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国道15号

国道15号(こくどう15ごう)は、東京都中央区の日本橋から神奈川県横浜市神奈川区の青木通交差点へ至る一般国道である。京浜地区においては「第一京浜」あるいは「一国(いちこく)」などと呼ばれる(区間の詳細は後述)。なお、本稿においては明治時代の明治1號國道(めいじいちごうこくどう)についても併記する。国道15号は、五街道の一つである東海道の日本橋 - 神奈川間とほぼ同じ位置にある国道であり、明治1號國道の日本橋 - 神奈川間にも相当する。芝五丁目交差点以西の区間は毎年1月開催の東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースともなっている。1885年(明治18年)のにより、国道15号の前身である明治時代の「1號國道」が指定される。明治の1号国道は、日本橋から横浜港に至る国道であった。日本橋から神奈川までの区間は現在でも残っている旧東海道と同じであり、神奈川から先は万里橋を渡り官設鉄道に平行し初代横浜駅前から、現在の国道133号を経て横浜港までの道路と同じである。この1号国道は、通称「京濱國道」と呼ばれる。大正時代になると京浜国道の交通量が増大し、それに伴い交通事故の問題も多くなる。これらの交通問題に対処するため、東京府と神奈川県が品川の八ツ山橋から神奈川の青木橋までの改築をする計画となり、八ツ山橋から生麦まで改築が行われた。その後、帝都復興院が生麦から表高島までを改築し、八ツ山橋から表高島に至るまでの、距離約22.5km・総工費約1293万円(当時金額)となる改築がおこなわれた。まず、神奈川県が1918年(大正7年)6月に「1號國道改修事務所」を設置し、同年7月に六郷橋から生麦までの区間の工事が着手され、東京府が1920年(大正9年)6月1日に「國道改修事務所」を設置し、八ツ山橋から六郷橋までの工事が着手される。そして、1925年(大正14年)8月3日に六郷橋と六郷橋から生麦までの区間が完成、1927年(昭和2年)11月28日に八ツ山橋から六郷橋までの区間が完成する。なお、1919年(大正8年)と1921年(大正10年)に幅員を広くする工事変更を行っている。改築費用は東京府と神奈川県が負担だが、内務省土木局の道路改良費から改築費用の2分の1、六郷橋は3分の1を補助を受けている。その後、1923年(大正12年)9月28日に関東大震災の復興事業とされ、帝都復興院が1924年(大正13年)に生麦から表高島までの区間の改築に着手し、1930年(昭和5年)10月の京浜国道の改築完成となる。この京浜国道の改築は、改築と同時に鉄道との交差の全てを立体交差とする計画であり、電柱も全て排するとしていた。しかし、京浜電気鉄道本線との鈴ヶ森での交差、京浜電気鉄道大師線との六郷橋南詰での交差は立体交差にする工事が行われたが、京浜電気鉄道本線との八ツ山橋での併用軌道、および、京浜電気鉄道穴守線や海岸電気軌道との交差は平面交差のままとなり、電柱も排されることが無かった。立体交差の計画において、東京府や神奈川県、内務省、鉄道省の無計画さにより平面交差の箇所が残ることになり、せっかく巨費を投じての改築が意味を成していない結果となる。また、電柱を排することについても、逓信省が例外を認めたために警視庁から例外を要求され、そして、東京電燈や東京市電気局など次々と要求が拡大していく結果になる。先の立体交差の問題に加え、その後のさらなる交通増加や交通事故の増大により京浜国道改築完成後、わずか数年で新たな道路計画することに至る。まず、東京府と神奈川県により東京府道下大崎川和線・神奈川県道都田下大崎線、及び東京府道大森大師河原線・神奈川県道田島羽田線などを整備して対策するが、内務省は抜本的に解決するための新しいバイパスとして、「新京濱國道」を建設することになった。(右の「表示」を押す)(右の「表示」を押す)

出典:wikipedia

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