栗本 慎一郎(くりもと しんいちろう、1941年(昭和16年)11月23日 - )は、日本の経済人類学研究者、法社会学研究者、評論家、有明教育芸術短期大学学長。国会議員経験者(衆議院2期)。元経済企画庁政務次官。有限会社大学総合研究所理事長。NPO法人世界芸術文化振興協会理事、NPO法人神道国際学会会長、国際スポーツ振興協会理事。健康食品開発者。弁護士登録有資格者。東京都出身。父は元最高裁判事の栗本一夫(岐阜県出身)。母トシ子は元東京府議会議長中野勇治郎(京都府出身)三女。東京学芸大学附属世田谷小学校、同中学校、東京都立戸山高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。同大学大学院経済学研究科博士課程退学。天理大学専任講師、奈良県立短期大学(現奈良県立大学)助教授、ノースウエスタン大学客員教授(1975年〜1976年)を経て、明治大学教授在任中、ヴァンダービルト大学客員教授(1986年〜1987年)も務める。1991年7月、明治大学教授を辞任。1992年大学総合研究所を設立、栗本慎一郎自由大学(非正規大学) 開学。官邸HPにも大学開学が経歴として記載されている。東京農業大学国際食料情報学部嘱託教授、拓殖大学客員教授、帝京大学客員教授、衆議院議員2期をへて、2011年有明教育芸術短期大学第二代学長兼学校法人三浦学園理事。同年春旭日中綬章叙勲。国際スポーツ振興協会理事。雑誌『現代思想』1977年3月号をきっかけに論壇にデビューし、その後、いわゆる「ニューアカ(ニュー・アカデミズム)」ブームの先鋒をつとめた。新人類という言葉を作り出したり、議論の技術を向上させるディベートを普及するため『朝まで生テレビ!』に出演するなど、積極的にマスコミに顔を出すとともに、糸井重里、吉本隆明、丸山圭三郎ら多くのタレント、文化人、学者と分野を超えて交流し、多数の対談・共著を出版した。カール・ポランニーの弟分である高名な経営学者ピーター・ドラッカーから突如電話を受け、それがきっかけで「ブダペスト物語」を執筆したり、過去には歌手として織田哲郎プロデュースの下『平成若者大音頭』をリリースするなど幅広く活動。1999年10月頃、脳梗塞になる。朝起きると左半身が動かなくなり、日課のウォーキング中で道が分からなくなる、病院に行こうとタクシーに乗るも、呂律が回らず運転手に行き先が伝わらない等の症状が出る。一命は取り留めたものの左半身麻痺となってしまい、リハビリに励むも中々上手くいかない。ある日、リハビリで左手を動かそうとすると右手が動く事に気付いた栗本は、箱の真ん中に鏡を置き、箱の中に右手を入れ、鏡で右手を映しながら動かし、それと同時に妻が左手を同じ様に動かすという、鏡に映った右手を左手だと栗本の脳に錯覚させるというヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランの「ミラーボックス」によるリハビリ法を試した結果、2ヵ月後には症状が良くなり、現在はゴルフや車の運転が出来るほどに回復した。文学にも造詣が深く、『反文学論』という文芸評論や、小説の実作「反少女」「敵意」「紐育の少女(林真理子がモデル)」「白雨の少女」がある。2012年6月9日、東京都世田谷区の路上で乗用車を運転中、衝突事故を起こしていたことが、2012年6月15日に読売新聞によって報じられた。明大時代の教え子にタレントの大川豊や元野球選手の平田勝男がいる。指導教授は経済史の高村象平。栗本は、経済史を研究するなかで、その枠を超えてカールを祖とする実在派経済人類学に辿り着き、カールの弟子であるジョージ・ドルトンに師事する。栗本は、経済人類学の研究成果を踏まえ、近代以前の社会を非市場社会であるとしたうえで、非市場社会における財の生産、贈与、交換、廃棄等の経済活動の根底には、習俗によって規定されている人びとの行為に、当人たちには意識されていない行為の動因があり、経済活動はその結果ないし機能にすぎないとする。そのうえで、近代社会である市場社会においても上掲の事情は基本的には変わりがないとして、経済活動を人びとの合理的な利益追求であるとする従来の経済学の常識に180度の転回を迫った。