アンドレア・デ・チェザリス("Andrea De Cesaris" 、1959年5月31日 - 2014年10月5日)は、イタリア出身の元レーシングドライバー。クラッシュが多いことを揶揄され、「壊し屋」、また壊し屋(Crasher)と姓(Cesaris)を掛けて、「クラッシャリス(Crasheris)」と呼ばれることもあった。2008年現在、F1において、未勝利者では「歴代最多出走回数(208回、歴代出走回数では8位、2011年シーズン終わりの時点)」である。また、リタイア総回数・連続リタイヤ数も第1位である(生涯完走率は34.1%にすぎない)。マールボロからの個人スポンサーを受けていたことから、シートに困らなかったことも、ずっと同じようなドライビングを繰り返していた原因の一つと言われる。後には下位チームに在籍することが多くなり、マシンの信頼性が低く、苦戦したことも起因するという意見もある。キャリア15年で延べ12チームに在籍し、移籍の多いF1キャリアだった。公道コースを得意としていた。フィリップモリス重役の息子という裕福な環境に育ち、若いころからマールボロのサポートを受ける。世界レーシングカートチャンピオン獲得後、F3、F2にも参戦。1980年第13戦カナダグランプリにて、マールボロがメインスポンサーであるアルファロメオからF1デビュー。予選8位につけたが、決勝はエンジントラブルでリタイヤ。続く最終戦アメリカ東グランプリでは、クラッシュにより序盤にリタイヤと、この年の完走は果たせなかった。アルファロメオ同様、メインスポンサーがマールボロのマクラーレンへ移籍。第3戦アルゼンチングランプリにて11位初完走を果たし、続く第4戦サンマリノグランプリで6位に入り、初入賞を記録した。しかしシーズンを通すと、全15戦中リタイヤ8回と多くのリタイヤを喫し、第12戦オランダグランプリでは予選13位ながら決勝に出走できなかった。また、高額なカーボンモノコックを初めて採用したマクラーレン・MP4/1をデ・チェザリスがクラッシュで何台も大破させたことが、ロン・デニスの逆鱗に触れ、1シーズン限りで解雇された。この年はランキング18位となった。デビューチームであるアルファロメオへと復帰。公道コースの第3戦ロングビーチグランプリでは、当時の最年少記録(現在では歴代5位)でPPを獲得したが、獲得が判明した時点から極度に緊張し、コックピットから出ることができず、チームがデ・チェザリスに対してブランデーと髭を剃るようにとシェーバーをプレゼントして祝福することにより、出走することができた。決勝では1位走行中に周回遅れのラウル・ボーセルに対して、邪魔だと右手の拳を上げ抗議したところ、シフトアップを忘れ、その隙にニキ・ラウダに抜かれ、勝利を逃した(デ・チェザリスは2位走行中、ブレーキトラブルによるクラッシュで壁に衝突しリタイア)。その後、第6戦モナコグランプリで3位に入り、初の表彰台を獲得。第7戦デトロイトグランプリでは予選2位に付ける(決勝はリタイヤ)など、公道コースで見せ場を作っていた。しかし、結果的には16戦中10回のリタイヤを喫し、入賞は上記のモナコグランプリと、第8戦カナダグランプリでの6位のみとなった。ランキングは17位。開幕戦ブラジルグランプリにて、いきなり予選で失格処分を受ける。しかしその後は予選で3位グリッド、決勝で2位表彰台をそれぞれ2度獲得した。また第6戦ベルギーグランプリでは、自身初のファステストラップを記録している(獲得の早さは歴代6位)。入賞は2度の2位のほか4位1回であり、ランキングで8位となった。しかしこの年も、14戦中9回と多くのリタイヤを喫していた。その後何年経ってもクラッシュやリタイヤが減らなかったことから、デ・チェザリスのイメージは次第に「荒いが速い」から「速いが荒い」に変化していくことになる。1984年からはリジェに移籍。序盤に5位・6位各1回ずつの入賞を果たすが、その後は入賞できず、ランキング16位。この年は16戦中9回のリタイヤであった。残留したものの、開幕戦ブラジルグランプリから3連続リタイヤ。得意とする公道の第4戦モナコグランプリで3位に入り、ここから3連続完走となるが、以後は再びリタイヤを連発。特に第9戦ドイツグランプリ・第10戦オーストリアグランプリと連続でクラッシュによりマシンを大破させたことが、オーナーのギ・リジェの逆鱗に触れ、第11戦オランダグランプリをもって解雇。このレースでも5戦連続かつシーズン8度目のリタイヤを喫した。ランキングは17位。1986年はミナルディから参戦するが、競争力が低く、本来得意とする第4戦モナコグランプリでは予選落ち。またモトーリ・モデルニ・エンジンの信頼性は皆無であり、決勝進出した15戦中、10戦連続を含む計14度のリタイヤを喫した(同僚のアレッサンドロ・ナニーニも完走は1回のみだった)。