの長さで引き伸ばされる場合も多かったが、これらの音符をどのように歌っていたのかは今でも判っていない。その音符のみオルガンで引き伸ばされていた、息が続く限り歌ったとも伝えられるが確証はない。この時代の特徴として、声部の交代が非常に頻繁に行われていてもなんら禁則とは見做されることがなかった。楽譜上は交叉の結果同音を連打しているように聞こえても、音響上は歌手の音色が異なるために新たな線として知覚される。ホケットに関しても同様である。この属性はルネサンス、バロックに至るにつれ禁止されていく。活版印刷が存在しなかったので、人々は写本の形で音楽を勉強した。ピエール・ブーレーズは中世の対位法の完成者にギヨーム・ド・マショーを挙げ、彼の手によって全ての声部の独立性が得られ、なおリズムが可能な限り探られたことをラルース音楽事典で特筆した。アルス・スブティリオル時代には現代で言う「三連符」が発明され盛んに歌われたが、ルネサンスの時代には好ましくないとして破棄される。中世に発案された技法が、全てルネサンスに受け継がれたわけではない。ブーレーズは、ルネサンス時代はむしろ中世の時代から技法面において後退しているという見解を示している。この時代は正行、反行、逆行、反行の逆行の4つのパターンが展開されるカノンと転回対位法の花形の時代であった。これらはアルス・スブティリオルの時代に入ると「反行の6割掛けの長さ」など奇妙な音価が頻出することになったが、普通の人には出来なかった。ルネサンスの時代に入るとカノンや転回対位法は歌手のわかる範囲内にまで単純化された。一部の音符の比率を変換する技法が復活するのは、現代音楽の時代に入ってからである。教会旋法による音楽の対位法は、声部間の音程の変化が重要な要素である。曲の冒頭から曲尾に向かって、協和音程、不協和音程をバランスよく織り交ぜながら最終的に協和して終わるのである。この中で、いかにそれぞれの声部の旋律が美しく、またいかにそれぞれが独立した旋律であるかが求められる。政治が音楽に積極的に介入したのも大きな特徴で、「歌詞の聞き取れない音楽は書くな」という有名なトレント公会議を始めとして、数々の制約が声楽曲に課された。にもかかわらず、当時の作曲家たちは4-8声で最高の抑揚を得るべく対位法の技術を追求し尽くした。こうして、16世紀は歴史上最も声楽偏重であった時代となった。ルネサンス期の対位法に関して記された著述は少なからず現存しているが、中でも最も重要なのは、イタリアの音楽家ツァルリーノが残した「和声法教程」(Le Istitutioni Harmoniche 1558年)である。全4巻のうち第3巻が対位法の説明に当てられており、音程、対位法の規則と禁則、定旋律書法、模倣や二重対位法にいたるまで、豊富な譜例を添えて説明されている。2声の対位法が中心に述べられており、3声は追加説明程度、4声以上はアドバイスに留められている。またフーガについても説明されているが、現在の定義とは異なり、「厳格な」フーガ(=今日のカノン)と、「自由な」フーガ(=今日のフーガに近い模倣様式)とに分けられている。なお、この第3巻の最後には、当時若手作曲家が行っていたという半音階や異名同音による理解しがたい記譜法について、強い批判が述べられている。大変な賛否両論を招いたこの教程は、後日改訂増補版(1561)が出るほど多くの音楽家に読まれた。この本が、スヴェーリンクによりドイツにもたらされ、北ドイツオルガン音楽は独自の対位法の発展へ繋がる。ツァルリーノの原著(1561年版)は、2008年現在Arnaldo Forni Editoreから四巻を一冊にまとめた形で出版されている。第3&4巻英訳版は、かつてイェール大学出版局が出版していた。第3巻のみをNorton Libraryが復刻している。後代にルネサンス期の技法を検討した理論書として、フックスが1725年に著した"Gradus ad Parnassum(パルナス山(芸術の山)への階段)"がある。フックスの教程は、本来Gradus ad Parnassum, Sive manuductio ad compositionem musicae regularem, Methodo nova, ac certa, nondum antè tam exacto ordine in lucem editaという長い書名を持ち、原文はラテン語である。この書籍の第二部の練習1-3が、対位法に割かれている。全訳もCNRSから手に入るものの、第二部のみが出版あるいは翻訳されているケースがほとんどである。当時流行した対話形式を用いて書かれている。対位法の実習の際に注意すべき規則が厳しく定められており、その規則に縛られながら課題をこなすことによって、正統的な対位法的感覚を身につけることができるとされる。実際の作曲に用いられるよりも厳しい規則がしかれているため、厳格対位法と呼ばれる。また、対旋律をそのリズムごとに類別して規則を説明しているので類的対位法とも呼ばれる。J.S.バッハの蔵書の中にも含まれ、またベートーヴェンらもこの教程書を使って対位法の勉強をしたと伝えられている。原典に挙げられている範例は、今日では不適当であるとされるものも多く(cf.