栗本は、その研究対象を広義の経済学の枠を超えて法社会学に広げて、社会規範として人びとに行為を強制・禁止する習俗についての研究を進める一方、その他方で人びとの行為・行動の動因となっているものを明らかにするためには、無意識の問題を避けることはできないとして精神分析学、記号論ないし生命論等の議論をも踏まえたうえで、経済人類学を基礎として、経済学、法学、文化人類学を包括した統一的理論の構築を目指した。その後、デュルケームの聖俗理論を紹介したうえで、マルセル・モースのポトラッチ論や動物行動学の研究成果を踏まえ、これをジョルジュ・バタイユのタブーとエロティシズムに関する見解と結びつけ、日常的時空間における生産的な経済活動は、逆説的であるが、非日常的時空間における破壊的な(経済)活動の準備としてなされる、極めて不合理なものであり、その背後にタブーを犯すことによって生じる快感と、それを支える生命的なエネルギーがあり、しかもそれが経済活動のみならず、人間の道徳、習俗、意識さえも規制しているという「過剰―蕩尽理論」を主張した。また、大学の講義等において前衛芸術家の岡本太郎にも言及し、モースやバタイユやロジェ・カイヨワと、1930年代のパリで直接交流のあった岡本のことを偉大な思想家として評価した最初の言論人である。栗本は、上掲のとおり学問の枠を超えた過激な見解を主張していたが、それでも当時はトーマス・クーンの見解をあげたうえで、個別の学者・学説への批判を慎重に避けていた。ところが、突如、浅田彰や山口昌男ら個別の学者を名指しして批判を始め、「危険な学者」と自称するようになる。このように態度を一転させた理由は、学者がマスコミ進出によって、大学教授という地位だけでなく、わずかばかりの知名度や収入を得てそれを守るために汲々とし、お互いに学問的な批判や議論を避けているとの不満と、山口や柄谷行人、蓮實重彦らは、その方向性を突き詰めれば社会システムを包括的にとらえる超統一的理論へと至るステップを準備するはずなのであるが、その作業をしていないかあるいはしていても極めて不徹底であることへの苛立ちにあったといえる。その後、自身の理論を更に徹底させて上掲のいわゆる社会科学にとどまらず、すべての学問を包括的にとらえる超々統一的理論の構築を目指して、マイケル・ポランニーの科学哲学である暗黙知の理論を承継・発展させて、化学、物理学の研究を進めて、量子論、宇宙論の研究の成果を取り込んだ後掲『意味と生命-暗黙知理論から生命の量子論へ』を上梓した。さらにその後、ドーパミン等の脳内伝達物質にいち早く注目し、コンドラチェフの波等の景気循環に関する経済学説を紹介したうえで、その原因が太陽からの磁気が関係していると主張するなど多くの著作を発表している。ニューアカブーム以降、料理の鉄人では審査員を務めるなど多彩な活動でマスコミに知られるようになる。1991年に明治大学で替え玉受験事件(替え玉が発覚した20人の受験生の中に後のなべやかんがいた)が発覚すると、大学の腐敗と学生の怠惰に抗議すると表明して、突如教授を辞任。マスコミ活動のためにホリプロに所属した。1993年7月には、衆議院議員総選挙に自身が生まれ育った世田谷区と目黒区で構成の東京都第3区_(中選挙区)で慶應経済学部同級生小沢一郎代表幹事の結成間もない新生党の推薦を受けて無所属で出馬し、当選し後に正式に新生党入党。小沢側近の一人として活動した。しかし、1994年6月29日総理大臣指名選で支持した海部俊樹が敗北し野党となり12月の新進党の結党には参加せず、小沢と袂を分かった後はメディアで「ただの馬鹿」呼ばわりして話題となった。自由連合所属を経て、自身の慶應・経済学部同級生の小泉純一郎や自身の小学校の5年先輩の福田康夫が属する自民党及び清和会へ。世田谷には清和会現職越智通雄が居たため、国会議員を引退した清和会副会長経験者石原慎太郎の品川や大田の地盤を継承。