ボストン交響楽団(ボストンこうきょうがくだん 略称:)はアメリカ合衆国、マサチューセッツ州・ボストンを本拠とするオーケストラ。「(")」の1つとされる。タングルウッド音楽祭のレジデンス・オーケストラでもある。19世紀後半に主流だったシューボックス(靴箱)型コンサートホールの一つとして名高いシンフォニーホールが本拠地である。1881年、ヘンリー・リー・ヒギンスンにより創立された。ボストン交響楽団は歴史的に、ジェームズ・レヴァインを除いて外国の著名な指揮者を首席指揮者や客演指揮者に迎えており、ハンス・フォン・ビューローとの共演でチャイコフスキーの《ピアノ協奏曲 第1番》の世界初演を行なった事は有名。1889年から1893年までアルトゥール・ニキシュ、1919年から1924年までピエール・モントゥーが首席指揮者を務めた。モントゥーの指導のもとで弦楽奏者が「フランス的」な音色を覚え、その伝統がある程度今日まで続いているという。歴史的な大ヴァイオリニスト、ヴィリー・ヘスが、1904年から1910年までコンサートマスターを務めた事がある。セルゲイ・クーセヴィツキーを首席指揮者に迎えてから、今日の世界的な知名度が築かれ、ラジオ放送に定期的に出演し、夏季の活動拠点を州西部のバークシャー郡・タングルウッドに定め、タングルウッド音楽祭を開催するようになった。1949年にはクーセヴィツキーの後任としてシャルル・ミュンシュが就任した。ミュンシュはその情熱的で豪快な音楽づくりで人気を博し、ボストン交響楽団はミュンシュの指揮によってRCAに大量の録音をおこない、世界的な名声を不動のものにした。ボストン交響楽団の初めて海外公演もミュンシュ時代のことであったし、その初来日公演もミュンシュの元で実現している。ミュンシュ指揮ボストン交響楽団の代表的な録音には、ベルリオーズの幻想交響曲、サン=サーンスの交響曲第3番、ラヴェルの管弦楽曲集などがある。ミュンシュの後任は、1962年よりエーリヒ・ラインスドルフが務め、1969年にウィリアム・スタインバーグに後を譲った。1973年より音楽監督に迎えられた小澤征爾は、その情緒的な表現様式によってたちどころにボストン市民を魅了し、市中で最も愛される音楽家となった。2002年まで留任し歴代のボストン響の指揮者の中で最も任期の長い指揮者となった。小澤の後任はジェームズ・レヴァインとなり、2004年からレヴァインはアメリカ生まれのアメリカ人として初めてボストン響の音楽監督となった。レヴァインの任期が始まって以来、現代音楽作曲家を含むレパートリーと品質を蘇らせることで、レヴァインは賞賛を受けた。レヴァインの任期中、2009年2月までに18の世界初演を行ったが、そのうち12はレヴァインの指揮であった。しかしレヴァインは健康問題から2011年9月1日をもって辞任し、2014年からはアンドリス・ネルソンスが音楽監督に就任している。ネルソンスは2011年3月に、カーネギーホールで行われたマーラーの交響曲第9番の演奏会において、レヴァインの代役として初めてボストン響を客演指揮した。その後2012年7月にタングルウッドで、2013年1月にはシンフォニー・ホールで初めて客演した。2013年5月にボストン響は、ネルソンスを15代目の音楽監督として発表し、2014年から就任することとなった。ネルソンスとの契約は当初5年であったが、2015年8月にボストン響は、自動更新を含む8年契約となったと発表し、2022年まで任期が延びることとなった。ボストン・ポップス・オーケストラは1885年に併設され、こちらは軽音楽やポピュラー音楽を専門としている。1930年からボストン・ポップス初のアメリカ育ちのアーサー・フィードラーが第18代指揮者に就任。それから50年間もボストン・ポップスを広める貢献をした。後任に、映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズが1980年から1993年までの間、音楽監督に就任。1995年には35歳の若手指揮者キース・ロックハートが第20代指揮者に就任している。250名ものボランティアの歌手から構成されたタングルウッド音楽祭合唱団は、1970年にジョン・オリヴァーにより設立され、ボストン交響楽団やボストン・ポップス・オーケストラと共演を重ねている。ちなみに日本人として初めてこの楽団を指揮したのは作曲家大澤壽人である。
出典:wikipedia
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