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遠野物語

『遠野物語』(とおのものがたり)とは、柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記、編纂する形で出版され、『後狩詞記』(1909年)『石神問答』(1910年)とならぶ柳田國男の初期三部作の一作。日本の民俗学の先駆けとも称される作品である。遠野物語における遠野、あるいは遠野郷とは、狭義には藩政時代の旧村が明治の町村制によって編制された遠野、松崎、綾織、土淵、附馬牛、上郷、を指すが、広義には上閉伊郡宮守村、釜石市橋野町、上閉伊郡大槌町、下閉伊郡川井村などの隣接地域も含まれ、その地で起きたとされる出来事も取り上げられている。内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、臨死体験、あるいは祀られる神とそれを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡る。作成過程で3つの原稿が存在し、佐々木の話を都度書き記すかたちで作られた草稿にあたる毛筆本、実際に遠野に赴き、自ら得た見聞を加えて人名、地名、数字などの事実関係を補完して作られた清書本。毛筆本の段階では107話であったが清書本の段階で12話が追加され119話となった。そして清書本をもとに初稿が印刷され、初稿を再考し、一部伏字となっていた固有名詞などに手を加えられ完成本となった。これら3つの原稿は、長野県松本市で政治家を務めていた池上隆祐が昭和7年に『石神問答』の刊行に対する記念として『石』の特集号を発行した際、折口信夫、金田一京助らの署名を入れた特装本を柳田へ贈った事に対する謝礼として柳田より池上へ贈られた。池上の没後に遺族より遠野市へ寄贈され、それ以降は遠野市立博物館が保管している。『遠野物語』の反響により、昭和10年(1935年)には各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表された。『遠野物語下染め』および『佐々木喜善先生とその業績』によると、柳田が水野葉舟の仲立ちで佐々木喜善と初めて会ったのは明治41年(1908年)11月4日。学校から帰宅した佐々木の所に水野が訪れ、連れ立って柳田を訪ね、遠野物語に関する話をして帰ったと佐々木の日記に記録されている。13日には柳田が佐々木の下宿を訪れ前回の聞き取りに加筆を加え、18日には再び水野と佐々木が柳田を訪ねて夜更けまで聞き書きが行われた。25日付けの佐々木へ宛てられた柳田の手紙には12月以降も2日に会いたいという内容が記載されていることから、佐々木が翌年1月から3月まで遠野へ帰郷した期間はあるが、初夏までの間に月に1度程度の頻度で数回行われたであろうことは、明治42年4月28日に柳田邸で行われた「お化け会」の記事からも推測される。序文の日時と事実に相違があるが、これは記憶違いではなく、詳細は不明であるが同時に進行していた『後狩詞記』の刊行の後に位置づけたかったとの柳田の考えがあったのではなかろうかと考えられている。柳田國男が初めて遠野を訪れたのは明治42年(1909年)8月23日の夜のこと。8月22日(日曜日)午後11時、上野発海岸回り青森行きの列車に乗った柳田は、翌23日に到着した花巻駅で下車。人力車に乗り換え、矢沢村、土沢、宮守、と経て鱒沢の沢田橋のたもとにあった木造三階建ての宿屋で食事と人力車を乗り継ぎ、遠野に到着したのは夜の8時であった。柳田は遠野では高善旅館に宿をとり、主人の高橋善次郎から馬を借りて伊納嘉矩や佐々木喜善を訪ね、南部家所縁の地などを回ったが、これらの日程には諸説存在しており、定説があるわけではない。ここでは便宜上、岩崎敏夫による説を主として解説を行う。24日の朝、鍋倉神社近くにあった上閉伊郡役所を訪ね、郡内の説明を地図を貰いうけ、まず土淵村山口の佐々木喜善宅を目指した。あいにく喜善は東京にいたため不在で、家には養母のイチと叔母のフクヨがおり、柳田は来意を伝えると、二人から土淵村で助役を務めていた北川清を紹介された。来た道を1kmほど戻り、訪れた北川家で清より話を聞き、翌日、清の代わりに附馬牛小学校で教員を務めていた息子の真澄が附馬牛まで柳田の案内をすることになった。その日の晩には新屋敷まで伊納嘉矩を訪ねているが伊納は不在であった。