公益財団法人日本棋院(こうえきざいだんほうじんにほんきいん)は、東京都千代田区五番町(市ヶ谷駅前)に本部をおく、囲碁の棋士を統括し、棋戦をおこなっていくための公益財団法人。約300人の棋士が所属するほか、職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。明治維新以降、幕府というパトロンを失った棋士たちは離合集散を繰り返し、囲碁界は混沌とした情勢であった。1872年(明治5年)に村瀬秀甫により設立された史上初の近代的なプロ棋士の団体である方円社と、封建的な風習を墨守する家元の本因坊家とが、対立、並存する時代が長年続いていた。1923年(大正12年)の大正関東地震(関東大震災)を機に棋士たちの大同団結の機運が高まり、翌1924年(大正13年)、大倉喜七郎を後援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社などほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立された。設立直後に棋正社の独立などもあり多少動揺した日本棋院であったが、その後新布石法の発表などで囲碁の人気も高まり、磐石の体制を築く。第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)の東京大空襲で赤坂区(現港区)赤坂溜池にあった棋院本部が焼失するなど大きな被害を受けた。戦後すぐに瀬越憲作、岩本薫らが中心になって再建を目指し、大手合も料亭や後援者の邸宅などを借りて再開された。1948年(昭和23年)には港区高輪に新しい棋院会館が設立され、順調に日本棋院の再建は成されていった。1947年(昭和22年)には坂田栄男、梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げするが、1949年(昭和24年)復帰する。さらに1950年(昭和25年)、今度は当時本因坊の座にあった橋本宇太郎を旗頭に関西棋院が設立された。橋本は翌年の本因坊戦で坂田の挑戦を1-3からの大逆転で降してタイトルを防衛、関西棋院の独立を守った。その後いく度か再統合の話も出ているが、段位の調整や(主に日本棋院側の)財政問題などがネックとなり実現していない。この日本国内の棋院の分裂構造は日本将棋連盟が関東・関西・中部と一枚岩なのと比べきわめて対照的である。1971年(昭和46年)には千代田区五番町の市ヶ谷駅前に現在も使用されている新会館が建設された。その後紆余曲折はあったものの、現在でも、世界囲碁界の中でも重要な地位を占める。ただし1990年代以降赤字財政が続いている他、囲碁人口の減少(2007年(平成19年)の囲碁愛好者は約240万人。『レジャー白書』による)、国際棋戦における日本棋士の不振など、問題山積が現状である。2011年(平成23年)に公益財団法人へ移行した。機関誌として月刊「碁ワールド」、また年刊「囲碁年鑑」がある。入門者向け雑誌として「囲碁未来」、週刊誌として「週刊碁」がある。発足当初は銀座に仮事務所を置き、1925年12月に永田町の溜池に会館を建設。1920年5月の空襲で溜池は消失し、終戦後は柿の木坂の岩本薫宅を仮事務所とし、1948年に高輪のビルを購入して会館とした。1954年に東京駅八重洲口の国際観光会館ビルに日本棋院中央会館を開館(1991年に八重洲囲碁センターに改称移転、2013年に有楽町に移転し有楽町囲碁センターとなっている)。1971年に千代田区の市ヶ谷駅前に本院を移転した。大阪市にあり、近畿地区、広島、岡山両県を統轄する。1950年(昭和25年)に関西棋院が独立した際に、日本棋院残留派によって同年発足した。2008年(平成20年)2月現在、山田規三生・井山裕太など棋士39名が所属する。名古屋市にあり、中部地区と三重県を統轄する。1940年(昭和15年)設立の日本棋院東海支部から、1948年(昭和23年)に日本棋院東海本部に昇格、1955年(昭和30年)に日本棋院中部総本部となる。2008年(平成20年)2月現在、羽根直樹・羽根泰正・山城宏など棋士43名が所属する。独自のタイトル戦として王冠戦がある。(2016年現在)
出典:wikipedia
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