唯一完走した第15戦メキシコグランプリも8位であり、この年はノーポイントに終わった。1987年はブラバムに移籍、第3戦ベルギーグランプリでは、残り1周で燃料切れを起こしながらも3位表彰台を獲得した。4年ぶりに表彰台に立つが、以後12戦連続リタイヤ。結果的に計14回のリタイヤを喫した。ランキングは14位。新規参入のリアルに移籍。公道の第6戦デトロイトグランプリで4位に入り新チームに3ポイントをもたらす。第9戦ドイツグランプリでも速さを見せる一幕もあったが、最終的には16戦中11回のリタイヤとなった。ランキング15位。スクーデリア・イタリアに移籍。雨の第6戦カナダグランプリでは3位表彰台を獲得した。入賞は1度のみでランキング16位ながら、この年は決勝に進出した15戦中リタイヤは6度となり、参戦10年目・フル参戦9年目にして、初めて完走したレースが半数を超えた。しかし第5戦アメリカグランプリでは、2位を走行していたチームメイトのアレックス・カフィと接触し、カフィをリタイヤに追い込む一幕もあった。1990年は開幕戦アメリカグランプリで予選3位となるが、決勝はリタイヤ。その後も計16戦中、5戦連続を含む12回のリタイヤ・各1度の失格・予選落ちと結果を残せなかった。完走した2回中、最高位は10位であり、4年ぶりのノーポイントに終わった。1991年は新規参入のジョーダンに移籍した。この年のデ・チェザリスは、安定した走りを見せ、第4戦グランプリでの予選10位、第5戦カナダグランプリからの連続入賞など、シーズンを通じ4度の入賞を果たしチームの躍進に貢献した。特に第11戦ベルギーグランプリでは一時2位を走り、トップのアイルトン・セナの背後にまで迫ったが、エンジンブローで走りきることは出来なかった。この年は6度のリタイアがあったが、そのうち5度はマシントラブルであり、ドライブミスによるリタイアは日本グランプリのみだった。ランキングは9位。ティレルに移籍した1992年も、チームメイトのオリビエ・グルイヤールが1ポイントも獲得できなかったのに対し、デ・チェザリスは計8ポイントを稼ぎ、チームをランキング6位に導いた。自身のドライバーズランキングは9位。リタイヤは16戦中8戦あったが、うち6戦はマシントラブルによるものであった。残留したものの、3年落ちのマシンに苦しみ、低位置に喘ぐこととなる。第9戦イギリスグランプリから新車021が投入されるも、状況は変わらず。リタイヤ8回・失格1回・周回不足1回で完走は6度のみであり、最高位は10位と3年ぶりのノーポイントに終わる。リタイヤしたレースのうち、アクシデントによるものは2度のみで、大半はマシントラブルだった。チームメイトの片山右京もノーポイントであり、水タンク事件で全ポイントを剥奪された1984年を除けば、ティレルチームは創設初年度の1970年以来のノーポイントだった(この際は終盤3戦に参戦したのみ)。第4戦モナコグランプリには、出場停止処分を受けていたエディ・アーバインの代役としてジョーダンから参戦、急遽出走したにもかかわらず4位に入り、ストリートコースでの強さを発揮した。その後第6戦カナダグランプリより、モナコグランプリで負傷したカール・ヴェンドリンガーの後任としてザウバーからレギュラー参戦、第7戦フランスグランプリでは6位に入賞した。ただしその後はリタイヤが続き、第14戦ヨーロッパグランプリが最後のF1となった。引退後は、為替トレーダーとして成功を収めていた。2005年、往年の名選手達を集めて行われた第1回グランプリマスターズ大会に出場、4位の成績を収めている。2014年10月5日、ローマの環状道路でオートバイ事故のため死去、享年56(満55歳没)。フィリップモリスの重役の息子であったことから、一貫してマールボロのサポートを受けていたが、唯一1993年だけはレーシングスーツにマールボロのロゴが入らなかった。これは同年に在籍したティレルのチームメイト片山右京が日本のJT(日本たばこ産業)をスポンサーとして持ち込んでおり、CABINブランドとのバッティングを避けるためであった。(このころは日本においてはマールボロの製造・販売はJTが行っていたことも注記しておく。)しかし、この年チェザリスはマールボロのサポートが止まった訳ではなく、ロゴの掲出は控えながらもチームへのスポンサーフィーの持ち込みは行なっていた。スポンサーバッティングの解消した翌年以降は、再度マールボロのロゴを付けたレーシングスーツ・ヘルメットを着用していた。
出典:wikipedia
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