IWGPリーグ戦(アイ・ダブリュー・ジー・ピー・リーグせん)は、新日本プロレスによって1983年開催の第一回大会から1987年開催の第五回大会まで行われたプロレスのリーグ戦(第三回大会のみトーナメント戦形式)。IWGPは、"International Wrestling Grand Prix"(インターナショナル・レスリング・グランプリ)の略称で、現在新日本プロレスが管理するIWGPの王座とは異なる面を持つ。尚、初期段階ではIWGC「International Wrestling Grand Champion」と提唱されていた。正式名称は第一回大会が「IWGP決勝リーグ戦」で、第二回大会から第五回大会までは「IWGP王座決定リーグ戦」という。1980年代初頭の新日本プロレスは、アントニオ猪木、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセンらに加えて、新人だった頃のハルク・ホーガンとの激闘でかつて無いほど絶好調の波に乗っていた。更には1981年4月23日にデビューした初代タイガーマスクの大活躍によってピークに達し「ワールドプロレスリング」の視聴率も絶好調で、テレビ朝日系列局以外の地方局も取り込み放送ネットワークを全国に拡大。地方興行も連日大入り満員で、1981年夏に開催した『ブラディ・ファイト・シリーズ』は全29戦すべてが超満員という空前の記録を作った。当時新日本プロレス専務取締役営業本部長だった新間寿は「今起こっているのはプロレスブームではない。新日本プロレスブームだ」と揚言した。アントニオ猪木は、このチャンスに乗じる形で「ワールドプロレスリング」を放送していたテレビ朝日の協力も得て、長年の念願だった「世界中に乱立するベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する」構想をブチ上げた。当初の計画では日本国内で開幕戦を行い、以降、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦し、決勝戦をニューヨークで行うという壮大なリーグ戦構想であった。同様に世界各地を転戦するF1グランプリから着想を得た通訳のケン田島によって「International Wrestling Grand Prix」という名称が提案され採用された。しかし、それぞれの地区で王者を抱えていたプロモーターからの協力も得られず、「世界各地の王者を日本に招いて世界最強のチャンピオンを決定する」というものにトーンダウンしてしまった。なお、当時新日本プロレスが加盟していた世界的なプロレス団体の寄合NWAでは、同じく加盟していた全日本プロレスからの運動もあって、「世界王者はNWA世界ヘビー級王者ただ一人であり、NWA世界ヘビー級王者だけを世界王者として認めることを各加盟団体に要求している」という声明を発表した。この声明の発表と同時にNWA第一副会長も務めたジャイアント馬場が「IWGP王者は新日本プロレスのローカルチャンピオンである」とコメントしているように、IWGP王者が真の世界一であるという立場と、新日本プロレスがNWAに加盟しているという立場は矛盾するはずだが、新日本プロレスがNWAを脱退することはついになかった。内容的には、それまで新日本プロレスが行っていた「MSGシリーズ」と大差ないものであったが、プロレスファンはIWGPリーグ戦の成功に期待した。1980年2月、極真空手のウィリー・ウィリアムスとの一戦で異種格闘技戦に一区切りをつけた猪木は、前述のIWGP構想を1980年12月に正式発表した。アメリカからNWA副会長、ヨーロッパから西ドイツレスリング連盟会長&同事務局長、メキシコからUWA代表、パキスタン国際レスリング協会会長&同副会長らを東京・京王プラザホテルに招いて1981年3月30日から31日にかけてIWGP運営会議が開かれ、翌4月1日にIWGP実行委員会の発足が正式に発表された。各国プロモーターへの働きかけは猪木の参謀役であったIWGP実行委員長・新間寿が中心となって行った。その後IWGPリーグ戦を開催するにあたって、まず猪木が具体的に取り組んだのがチャンピオンベルトの返上である。1981年4月23日、猪木がスタン・ハンセンとの防衛戦に成功した試合を最後に、自身のNWFヘビー級王座を返上、封印したのを発端にして坂口征二のWWF北米ヘビー級王座、坂口征二&長州力のNWA北米タッグ王座(ロサンゼルス版/日本版)、タイガー・ジェット・シンのNWF北米ヘビー級王座とアジアヘビー級王座(新日本プロレス版)、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助のアジアタッグ王座(新日本プロレス版)の合計6つの王座が返上された(ただしジュニアヘビー級王座のチャンピオンベルトは対象外であった。また1982年10月には藤波辰巳がWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得し日本に定着させている)。