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女流棋士 (囲碁)

女流棋士(じょりゅうきし)とは女性のプロ棋士のこと。この項目では、囲碁の女流棋士について解説する。女流棋士は男女混合の一般棋戦に参加すると同時に、女流しか参加できない女流棋戦に参加することができる。日本棋院の場合、入段時には年1名から2名の女流特別採用枠がある。関西棋院では、定員は示されていないものの、同様の制度及び研修棋士制度での優遇がある。一般採用枠で入段したのは、2015年現在宮崎志摩子・桑原陽子・加藤啓子・謝依旻の4名のみであり、大多数の女流棋士は特別枠での入段である。もっとも、入段時の特別枠、および女流棋戦に参加できるという優遇はあるものの、それ以外の昇段規定などは男性棋士と同じである(女流棋戦の成績は昇段に関与しない)。そのため、段位が同じであれば男性棋士であっても女流棋士であっても同等の格と見なされる。将棋の場合、奨励会を経由してプロ棋士になった女性が史上一人も存在せず、女性専用の組織・段制度のもとで戦っており、大きく事情が異なる(将棋の女流棋士を参照。また、将棋にも男女混合棋戦は存在する)。平安時代には囲碁は女性のたしなみとされており、枕草子など古典文学にも碁を打つ女性の姿が描写されている。しかし鎌倉期以降囲碁は男性の楽しむものという傾向が強くなる。江戸期には太夫などが嗜む程度であったが、家元制度の整備とともに18世紀後半に初段に進んだ横関伊保、安井知得仙知の娘で三段まで進んだ安井鉚などが現れる。幕末に著された『大日本囲碁姓名録』(弘化3年)には、二段野口松、豊田源(のち三段)など七名が記されている。林家分家の林佐野は16歳で入段、その後四段まで進み、明治碁界でも方円社設立に関わるなど活躍した。その養子である喜多文子は六段に進み(死後名誉八段を追贈)、日本棋院設立に大きな役割を果たした。喜多は杉内寿子、伊藤友恵など多くの弟子を育て、女流棋士の数も増加していった。1952年、初の女流タイトル戦である女流選手権(後に女流本因坊戦へ発展解消)が設立される。ここでは杉内寿子、本田幸子、楠光子の本田三姉妹らが活躍した。1970年代からは小川誠子・小林千寿らが活躍し、女流棋戦の数も増加した。平成以降ではこれらのタイトルを青木喜久代・小林泉美・加藤啓子・梅沢由香里・謝依旻・万波佳奈・矢代久美子・鈴木歩ら多数の女性が争う戦国時代に入った。ただし2006年謝が女流最強戦を制し最年少女流棋戦優勝記録を更新すると、2008年には女流名人・女流本因坊・大和証券杯ネット囲碁レディースを制し、2010年には女流棋聖3連覇中の梅沢を下し、女流初の同時三冠を達成。これにより謝が頭一つ抜け出した状態になっている。2014年、15歳9カ月の藤沢里菜が会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦を制し女流棋戦史上最年少で優勝を飾った。現在まで日本の女流棋士が七大タイトルの優勝はもちろん、挑戦権獲得や三大リーグ(棋聖・名人・本因坊の各リーグ戦)入りを果たしたことはない。ただし2006年に創設された若鯉戦(30歳以下および五段以下の棋士を対象)では、並みいる男性棋士を破り、謝依旻がタイトルを獲得した。他にも、青木喜久代は決勝戦こそ山田規三生に0勝2敗で敗れたものの、1997年第22期新人王戦準優勝の実績がある。また、小山栄美は25歳以下の男女混合棋戦であったNEC俊英囲碁トーナメント戦準優勝の実績がある。小林泉美もまた男性棋士に対して互角以上の戦績を残しており、2003年と2004年には七大タイトルの一つである十段戦の本戦に2年連続出場を果たし、リーグ入り間近に迫ったこともある。2011年には、鈴木歩が棋聖戦リーグ入りにあと1勝と迫ったが、河野臨に阻まれた。2016年、2015年賞金ランキングで鈴木歩が七段に昇段する。全六段の中で対象棋戦賞金額が最も高かったものが昇段するが、女流棋戦は対象棋戦ではないため、男女同条件での昇段となる。海外では2000年、韓国棋院の中国女流棋士芮廼偉が、曺薫鉉(世界タイトル11回優勝)を破って韓国のタイトルの一つ国手を奪取しており、世界選手権戦でもベスト4にまで残った実績を持つ。これらの実績から、囲碁の男女間の実力差は将棋と比べて小さいとする意見が一般的である。

出典:wikipedia

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