ザルリーノの音楽論で示されている音形を含んでいない)、ルネサンス期の音楽の抑揚まで知るには不十分である。また、パレストリーナの技法をパラダイムとしているものの、フックス自身はバロック時代の人物であり、時代的な制約から免れてはいない。フックスの原著は、2008年現在CNRS Editionsから1773年に出版されたピエール・ドゥニのフランス語訳が、モニック・ロリンの注釈つきで再版されている。また、éditions mardagaから2000年に出版されたジャン・フィリップ・ナヴァールによる現代フランス語訳も入手できる。バロック時代の対位法による音楽では、和声的な要素が重視されるようになった。すなわち、和声の機能の考え方が加わり、調性が強く意識される。「ルネサンスの時代は、楽器による音楽が尊重されていなかった(cf.F.Nicolosi)」のに対し、バロック時代は主として器楽による対位法の発展であった。大きな変化は「声部の交錯が格段に減った」ことと、コレッリに見られる「ジグザグ進行」の許容、そして声部のスピードである。この3つで一つの線でも、演奏の行われる教会や会場などの豊かな残響を伴い、複数のポリフォニーを認識することが可能になったのである。二声の作品はルネサンスには大変少なかったが、バロック時代になると急激に増える。またオルガンやチェンバロの名人芸によって、一つの声部のスピードはルネサンス時代よりも格段に速度が上がり、一つの旋律線は劇的な表現を獲得した。バロック時代で達成された対位法の一例として、前奏曲とフーガ BWV548を挙げることが出来る。フーガ主題はルネサンスでは厳格に禁止された半音階進行とともに、いきなりジグザグ音形から開始され、その解決を下降音階で表現する。楽譜上は一つの線ではあるが、教会の反響とともに「二つの仮想された線」を知覚することが出来る。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの対位法は「ほとんど同時代の常識を破った例外が99%(cf.F.Nicolosi - 古典純粋対位法)」もあったせいで、同時代の標準的なルールではなかったが、バッハ没後は彼の対位法的作品が規範とみなされるようになった。この時代の対位法的な技術は、ヨハン・フィリップ・キルンベルガーの「純粋作曲の技法」にほぼ全て収められている。全文が、ゲオルク・オルムス出版社から復刻されて販売されている。古典派の対位法は、特に初期には旋律と伴奏との関係が重視されたので、目立ったポリフォニー音楽は残されていない。器楽的な一本の線の表現の強化、に作曲家の興味が集中したためにポリフォニーは後退したが、消失したわけではない。ゲオルク・フィリップ・テレマンの最晩年には、既にバロックの時代は完全に終わり、前古典派の時代になっていた。そのため、彼の晩年の作品はポリフォニックな要素をかなりの部分残しつつも、ホモフォニーの強い受難曲を遺している。この時代、対位法が顕著となるのは後期であって、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作品の復興が流行したため、それに伴いハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの存在は欠かせない。この3人はいずれも後期バロックのヘンデルやJ.S.バッハからの感化であるが、ハイドンは「天地創造」の第2部の終曲に傑作を残している。モーツァルトは交響曲第41番「ジュピター」や「レクイエム」において、これらの様式を自分なりに消化した形で傑出している。ベートーヴェンは最後の5つのピアノソナタでフガートを挿入した。特に第29番「ハンマークラヴィーア」の終曲のフーガは後の調性崩壊を予期させる構造となっている。このようなピアノソナタで実験されたフーガ様式は第九や大フーガ (ベートーヴェン)・荘厳ミサ曲などで大きな成功に結実した。ベートーヴェンの弟子であり、フランツ・リストの師であるカール・チェルニーには「クラヴィアフーガ教程Op.400」という作品がある。また、アントン・ブルックナーらを指導したジーモン・ゼヒターは対位法の訓練をすべての弟子に課したといわれている。初期ロマン派に入るシューベルトは1812年からアントニオ・サリエリから対位法を学び始め、1816年まで彼のもとで伝統的なフーガやイタリア語の声楽曲の作曲法をみっちり学んだ。次の世代のフランクの対位法は、彼の得意な「転調技法」と密接に結びいていた。後のサン=サーンスのポリフォニーはむしろ単純になり退化している。この時代の対位法の大家はブルックナーと言われている。彼はワーグナー流のポリフォニーを更に追求したのであるが、ロマン的に気まぐれの形態ではなくて、むしろバッハ的な反行などの技法を徹底的に使って独自の対斜を生み出し、新しい和声感の表出に成功している。その他の作曲家であるブラームスやマーラーに於いては、対位法的作風はどこにでも見られるものの特に新しい表現としての技法は余り見られない。リヒャルト・シュトラウスも同様であったが、対位法的な構成が直接「管弦楽技法」と結びつくことにより新しい世界を創出していった。