IWGPアジア地域予選リーグを行っていた最中の1981年末に、スタン・ハンセンが全日本プロレスに引き抜かれるアクシデントはあったものの、ハルク・ホーガンが短期間でトップレスラーの仲間入りを果たしていたことに加えて、前田明がイギリスで「クイックキック・リー」として活躍し、欧州代表として凱旋帰国を果たすことで充分カバーできた。なおアブドーラ・ザ・ブッチャーが「IWGPリーグ戦参戦」を名分に新日本プロレスに移籍していたが(スタン・ハンセンの引き抜きはその報復)、アブドーラ・ザ・ブッチャーは結局IWGPリーグ戦には参加していない。このような経緯で1983年5月6日に第一回「IWGP決勝リーグ戦」の開催に至ることとなる。リーグ戦全戦を終えた時点での勝ち点は、猪木37点、ホーガン37点、アンドレ36点、スタッド25点、カーン24点、木村21点、前田14点、カネック5点、ワンツ5点(負傷により途中棄権)、ベラ4点となり、アントニオ猪木とハルク・ホーガンによる同点決勝が行われる事となった。(リーグ戦での対決の結果は両者フェンスアウト)IWGP決勝リーグ戦の決勝戦「アントニオ猪木 VS ハルク・ホーガン」は、1983年6月2日に東京の蔵前国技館で時間無制限1本勝負として行われた。アントニオ猪木の優勝は既定路線かと思われたがハルク・ホーガンは予想以上に強く、場外乱闘の際に鉄柱の正面に立ったアントニオ猪木に向けて、背後からハルク・ホーガンの必殺技アックスボンバーが炸裂すると、アントニオ猪木は額を鉄柱にまともに打ち付けてしまい、足腰が立たない状態に追い込まれた。なんとかエプロンに上がった処へ、とどめのアックスボンバーをロープ越しに再び食らうと、場外へ飛ばされ、うずくまったまま動かなくなった。セコンド陣が介抱するがリングに戻る気配は無く、うずくまったままで様子がおかしい。セコンド陣の手によって強引にリング上に戻されたアントニオ猪木の表情をテレビカメラが捉え、当時全日本プロレスと共に対立していた日本テレビでもニュース報道されるなど、ありのまま全国に放送されたほか、新聞にも「試合中のアクシデント」として報道された。アントニオ猪木はうつ伏せの状態で、眼を閉じたまま舌を出し、気絶していたのだ。窒息の危険性があるため、応急処置が施された後に病院へ直行となった。その間ホーガンは心配そうに見守っていたが、新たに作られたIWGPのチャンピオンベルトが与えられ、IWGP王者としてそのベルトを腰に巻いた。アントニオ猪木が病院へ担ぎ込まれた事実は一般紙でも報じられ、プロレスファン以外にも知られる事となった。なお、この失神劇は、アクシデントではなく、ジャイアント馬場曰く「失神したときは舌は出さない」発言や(ジャイアント馬場はミスター珍との試合で珍を失神させてしまったことがある)、新間寿が猪木が搬送された病院で看護師に「私たちも医療ではプロですからね(失神しているふりをしてもわかりますよ)」と言われたという情報など、アントニオ猪木による自演とみる説がある一方、井上義啓の「会場で坂口征二が『ベロはどうした、ベロは!』と叫んでいたのを聞いた」「知り合いの医者に(アントニオ猪木が失神した場面の)写真を見せて『これはほんまもん(の失神)ですか?』と聞いてみたら『演技でここまで舌は出せない。これはほんまもん』と言っていた」という証言や、セコンドにいた木村健吾が舌を引っ張り出してからリングに上げた、との説もある。実際には夜中に新間寿が猪木を連れだし、そのままブラジルに渡航したいが為の演技であった。そしてその通りに実行した。アントニオ猪木が優勝した場合のIWGPリーグ戦は世間からは「第1回チャンピオンカーニバルでジャイアント馬場が優勝」、「第1回MSGシリーズでアントニオ猪木が優勝」というような過去のリーグ戦と同列に扱われる可能性が強く、アントニオ猪木がそれを避けようと失神KOを演出したのではないかという推測もある。また、当時ブッカーであったという坂口征二はこの試合後「人間不信」とだけ書いた紙を書置きして数日間失踪した。これは坂口征二が書いたストーリーをアントニオ猪木が独断でこのような結末に変更したためであるとされている。ミスター高橋の著書によると、予定では、リングに上がった猪木に対してホーガンがブレーンバスターを仕掛け、反転した猪木が、逆さ抑え込みか卍固めで勝利というシナリオだった 。アントニオ猪木とアンドレ・ザ・ジャイアントの二強に絞られたが、アンドレ・ザ・ジャイアントに反則勝ちを収めたアントニオ猪木が決勝戦へ進出。前大会と同じ顔ぶれとなったIWGP王座決定リーグ戦の決勝戦は、1984年6月14日に前大会同様、蔵前国技館で時間無制限1本勝負として行われた。前大会の汚名を返上したいアントニオ猪木は、気合充分でこの決勝戦に臨んだが決着はなかなかつかず、二度の延長戦にもつれ込んだ時に、何故か現れた長州力が場外のアントニオ猪木とハルク・ホーガンに次々にラリアットを食らわせるとそのまま立ち去った。レフェリーの場外カウントが進み、20カウント以内で先にリングインしたアントニオ猪木がリングアウト勝ちを収め第二回優勝者となった。