1996年10月の総選挙にも、自民党現職として東京3区及び比例東京ブロックから重複立候補し、新進党新人の松原仁や新党さきがけ現職の宇佐美登などを破り再選される(松原VS宇佐美は史上初の松下政経塾出身者同士の定数1公選での激突、両候補は重複せず、松原が次点)。1997年9月橋本龍太郎から経済企画政務次官に任命され1998年ポスト橋本の自民党総裁選では小泉推薦人。1999年4月の東京都知事選挙では非自民だった舛添要一候補の選対本部長をつとめ清和会を離脱したが野末陳平と共闘した事に抗議し離反し石原支持。通信傍受法(盗聴法)に田中真紀子とともに採決の際に反対し、単独で離党届をだす。田中真紀子はそのまま自民党に残ったが、栗本の離党届は受理されず除名処分となる(その時点の自民党幹事長は清和会会長森喜朗)。宮崎学率いる電脳突破党に参加する。同年の10月29日に脳梗塞で倒れた。脳梗塞で倒れる前日の記者会見ではろれつが回らなかったり症状が出ていたという。左半身麻痺という後遺症が発症したが、自ら考案したリハビリ(右半身を鏡で見せて左半身を鏡で隠すといった方法)ののち、左半身麻痺が解消し復帰している。2000年6月の総選挙では、通信傍受法成立時の郵政大臣だった八代英太と同じ選挙区(東京12区)から自由連合公認・突破党推薦で重複立候補するが、有効投票総数の1割未満で供託金没収、最下位落選し、政界からも去った。近年は、大学の教壇に立つかたわらで、自身が経験した脳梗塞に関する仕事も精力的に行っている。著書『かくして日は昇る』では北海道の自治についても大きな関心を示した。引退後週刊現代でかつての盟友・小泉に対し「頭も悪いが性格も悪い。」等と痛烈な人格批判を行い物議を醸したが、小泉サイドからの抗議などはなかった。舛添要一の道知事出馬の可能性が話題になっていた1990年末から1991年初めころ、栗本も道知事への出馬を考えていた。1990年末、日本テレビ系の『EXテレビ』にゲスト出演した栗本が、レギュラーの舛添と、今年の10大ニュースを互いに挙げていく、という企画があり、栗本は上位(舛添の愛称が“ヨウちゃん”だから、駄洒落で4位)に舛添の道知事出馬騒動を挙げていた。舛添の「(当時存在しなかった)北海道本拠地のプロ野球チームを作るべき」というアイディアに賛意を表していた。一方、舛添は、当時太陽黒点と社会変化の関係を力説していた栗本に対し、「太陽黒点移動が、“北海道の時代”の到来と関係あるのではないか?」などと問い詰めていたが、これには何も返答しなかった。その直後、上記にもあるとおり地方自治を論じた『かくして日は昇る』という本を緊急出版した。いままで地方自治について積極的に語らなかった栗本(当時の『朝まで生テレビ!』などでも東京一極集中を頑なに全面肯定していた)が、突如として北海道自治に関心を示し、「もし私が道知事であったなら」などという仮定で政策提言している。その後、西部邁(北海道出身)との共著(対論)「立ち腐れる日本」でも、都知事と道知事へのオファーがあったことを語り、西部から「貴方なら僕も応援するけどな」との賛意を得た。テレビでも、フジテレビ系の『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』で、その週の各新聞から注目すべき記事にスポットを当てて出演者らがコメントするコーナーで、栗本が道知事候補として浮上した記事が紹介され、司会の上岡龍太郎が「舛添にしろ栗本さんにしろ、北海道ってのはつくづく頭の薄い奴が好きやなぁ」とコメントする一幕があった。出演者の一人であった栗本は「(もう立候補表明の期限は過ぎてしまったので)今回は出馬しないが、出るときは出るよ」と、出馬の意志があったことを否定しなかった。同時期テレビ朝日『TVタックル』でも司会のビートたけしが舛添に「この前、栗本さんが(この番組にゲストで)来たとき、“たけちゃん、あれ(=道知事のポスト)、いいなあ。どうにかなんねえか(=道知事になれないか)なあ?”と言ってたよ」とこの件について尋ね、舛添が栗本出馬断念の経緯を説明する一幕があった。
出典:wikipedia
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