最晩年の弦楽合奏のためのメタモルフォーゼンでは、それぞれの楽器を独奏風に動かすことで、対位法的な発想を重視した音楽に仕上げている。パリ音楽院とヴェルディ音楽院が、フックスメソッドを採用した独自の対位法教程を必修にしていた中、モスクワ音楽院では対位法の大家であったセルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフが「数学的対位法」を考案し、門下生に教えていた。彼には「カノンの研究」という著書もある。新古典主義の世界的な流行により、対位法の重要性が150年ぶりに見直される機運を示した。しかし、全く新しい技法が提示されたわけではなく、専らバロック以前の伝統を各作曲家が個人で参照しただけで、技法の停滞には違いなかった。パウル・ヒンデミットのピアノソナタ第三番の第四楽章と(やや時代が下るが)サミュエル・バーバーのピアノソナタの第四楽章は、近代ピアノフーガの名作中の名作として、再演が重ねられている。バーバーのピアノソナタには「ソステヌートペダル」の使用があり、これも19世紀のペダリングでは不可能な対位的空間である。フェルッチョ・ブゾーニは対位法的幻想曲で、バッハの遺稿であるフーガの技法の未完フーガを補作した。1930年にはソラブジの怪作「オプス・クラヴィチェンバリスティクム」でいくつかのフーガが配置されているが、こちらはポスト・ブゾーニの衣鉢を継ぐ作品であって晩期ロマン派の拡張作品である。ユリウス・ヴァイスマンは現代音楽の潮流とは無縁に「フーガの木」などの対位法的作品を完成させた。エルンスト・ペッピング、フーゴー・ディストラー、ジークフリート・ボリスなどドイツ近代の作曲家は、世界で最も対位法重視の音楽文化を完成させていた。モーリス・ラヴェルは「アンドレ・ジェダルジュからは技術を教わりました」と学習当時を回顧していた。そのジュダルジュはフーガの教程をEnoch社から出版しており、パリ音楽院方式<学校フーガ>の姿を知ることが出来る。末尾にはフーガの首席を取ったジョルジュ・エネスクの作例がある。十二音技法による音楽における対位法は、それまでの対位法が協和音程を中心とした理論に基づくのに対して、不協和音程も積極的に活用・重視している。新ウィーン楽派により対位的感覚での作曲が復活し、エルンスト・クルシェネクが体系化した教科書『十二音技法に基づく対位法の研究』("Studies in counterpoint : based on the twelve-tone technique"、1940年)を執筆し、ルネ・レイボヴィッツは「シェーンベルクとその楽派」と名づけた概論を執筆した。レイボヴィッツの本にも、くどいほど対位法との親和性が強調されている。新ウィーン楽派に属した作曲家はシェーンベルクの徹底した教育により、アカデミックかつ複雑なテクスチュアを好む傾向が強い。代表例にシェーンベルクの弦楽四重奏曲第3番やアルバン・ベルクの抒情組曲等が挙げられる。この対位法偏愛は、ウェーベルンが古楽の専門家であったことでさらに拍車がかかり、別の展開を迎える。ウェーベルンはフーガよりもカノンを好んだため、後期は四分音符のみの音楽を書くなど、簡明でルネサンスの対位法の常識へ傾斜してゆく。新ウィーン楽派のほとんどが難解なテクスチュアを好んだのに対し、彼だけが別の道を探っており、晩年は十二音技法の射程の限界であった、音高の操作の問題点の解決中に亡くなった。クルシェネクが教会旋法の教科書を出版しているのに対して、シェーンベルクはバッハ以前の対位法について一切のコメントを残していない。ヨーゼフ・マティアス・ハウアーは12音技法を対位法と厳密に結びつける音楽性から遠ざかり、オクターブを使い易経で音列を連結する方向へ向かったために、シェーンベルク一派は彼と袂を分かった。ヨーゼフ・ルーファーの「12音による作曲技法」は、長らくドイツの音楽大学の必修科目として、多くの作曲家が通った門のひとつである。十二音技法による対位法では声部の音名は制御できても、音高までは制御できないことがルネ・レイボヴィッツによって明らかにされた。以後、現代の音楽の対位法においては音高の制御も積極的に試みられるようになり、トータル・セリエリズムへの道を開いた。これは、一種のパラメータ同士の極限の対位法である。音源のみでは技法の最終結果を判別できず、聴取の限界を超えている。リゲティは自己の作品をポリフォニーの芸術の極致と評したが、後のラッヘンマンになるとそれらさえもすべて否定され、和声音楽でもない対位法音楽でもない、まだ名前の付いていない構造を模索している。このことは演奏のたび毎に偶然曲の構造が変わるケージの考え方の影響が無視出来ない。ブライアン・ファーニホウは「シャコンヌ風間奏曲」でヴァーチャル・ポリフォニーを駆使し、一つの楽器で複数の時間軸を認識させる技法を用いている。現代の対位法の教科書は、その多くは原則として類的対位法の形式に沿っているが、それぞれさまざまな特色がある。
出典:wikipedia
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