新日本プロレス側が描いたこのような形でのアントニオ猪木勝利ブックは余りにも唐突で不透明であった。この為、当日蔵前国技館に詰め掛けた観衆は当然納得せず、観客席から次々と物が投げられ、「長州力、出て来い!」コール、大「金返せ」コールが起こり、更に放火騒ぎや蔵前国技館の二階席のイスを破壊する者もいたなど、試合終了後に暴動寸前の状態にまで発展した。このような状況を収拾するためにアントニオ猪木や藤原喜明がリング上に現れて観衆を静める一幕もあった。既に両国新国技館の建設が決定しており、数々の名勝負を繰り広げてきた蔵前国技館の残り少ない興行で「汚名返上」どころか「恥の上塗り」の形となり、新日本プロレスはそれまでの「異種格闘技戦」などでアントニオ猪木信者となっていた多くのファンを失った。そして、アントニオ猪木と新日本プロレスに失望したファン達は1984年に旗揚げしたUWFなどの、より格闘技色の強いプロレスに期待するようになって行くのである。この頃から「呪われたIWGP」と呼ばれるようになる。藤波辰巳を破ったアンドレ・ザ・ジャイアントが決勝戦へ進出。第三回大会の決勝戦は、1985年6月11日に東京体育館で60分1本勝負として行われた。見慣れた顔ぶれで盛り上がりに欠ける大会となったため、翌年からリーグ戦形式に戻された。UWFの崩壊で、新日本プロレスに業務提携という形で古巣に戻った前田日明とアントニオ猪木の直接対決が期待されたが、別のブロックに振り分けられたため実現はしなかった。しかし、アントニオ猪木に代わる存在に加え新日本プロレス代表としても前田日明の前に立ちはだかったのは藤波辰巳であった。この試合は、藤波辰巳が前田日明のキックによって大流血に追い込まれる壮絶なものとなった。前田日明の妥協しない攻撃に、飽くまでプロレスの姿勢で逃げることなく堂々と立ち向かう藤波辰巳の姿勢は、プロレスファンのみならず前田日明にも感銘を与えた。Aブロックはアントニオ猪木が、Bブロックは前田日明との同点決勝を制したディック・マードックが決勝戦へ進出した。第四回大会の決勝戦は、新設された両国国技館で1986年6月19日に60分1本勝負として行われた。WWF(現:WWE)との契約切れにより外国人レスラーのスケールが落ち、実質的には日本人レスラーの闘いになった。またしてもアントニオ猪木と前田日明は別ブロックに振り分けられたため直接対決は実現せず。開幕してすぐに藤波辰巳が怪我のため途中棄権、さらに全日本プロレスから出戻ってきた長州力および元ジャパンプロレス軍が(契約上まだ試合に出場できないため)乱入を繰り返し、前田日明に怪我を負わせて棄権に追い込んだため、IWGPリーグ戦の星取りはアントニオ猪木を中心に展開した。Aブロックはアントニオ猪木が、Bブロックはマサ斎藤が決勝戦へ進出した。第五回大会の決勝戦は、1987年6月12日に両国国技館で時間無制限1本勝負として行われた。第五回大会の「IWGP王座決定リーグ戦」の開催前、大会提唱者であったアントニオ猪木は「世界マット界の情勢の変化」を理由に、IWGPのタイトル化を宣言する(実際には、NWAに対する後ろ盾ともなっていたWWF (現:WWE) が、1985年10月末で新日本プロレスとの業務提携を破棄し、独自で全米進出に乗り出した影響が大きかった。「第五回大会」の項を参照)。その第五回大会を制したアントニオ猪木が「初代IWGPヘビー級王者」として防衛戦を行う事でIWGPヘビー級王座としてタイトル化され、新日本プロレスを象徴するチャンピオンベルトとして継承される事となった。IWGPヘビー級王座に先駆け1985年にIWGPタッグ王座、1986年にIWGPジュニアヘビー級王座の各王座と、1998年にIWGPジュニアタッグ王座、2004年にIWGP U-30無差別級王座、2011年にIWGPインターコンチネンタル王座とNEVER無差別級王座の各王座が認定され現在に至る。因みに、WWFとの提携解消や、それに伴う各王座のIWGP認定タイトルへの移行に関しては、前者はプロレス週刊誌などの紙媒体で、後者は公式パンフレットで詳しく伝えられてはいた(例えば、当時ジュニア二冠王だったザ・コブラの場合、公式パンフレットの選手紹介において「真の世界王者を決めるIWGP Jr.ヘビー級選手権を狙うため、NWA Jr.とWWF Jr.のベルトを返上」と小さく触れられていた)。ところがテレビ中継では、これらの件は両方とも、何の説明もなされなかった。 従ってテレビ上では、NWAやWWF認定のベルトが、いつの間にかIWGP認定のベルトに取って代わるという、いささか不自然な形になってしまった。2011年、アントニオ猪木が代表を務めるIGFの蝶野正洋エグゼクティブプロデューサーが「IGF版IWGP」を提唱し、12月2日の両国大会「INOKI BOM-BA-YE 2011」にも始動させると発表したが、蝶野正洋の退任もあり立ち消えとなっている。
出典:wikipedia
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