織田 信武(おだ のぶたけ)は、大和宇陀松山藩の第4代藩主。高長系織田家3代。明暦元年(1655年)、第3代藩主・織田長頼の長男として江戸で生まれる。幼名は乱麻呂(らんまろ)。寛文6年(1666年)7月10日、将軍・徳川家綱に初めて御目見し、寛文12年(1672年)12月28日には従四位下出雲守に叙任した。延宝5年(1677年)7月11日、尾張藩主・徳川光友の養女である智姫(広幡忠幸の娘)と結婚する。元禄2年(1689年)6月6日、父の死去により家督を相続する。信武が継いだ松山藩織田家は、石高では2万8,000石の陣屋外様大名に過ぎなかったが、織田信長の次男信雄の直系にあたるということで、その当主には従四位下侍従の官位と国主大名格が与えられていた。元禄3年(1690年)5月11日、藩主として初めてのお国入りの許可を得る。元禄4年(1691年)6月25日、正室の智姫が死去したため、光友の養女である清姫(智姫の妹)と再婚した。元禄7年(1694年)10月30日、松山陣屋において突然自殺した。享年40。幕府は旗本・浅野長恒らを松山に派遣して調査し、この騒動の責任を織田家に問い、長男・信休を丹波柏原藩2万石に減転封とした。またこのときに、従四位下侍従の官位を与えられる格式と国主大名の格式も合わせて剥奪され、信休以降の当主は通常の従五位下諸大夫の小外様大名として扱われるようになった。信武の自殺は、公的には乱心となっている。実際は宇陀崩れというお家騒動のためであった。宇陀松山藩の家臣団は、初代信雄から仕えた古参衆と第2代高長から仕えた加賀衆の2派に分かれていた。第4代信武の治世、加賀衆に含まれる中山正峯と古参衆が財政政策をめぐり対立を激化させた。その結果、元禄7年(1694年)9月下旬に信武は古参衆の田中安定を手討ちにした。さらに、病気を理由に登城を拒否した生駒則正に藩士を遣わし、一族もろとも討ち果たすに至った。この事件は世間に広く知れ渡り、翌月動揺した信武は自殺するにいたったようである。なお、中山は柏原転封後も織田家に出仕している。なお、『土芥寇讎記』にはとあり、当時評価の高い大名の一人であった。
出典:wikipedia
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