広澤 克実(ひろさわ かつみ、本名:広沢 克己(読み同じ)、1962年4月10日 - )は、元プロ野球選手(内野手、外野手)・指導者、野球解説者。茨城県結城市出身。登録名はからまでは広沢克、以降は広澤 克実。愛称は「トラ」など。巨人、阪神の両球団で4番を打った唯一の選手である。元ダイエーの藤本博史らと並び、プロ野球選手には珍しい柔道の有段者である。小山高校では夏の栃木大会決勝に進出するが、黒磯高に完封を喫し甲子園出場を逸する。卒業後は明治大学に進学。同期には竹田光訓、善波達也(東京ガス-明大監督)がいる。下級生時代は監督の島岡吉郎からスパルタ教育を受け、練習の辛さや人間関係から、何度も辞めようと思ったことがあるというが、先輩の平田勝男が悩んでいる広澤を部屋に呼び、蕎麦などをごちそうし、「食べたら街にでも遊びに行って来い、夜まで帰ってこなくていいぞ」と気を遣ってくれて、広澤は涙が止まらなかったという。大活躍へのスタートを切ったきっかけは、紺白戦(明大では紅白戦のことをこう呼ぶ)に出られず島岡の横で焚き火と焼き芋(選手用ではなく、もちろん監督用)の当番をしていたところ、島岡から「お前打ってみろ」といきなり代打に指名されたことであった。ここで快打を飛ばし、即ベンチ入りが決まる。東京六大学リーグでは春季リーグで2年ぶりの優勝に貢献。同年は史上2人目の2シーズン連続首位打者を獲得した他、4試合連続本塁打のリーグ新記録を達成した。翌にはロサンゼルスオリンピックで野球日本代表チームの一員として出場。決勝戦で本塁打を打ち、金メダル獲得に貢献。同年秋季リーグでも在学中3度目の優勝を飾る。リーグ通算69試合に出場し248打数87安打、打率.351、18本塁打、47打点。ベストナイン3回。1983年、1984年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。のドラフト1位でヤクルトスワローズに入団。その際、大杉勝男の引退後、有望な選手が入団するまでの保留欠番となっていた背番号8を与えられた。前年入団の池山隆寛と共にイケトラコンビ、またはHI砲(H=広沢、I=池山)とも呼ばれるヤクルトの主軸を成し、2度のリーグ優勝(うち1度は日本一)に貢献した。に広沢好輝が入団したため、まではスコアボード・新聞上の表記が「広沢克」に変更。後年、これが登録名となる。ヤクルト時代、監督の野村克也から可愛がられた選手の一人でもある。野村からは「1年間、4番はお前で行くからな」と何度も声を掛けられたという。実際は不振などで4番から外されたことは多くあるが、欠場させられることはほとんどなかった(広沢は1986年10月12日から1995年10月8日まで1180試合連続出場の記録を作っている)。また、野村の自宅を訪ねた時、広澤が打点王タイトル獲得記念でプレゼントした空気清浄機が古くなっても活用されているのを見て、とても嬉しかったと後年にスポーツニッポンの引退記念コラムで語っている。プロ通算150号本塁打を放った時の相手投手は、後に内野手に転向し2000本安打を達成する石井琢朗(当時:石井忠徳)である。1994年オフにFA宣言し、読売ジャイアンツに移籍。本職は一塁手だが、巨人では落合博満、清原和博と重なり外野を守ることが多くなった。3年目に左翼手から右翼手へコンバートする。移籍初年度のは、開幕から極度の不振も、連続試合出場のため全試合出場した。しかし、のオープン戦で死球を受けて骨折したため、開幕に間に合わず、連続試合出場は止まった。この年は、回復後も試合の出場機会が少なく、日本シリーズでもベンチ入りできなかったため、自由契約を希望したが、フロントに説得される。9月26日の対中日ドラゴンズ戦でサイクル安打を達成。4月29日の対ヤクルト戦(大阪ドーム)で川崎憲次郎から中前安打を記録、二塁への盗塁を試みて右肩を脱臼。これがきっかけでシーズンを棒に振ってしまった。巨人を自由契約となり、にかつての恩師である野村が率いる阪神タイガースに移籍。阪神では代打の切り札として活躍し、「代打の神様」と呼ばれた八木裕と並んで、一部では「代打の仏様」とも呼ばれていた。入団後初のお立ち台で「早く六甲おぼし…おろしを覚えますんで、よろしくお願いします」とコメントした。2001年6月21日、阪神甲子園球場で行われた巨人戦で代打サヨナラタイムリーヒットを放った後、お立ち台で「次にサヨナラヒットを打ったら、ここで『六甲おろし』歌います」と公約し、井川慶が完封勝利を挙げた8月29日の対巨人戦で6回裏に高橋尚成から唯一の得点となるソロ本塁打を放ち、お立ち台で『六甲おろし』を歌ってその公約を達成した。福岡ダイエーホークスとの2003年の日本シリーズでは、5打席連続三振というシリーズタイ記録を作ったが、第7戦、9回表2アウトから矢野輝弘の代打で出て、和田毅から左翼席へ本塁打を打ち、日本シリーズ歴代最年長(当時41歳6ヶ月)の本塁打を記録。この打席が現役最後になることを自覚していた広澤は、既に泣いていた。そのため、「それまではボールが見えていたから打てなかったが、涙でボールがよく見えなかったのでホームランになった」などとネタにされた。この年限りで現役引退。ヤクルト時代のと、巨人時代の1996年、そして阪神時代のと、所属した3球団全てで優勝を経験した(ただし巨人では日本シリーズには出場していない)。現役19年間で退場処分を受けたことは一度もない。引退後はNHKとスポーツニッポンの野球解説者に就任した。関西では朝日放送『虎バン』(毎月1回程度)と関西テレビ放送『ぶったま!』(レギュラー)にもコメンテーターとして出演した。その後、2006年10月17日に阪神の一軍打撃コーチ就任が発表され、4年ぶりの現場復帰を果たした。はチーム打率・得点・打点・安打・本塁打がリーグ最下位に低迷し、は13ゲーム差をつけながら巨人に追い抜かれるという記録的なV逸の責任を取り、監督の岡田彰布、コーチの吉竹春樹と共に辞任。2009年からは再びスポーツニッポンの評論家を務めているが、前回と違い放送局との専属での契約は行わず、フリーの立場(主にサンテレビなど関西の放送局でのゲスト解説が多かったが、2012年からサンテレビ・仙台放送解説者となった)で出演している。11月に野球カンボジア代表のコーチに就任した。2014年に自身のブログでメニエール病を患っていることが明かされ、2015年の爆報!THE フライデーで、その近況が語られた。
出典:wikipedia
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