25日、北川真澄の案内で早池峰山道を通り附馬牛に辿り着いた柳田は上柳の附馬牛役場を訪れ、役場書記の末崎子太郎と附馬牛小学校から呼び寄せられた福田恵次郎の二人より附馬牛村の成り立ちや歴史について聞き、附馬牛の源流のひとつである東禅寺跡へと案内された。帰りは石羽根から大袋を通り、その道すがら菅原神社でしし踊りが行われているのを目撃し、また掲げられたムカイトロゲに旅情を感じ、忍峠へと入っていった。宿に戻ると伊能が訪ねてきたという事であったが、附馬牛を発った時点で黄昏時であったので宿に着いたのは夜の8頃と推測され、既に遅い時間であった事からこの日はそのまま休む事にした。26日には先日宿を訪ねてきた新屋敷の伊能の家を訪問し、伊能の台湾研究に関する研究資料、および『阿曾沼興廃記』や『旧事記』といった遠野に関する資料、オシラサマや雨風祭の藁人形、あるいは遠野周辺に伝わる妖怪に関する伝承や住人達の生活の在り方を聞いた。27日に伊能は高善旅館まで再び出向き、柳田を南部男爵邸へ案内し、屋敷の保守にあたっていた及川忠兵、郷土資料家の鈴木吉十郎の案内で男爵家に伝わる古文書や受け継がれてきた宝物を見た。その後、昼過ぎに人力車に乗り、来たときとは異なり下組町から愛宕橋を渡り、綾織村の小峠を越えて日詰街道を盛岡へ向かった。後の『現代随想全集』で「帰りに横手から五色温泉に遊ぶ」と述懐されていることから、盛岡から秋田へ行き、帰京したのは31日とされている。上記の説のほか、遠野に到着した翌日の24日にまず伊能を訪ねたとする説。山口の佐々木家を訪問し「土淵村山口から附馬牛に出る時でした。あそこは南部公の寺があるんで、それを見に行ったのです。ちょうどシシ踊りなんかしてました」という『民俗学と岩手』における記述から、土淵から附馬牛へ向かったと推測し、一連の行程は25日に行われたとする説。当時の柳田の立場を考慮すると郡役所に立ち寄って何もなく送り出されるのは不自然であるとし、郡役所に立ち寄る事は無かったとする説。あるいは遠野を離れたのは26日であったとする説などが存在する。1910年6月、350部が印刷者は今井甚太郎、印刷所は杏林舎で、発行所は無く自費出版として刊行された。これらは『後狩詞記』と同じであるが、売捌所として聚精堂(田中増蔵)が挙げられ販売されている。第1号は佐々木へ贈られ、2号は柳田本人用であった。柳田の前著である『石神問答』は、難解だったためかあまり売れ行きが芳しくなかったのに対し、『遠野物語』は僅か半年ほどで印刷費用をほぼ回収できた。200部は柳田が買い取り知人らに寄贈し、寄贈者では島崎藤村や田山花袋、泉鏡花が積極的な書評を書いた。『遠野物語』を購読した人たちには作家に芥川龍之介や南方熊楠、水野葉舟らがおり、ニコライ・ネフスキー、柴田常恵、小田内通敏など学者にも購読者がいる。特に芥川は本著を購入した当時19歳であったが、親友に宛てた書簡に「此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ大へん面白く感じ候」と書き綴っている。当時はあくまで奇異な物語を、詩的散文で綴った文学作品として受け入れられた一方、田山花袋や島崎藤村などからは「粗野を気取った贅沢」あるいは「道楽に過ぎない作品」といった批判的な見方もみられた。民間伝承に焦点を当て、奇をてらうような改変はなく、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評価されている。現行の文庫判は、新潮文庫、岩波文庫、角川ソフィア文庫、集英社文庫で重版、初版復刻本『遠野物語 名著複刻全集』(日本近代文学館監修、発売・ほるぷ、新版1984年)も重版されている。『遠野物語』には匿名の人物だけでなく、実名の人物が多く登場する。佐々木喜善周辺の人物を中心に、実家がある山口村や、近隣の大字の人々の逸話が多い。『遠野物語』関連系図旧土淵村大字山口、現遠野市土淵町山口。旧土淵村大字栃内、現遠野市土淵町栃内。旧土淵村大字柏崎、現遠野市土淵町柏崎。旧土淵村大字飯豊(いいで)。現遠野市土淵町飯豊(いいとよ)。旧土淵村大字土淵、現遠野市土淵町土淵。旧遠野町、現遠野市中心部。旧上郷村、現遠野市上郷町。旧松崎村、現遠野市松崎町。

出典:wikipedia

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