瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)12月7日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。1903年富山県婦負郡寒江村大塚(現富山市)に3人姉弟の長男として生まれる。家は祖父の代から医者であったので長男であった修造は当然家業を継ぐものとして期待されていた。だが、それに反するかのように本人は子供の頃から大の学校嫌いでよく家の大黒柱につかまっていたという。ある日父の勤めている病院に連れて行ってもらい、実際の手術の現場を見せてもらったところ、あやうく卒倒しかける。その帰りの食堂で、父に医者にはなりたくない、と言うと父は黙って微笑んでいた。その数日後、父は急死した。1921年富山県立富山中学校(現富山高校)卒業後、受験準備を理由に上京するも、1922年母たき急死。医学部進学を断念。日進英語学校に通う。1923年4月慶應義塾大学予科に入学するも講義より図書館でウィリアム・ブレイクなどを原書で読むことのほうが多くなる。関東大震災被災後の12月に大学を退学。持っていた文学書等を売り払い、文学を「清算」して姉のいる北海道小樽市に身を寄せる。ブレイクの「無垢なイノセンス」に触発され、そこで小学校教員でもやり一生を過ごそうと思うが、どうしてもなれなかった。姉と一緒に小さな手芸品店を開こうと模索するも、姉や身内の強い説得にあい、1925年、慶應義塾大学文学部に再入学。1926年、友人永井龍男らのすすめで同人誌「山繭」に参加。同人には小林秀雄などがいた。イギリスオックスフォード大学から帰国した西脇順三郎に卒業までの間5年間教わる。西脇から瀧口は西洋の最新のモダニズム詩の運動のことを聞き、また西脇の自宅でダダイスムやシュルレアリスムを知り、アルチュール・ランボー、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールなどを原書で読み、次第に影響を受ける。1927年には西脇を中心にシュルレアリスム詩「馥郁タル火夫ヨ」(アンソロジー)刊行。1928年『山繭』に詩編「地球創造説」を発表。同人間に衝撃を与えた。同年、上田敏雄、上田保 (英文学者)、北園克衛、山田一彦、冨士原清一、三浦幸之助らで「衣裳の太陽」発刊、また詩雑誌「詩と詩論」同人となる。1929年、「シュルレアリスム・アンテルナショナル」を提唱するも一冊のアンソロジーで終わる。1930年にはアンドレ・ブルトンの「超現実主義と絵画」を翻訳。この本は、日本における本格的なシュルレアリスムの最初の文献である。これにより瀧口は日本におけるシュルレアリスムの権威として美術批評などで徐々に名を広めていく。1931年、慶應義塾大学英文科卒業。翌年、PCL映画製作所(現在の東宝)に入社。日本で初のスクリプター(記録係)となり、数年間一労働者として働く。1935年、妻・綾子と結婚。1938年、阿部芳文、永田一脩、今井滋、田中雅夫らとともに前衛写真協会を結成。『みづゑ』誌上で「マルセル・デュシャン(調革の論理)」を発表。1941年には、その前衛思想が危険視され、シュルレアリスム系の画家である福沢一郎とともに、治安維持法違反容疑で特高に逮捕され、警視庁杉並警察署に留置を受け、8ヶ月間にわたりシュルレアリスムと国際共産党の関係を糾問される(起訴猶予のまま釈放)。この逮捕により、戦前の日本のシュルレアリスムは終息に向かった。戦後は主に評論家として活躍。実験工房を主催するとともに、美術評論を数多く著し、戦前に引き続き、旺盛な活動を行った。マルセル・デュシャンやアンドレ・ブルトンを始めとする海外の作家とも交流を持った。国際文化振興会の嘱託となる。1950年代以降、神田駿河台の「タケミヤ画廊」にて多くの企画展を開催。また、読売アンデパンダン展の企画運営にも関与し、当時の新進の芸術家に自由な表現の場を提供する。これらの活動などにより、1950年代から1960年代にかけて、当時の芸術家の卵たちに絶大な信頼を受けることとなる。1952年に国立近代美術館運営委員。1959年に欠席した美術評論家連盟の総会で会長に選ばれ2期務める。1960年ごろより、創作活動を再開。デカルコマニーの制作もおこなった。1979年に死去。瀧口の所持していた一万点に及ぶ美術資料は、多摩美術大学にて瀧口修造文庫として保存されている。
出典:wikipedia
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