ノーサンプトンの戦い(Battle of Northampton)は、薔薇戦争中の戦闘であり、1460年7月10日に行われた。前年に行われたラドフォード橋の戦いにおける大敗北で、ヨーク派は既に絶えたように思われた。何人かのヨーク派の司令官(ウォリック伯、ソールズベリー伯、ヨーク公の息子マーチ伯エドワード)は、1459年11月2日にカレーに逃れ、ウォリック伯はそこで叔父フォーコンバーグ卿に会った。一方、ヨーク公とラットランド伯エドムンドは、比較的安全なアイルランドに撤退した。その頃イギリス本土では、ランカスター派がヨーク派逃走の機を捉え、討伐隊を派遣した。ウィルトシャー伯ジェームズ・バトラー("James Butler, 1st Earl of Wiltshire")はアイルランドの代官に任命され、サマセット公ヘンリー・ボーフォートはカレーの方面軍司令官となった。しかしその新しい「領主」に対し、アイルランド人はヨーク公の引渡しを拒否し、カレーは堅く城門を閉じ、彼らが新しいポストを占めることは、いずれも成功しなかった。ランカスター派はサマセット公にカレー討伐の軍を与えた。だが、カレーを討伐するにはまずドーバー海峡を渡らなければならない。そのため、艦隊の建設がケント州のサンドウィッチ("Sandwich")で始められた。艦隊の建造が済んで間もなく、ウォリック伯はサンドウィッチを襲撃して、艦隊を強奪した。ウォリック伯は5月にもドーバー海峡を渡っており、この時には建造中の艦隊を破壊している。ウォリック伯はサンドウィッチに彼の叔父と軍の一部を残しておいた。来るべきイングランド侵攻時の橋頭堡の役を務めるためである。そして6月26日、ウォリック伯とソールズベリー伯とエドワードは2,000の兵とともにサンドウィッチに上陸した。ちょうどこの時、ヘンリー6世もマーガレット王妃も小規模な軍をつれてコヴェントリーにいた。ウォリック伯はこれを急襲するべく、7月2日2~30,000の兵を連れてロンドンに入った。国王軍はノーサンプトンにネーネー川を背にして防御的な陣を敷いた。彼らの背後の川は、戦術的に危険だった。防衛軍は10,000~15,000の強兵であった。ランカスター派は大量の野戦砲も配備していた。接近する間に、ウォリック伯は彼の代理として王と交渉するために使者を送った。だがランカスター派の指揮官バッキンガム公は「ウォリック伯は国王の面前には出て来る事はない。来ようとすれば、彼が死ぬだけだ。」と答えた。ウォリック伯はノーサンプトンへの前進の間、彼は2度も国王への取次ぎを拒否されている。一度など、「2時には私は、国王と話をしているか死んでいるかだ」とも取れるメッセージを送っている。2時、ヨーク派は進軍を開始した。彼らは縦列で進軍したが、打ち付ける激しい雨のため、思うように進軍できなかった。ランカスター派に接近した時、ウォリック伯に激しい矢の雨が降り注いだ。運の良いことに、ランカスター派の大砲は雨で役に立たなくなっていたのだった。ウォリック伯がランカスター派の右翼側面に着いたとき、グレイ卿の指揮する部隊が、ヨーク派に寝返った。グレイ卿の軍は武器を放棄し、ヨーク派を本陣まで導いた。それは国王派のランカスター派にとっては、致命的ともいえる一撃であった。この後、戦いは30分ほど続いた。要塞を守る事もかなわなくなったランカスター派の防衛軍は、ヨーク派の攻撃に撹乱されて隊列も維持できない状態で戦場から離脱した。バッキンガム公、シュルーズベリー伯、エグリモント卿、ボーモント卿らは、皆ヘンリー国王をヨーク派から守るため、王のテントをかばって戦死した。この戦いで約300人のランカスター兵が殺され、国王は捕らえられ、再びヨーク派の操り人形となった。
出典:wikipedia
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