浅田 宗伯(あさだ そうはく、文化12年5月22日(1815年6月29日) - 明治27年(1894年)3月16日)は日本の漢方医、儒学者。諱は惟常、号は栗園。信濃国筑摩郡栗林村(現在の長野県松本市島立)出身。地元で初めて民衆に種痘を実施した熊谷珪碩(江馬蘭斎の門弟)や、高遠藩儒臣中村元起(中村弥六の父)に医学の薫陶を受けた後、志を立て京都、江戸において漢方医学と共に頼山陽や猪飼敬所らから経書・儒学・歴史学等を修めた。その後大坂で大塩平八郎の門をたたいて陽明学を学ぶ。はじめ江戸の諸名医の門を叩いたが相手にされず、幕医・本康宗円の理解を得るに及んで、多紀元堅・小島尚質・喜多村直寛ら医学館考証派の諸名家に紹介されたという。宗伯の名乗りは宗円より一字を承けたものである。徳川将軍家の典医及び宮内省侍医となり、天璋院による徳川慶喜の助命を求める書状を西郷隆盛に届けた。医師としてはフランス公使・ロッシュや嘉仁親王(後の大正天皇)の生命の危機を救った事で知られている。医療や著述のかたわら、明治政府の漢方廃止政策に対抗し、漢方六賢人(宗伯のほか、岡田昌春・清川玄道・桐淵道斎・河内全節・高島祐啓)の筆頭として、漢方保存に尽力した。維新後には宮内省侍医。漢方が衰退していくなか病床に倒れ、見舞いにもらった紅梅を題材に以下の狂歌二首を辞世として長逝。信濃国伊那郡出身の書生、堀内伊三郎が宗伯の元で薬飴を製造し、その子伊太郎が浅田飴と命名し販路を開いたことに始まる。
出典:wikipedia
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