荷田 春満(かだ の あずままろ、寛文9年1月3日(1669年2月3日)- 元文元年7月2日(1736年8月8日))は、江戸時代中期の国学者・歌人。通称は、斎宮(いつき)。初名は信盛と称し、のちに東丸。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人とされる。荷田春満の父は伏見稲荷神社(現在の伏見稲荷大社)の社家で御殿預職の羽倉信詮(はくら のぶあき)であり、母は細川忠興の家臣深尾氏の娘貝子である。荷田春満は契沖の『万葉代匠記』などを学び、国家意識を強くして古典及び国史を学び古道の解明を試みた結果、『万葉集』『古事記』『日本書紀』や大嘗会の研究の基礎を築き、復古神道を提唱するなどの業績を残した。享保13年(1728年)には、著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じて、将軍・徳川吉宗に国学の学校建設の必要性を訴えた。荷田春満の弟子に、賀茂真淵がいる。荷田春満の著述は、業半ばで倒れたため未定稿のものが多い。主な著書に『万葉集僻案抄』『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』などがある。なお、京都市伏見区の伏見稲荷大社境内に隣接する東丸神社は学問の神様で知られ、合格祈願の絵馬や折鶴が奉納されている。寛文9年に京都において神官の子として生まれる。元禄10年(1697年)より妙法院宮尭延法親王(霊元天皇第五皇子)に仕官したが、元禄12年(1699年)に暇をもらい、元禄13年(1700年)3月には勅使として江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して一緒に江戸下向した。経光卿は役目を終えると早々に帰京したが、春満はそのまま江戸へ残らせてもらい、江戸の武士たちに歌学や神道の教授を行うようになった。この江戸滞在中に赤穂浪士に吉良義央在宅確実の日である茶会の日を教えたという(詳しくは後述)。また江戸滞在中に長岡藩牧野家によく教授に行った関係で長岡藩主牧野忠辰より五人扶持を支給された。正徳3年(1713年)4月には一度帰京しているが、10月には江戸へ戻る。その後もしばしば帰京・江戸下向を繰り返す。江戸滞在中の享保8年(1723年)に将軍・徳川吉宗に招かれて幕臣となり、享保12年(1727年)まで仕えたが、胸の病に罹り、享保13年には養子の荷田在満に家督を譲った。享保15年(1730年)には中風にかかり、元文元年(1736年)に死去した。赤穂事件で有名な大石良雄とは旧知の友人であったといわれてきたが、一面識もなかった。大石は吉良家へ行っていた春満から吉良邸茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出してこの日を討ち入り決行の日と定めたとされてきたが、事件当日に堀部金丸宅で大石良麿・良穀兄弟より春満からの情報を聞いたとき初めてその名を知った。それも、来客が泊まるようなので討ち入りは延期したほうがよいという情報だった。昭和3年(1928年)から昭和7年(1932年)にかけ、当時の官幣大社稲荷神社編により吉川弘文館で『荷田全集』全7巻が刊行された。平成2年(1990年)に名著普及会で復刻されている。昭和19年(1944年)に同じく稲荷神社により『荷田春満全集』(全10巻)が企画されたが、当時の情勢により第4.5.6.10巻のみ東京の六合書院で刊行された。吉川版も未完結であった。近年、國學院大學の百二十周年記念事業の一環として、文学部教授の根岸茂夫を代表に「近世国学の展開と荷田春満の史料的研究」の企画が立ち上がり、平成15年(2003年)6月より『新編荷田春満全集 (全12巻)』が、おうふう(旧名は桜楓社)で刊行開始、平成22年(2010年)2月に完結した。
出典:wikipedia
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