シルクジャスティスとは日本の競走馬である。1997年の有馬記念などに勝利した。従兄弟に同期同馬主で皐月賞2着のシルクライトニングがいる。※馬齢は当時の表記(数え年)にて記載する。シルクジャスティスは3歳の10月、京都の新馬戦でデビューしたがなかなか勝てず、初勝利までに5か月、7戦を要した。デビューから8戦目の毎日杯で3着に入ると、続くオープン特別の若草ステークス、京都4歳特別を連勝し、日本ダービーへと駒を進めた。なお、京都4歳特別からジャスティスの引退レースになる2000年の金鯱賞まで藤田伸二が騎乗することになる。日本ダービーで2番人気に支持されたジャスティスは後方から鋭く追い込むレース振りで、サニーブライアンの2着に健闘した。秋は初戦の神戸新聞杯こそ8着に終わったが、続く京都大賞典ではダンスパートナー相手に勝利をおさめ、菊花賞の有力候補に挙がった。だが、菊花賞では1番人気に推されながら5着に敗れ、続くジャパンカップでも5着に終わり、掲示板には載るものの勝てないレースが続いた。しかし、1997年12月21日の有馬記念でマーベラスサンデー、エアグルーヴとの叩き合いを制し、初のGI制覇を果たす。それまでのGIでは惜敗続きだったが、藤田はずっと「この馬が一番強い」と信じ続け、その想いが実った勝利となった。1998年、5歳になったジャスティスは阪神大賞典から始動。メジロブライトとの叩きあいでハナ差敗れるも2強と目されるようになる。そして、春の天皇賞ではメジロブライトを抑え単勝1番人気に推されるが、直線で伸び切れず4着に敗れた。宝塚記念でも6着に終わったジャスティスは、秋は京都大賞典3着からGI3連戦に挑んだが、秋の天皇賞は8着、ジャパンカップも8着、有馬記念も7着と掲示板にすら載れずに終わった。1999年、6歳になったジャスティスは日経新春杯6着、阪神大賞典4着を経て、春の天皇賞に挑んだが、前年同様4着に終わってしまう。その後、ジャスティスは左前脚の球節を疲労骨折してしまい、約1年間休養することになる。1年後の2000年5月27日、ジャスティスは金鯱賞で復帰したが、11着と殿負けを喫し、このレースを最後に現役を引退した。エリモダンディーはシルクジャスティスと同じくブライアンズタイムを父に持ち、同じ年に同じ大久保正陽厩舎に入厩した黒鹿毛の牡馬である。エリモダンディーは馬体重が400キログラムにも満たない小さな馬で気が弱く、牧場にいた頃には他の馬にいじめられたことがあり、他馬を怖がる馬だった。栗東にやって来てからも、他馬に威嚇されても抵抗できないでいたのだが、シルクジャスティスはそんな現場を見ると駆けつけてエリモダンディーを庇ってやっていた。そんなことが続くうちにエリモダンディーはシルクジャスティスを慕うようになり、いつもシルクジャスティスの後ろをついて回るようになった。この2頭は併せ馬のパートナーでもあり、普段は調教をさぼりたがるシルクジャスティスもエリモダンディーとの併せ馬だけは真剣に走っていたそうである。だが、エリモダンディーは1998年2月に腸捻転で死亡、シルクジャスティスにとっては併せ馬のパートナーと弟分を同時に失うことになってしまった。これがシルクジャスティスの低迷の始まりとほぼ同時期だったことから、「エリモダンディーがいなくなったから勝てなくなった」とするファンもいる。シルクジャスティスは2001年から優駿スタリオンステーションで種牡馬入りし、2004年に初年度産駒がデビューした。年平均50頭程度に種付けをしていたが、散発的に地方競馬の重賞勝ち馬を出すにとどまっていた。2006年からは新ひだか町の畠山牧場に移動し、畠山牧場の繁殖牝馬を中心に毎年一桁程度の種付けを行っていたが、2010年の種付けシーズン終了後に種牡馬を引退した。現在も畠山牧場にとどまって余生を送っている。なお、ジャスティスが種牡馬引退後にバシケーンが中山大障害を制覇し、産駒の中央競馬重賞およびJ・GI初勝利となった。
出典:wikipedia
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