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野間大坊

野間大坊(のま だいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。詳しくは鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。『大御堂寺縁起』には、天武天皇の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられる。その後空海が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれる。寺に伝わる室町時代の天文3年(1534年)の再興勧進帳に記載された縁起によると、承暦年間(1077年~1081年)に白河天皇の勅願寺となり、このとき「大御堂寺」と称せられたという。以上の伝承には確証はなく、創建の正確な時期等は未詳である。『吾妻鏡』文治2年閏7月22日(1186年9月7日)条には、義朝の墓に関する次のような記述がある。平康頼(『平家物語』の「鹿ケ谷の陰謀」の登場人物として著名)は尾張守として任地にあった時、野間庄にある義朝の墓が、守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていたので、小堂を建て、田三十町を寄進し、僧6名を置いて供養に当たらせた。義朝の子である頼朝はこの功績に応え、康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたという。同建久元年10月25日(1190年11月24日)条には、上洛途上の頼朝が、この日、野間庄にある父・義朝の墓に詣でたことが記されている。荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な寺が建ち、供養されていることに感心した。寺伝ではこの時に頼朝が父の菩提のためを寄進を行い、伽藍を整備し、自らの守本尊である地蔵菩薩像を安置したという。時代が下ると、豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受けてさらに発展、現在に至る。現在、頼朝が造営させたという大門や、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の寄進による梵鐘などが現存している。梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財に指定されている。平成23年(2011年)12月2日に、富山大学の調査により所蔵の来迎阿弥陀像が鎌倉時代の快慶によって作られた可能性があると発表された。平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で入浴中の義朝を欺し討つ。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。野間大坊にある義朝の廟には、この故事に因んで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている。また境内には義朝の首を洗ったとされる「血の池」があり、国に異変があると、池の水が赤く染まると言う伝説がある。境内東寄りに大門、その正面に本堂があり、境内西寄りに客殿(本殿とも)がある。知多四国八十八箇所霊場の札所としては、本堂が「大御堂寺」(50番札所)、客殿(本殿)が「野間大坊」(51番札所)とされている。境内には義朝の墓のほか、義朝の家臣・政清夫妻の供養塔、寺を整備した平康頼の供養塔があり、豊臣秀吉に敗れて当寺で自害した織田信孝の墓もある。愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ヶ50番地

出典:wikipedia

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