身毛 広(むげつ の ひろ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。牟宜都比呂とも書く。姓は君。壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)方の功臣。身毛氏(牟義公・身毛君・身毛都君)は美濃国の地方豪族で、牟義都国造家とされる。身毛(牟義)は美濃国の武芸郡(むげのこおり、後の武儀郡)を指す。また『日本書紀』は身毛氏は景行天皇の子である大碓命の後裔であるという。壬申の乱(672年)において大海人皇子が挙兵を決断したとき、広は吉野にいた皇子のそばにおり、舎人として仕えていた。美濃には皇子の湯沐邑があり、広が舎人になったのもその縁ではないかという学者もいる。皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、身毛広は村国男依、和珥部君手と3人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨評(後の安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの評を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。その後の広の活躍は不明だが、乱の後、80戸の封戸を与えられた。『日本書紀』は12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたと記すので、広もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。その後の身毛広については記録がない。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。