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大平正芳

大平 正芳(おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 - 1980年(昭和55年)6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)などを歴任した。香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、大平が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半で既に亡くなっていた。父の利吉は学歴こそなかったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。また利吉は書をたしなみ,和漢の古典にもよく通じた読書家で、大平の読書好きや漢籍への造詣も父の影響を強く受けている。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼い頃から内職を手伝ってして家計を支えていた。和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。当時、中学校に進学する者は学級で2-3人程度で、次男・三男には分けてやるものはないからせめて学業くらいは修めさせてやろうという利吉の気遣いからだった。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。中学時代の大平は温厚で目立たない少年で、級友たちは後に政治家になった大平に当惑したという。1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4か月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。1927年(昭和2年)夏、父利吉が急死する。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学。高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた。卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。母は四国水力(現四国電力)への就職を望んでいたようだが昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった。大平は信仰の師である佐藤の発明した薬品を商品化するとのことで桃谷の誘いを受け大阪に出てきたものの、一向に商品化される様子はなく、自身の生き方について葛藤する日々を過ごした。1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した。大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構え、在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した。なかでも経済思想史に強い関心をもった大平は2年に進級すると上田辰之助ゼミナールに参加した。恩師上田について大平は「経済学者というよりも、むしろ社会学者であり、社会学者である前に実のところ言語学者であられた」と評している。卒業論文は「職分社会と同業組合」。また、大平は「わたしの思想というものが仮にあるとすれば(杉村先生の思想が)それをつくるものの考え方の素材となっている」と述べ、杉村の著書『経済倫理の構造』(岩波書店、1938年)は死の直前まで大平の傍らに置かれていた。大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した。1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験合格。特に官吏志望だったわけではなく、学校時代から別子銅山の煙を見て育ち、また川田順を愛読していた大平は住友系の企業への憧れを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、「ここで採用してやる」という型破りな方法で大蔵省への採用が決まった。1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退職し自由党公認で衆議院議員に立候補し当選。以後、連続当選11回。1957年(昭和32年)、池田勇人が宏地会を発足させ当然のごとく池田のもとに馳せ参じた。。大蔵省の先輩である前尾繁三郎をヘッドとする大蔵省出身者の池田の政策ブレーンとなり、宮澤喜一や黒金泰美らとは、池田勇人側近の「秘書官トリオ」と呼ばれる。1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で内閣官房長官に就任。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された。第2次池田内閣・第2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田内閣第2次改造内閣で外務大臣に就任した。戦前は中国勤務を経験し占領時代はアメリカを旅行した経験から外交を身近に感じていた大平は外相就任を望んでいた。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案だった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」1962年11月12日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である。一方で日中関係の進展を念頭に置いていた池田との離反という代償も伴った。中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り組んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した。LT貿易の成立、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した。また、主として外相時代に日米核持ち込み問題において、当事者としてアメリカとの核密約の取り交わしに関わる。外相時代にはキューバ危機の煽りで在日米軍・自衛隊が臨戦態勢を取っており、核・原子力関連の問題が多かった。1963年(昭和38年)1月にはエドウィン・ライシャワー駐日大使を通じて原子力潜水艦の寄港申し出でがあり、世間でも議論の的となった。この件については1年8か月かけて日米で技術的な照会や、原子力委員会での審議を重ねた後閣議で承認されたが、大平の秘書官を務めた森田一によれば、実際には1963年(昭和38年)4月にライシャワーから密約の存在を伝えられ苦悩していたと言う。なお核密約の方は大平もまた、公にその存在を公表することはなかったのだが、自民党の機関誌『政策月報』にて核・原子力関係の問題について語っている。その中で社会党が取っていた原子力技術全般への反対姿勢を核アレルギーを感情的に煽っている旨批判している他、原子力に対しての認識として次のように述べている。なお寄港承認直後にもサブロック問題に絡んで当時取り交わし済みだった核密約の再確認を行ったことが、21世紀に入ってから報じられている。小泉純也防衛庁長官ら新任閣僚が同ミサイルの配備を事前協議の対象となると指摘したため、米側が危機感を募らせていたからだった。次の佐藤政権では政調会長を務めた後、第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣、第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務め、内政外政にかかわる要職を歴任した。佐藤内閣では通産相として日米繊維交渉の解決を託され、大平自身も意欲的に取り組んだというが、交渉の進展が芳しくないと感じた佐藤は大平を事実上更迭し、ライバルの宮澤喜一を後任に据えた(結局宮澤も繊維交渉は解決できず、田中角栄通産相の裁量によって妥結を見る)。1971年(昭和46年)、「大平クーデター」で前尾繁三郎にかわって宏池会会長に就任、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年(昭和55年)の死去まで派閥の領袖の座にあった。三角大福の争いとなった1972年(昭和47年)総裁選では3位につけ、その後も田中角栄と盟友関係を続ける。田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。日中国交正常化における大平の役割について、倪志敏著『田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その1-その4)』が最も詳しい。その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相だった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ。その裁定には、田中から「うまく負けたな。51対49で君の負けだ」と述べられた。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが、この時に値上げ三法案(酒・たばこ・郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥に対処するために10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく。1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立。福田内閣樹立に協力し、幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した。保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャル連合)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める。1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する。事前の世論調査では福田が有利だったが、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票を獲得。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、10年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した。大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱した。大平政権期の世界は、1978年(昭和53年)に発生したイラン革命と第二次石油危機の余波、1979年(昭和54年)のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年(昭和55年)のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定、福田前政権の「全方位外交」から転換し、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権だった。また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりし、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。また、歴史的、地政学の観点から、中国を重視する姿勢を打ち出し、中国の近代化に積極的協力する国策を打ち出した。同年12月に中国を訪問し、政府借款の供与、「日中文化交流協定」に調印等、後の1980年代における日中緊密化の道へと導いた。政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む結果を招くと、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。大平は、両派の妥協案として浮上した「総総分離」案も拒否し、強気の姿勢をとり続ける。選挙後国会の首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派・田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派・三木派・中曽根派・中川グループが推す福田の一騎討ちとなった結果、138票対121票で大平が福田を下して、第2次大平内閣が発足した。これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)5月16日に社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚き、民社党の春日一幸前委員長は不信任決議案が可決された後、「切れないノコギリを自分の腹に当てやがって」と野党の未熟ぶりを嘆いたという。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。こうして第36回衆院選と第12回参院選が公示され、投票日は6月22日と決まった。総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労と不整脈により虎の門病院に緊急入院した。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけで、国内政局からくる心労に加え、多くの外遊をこなす激務に、70歳という高齢と、心臓の不安が重なり、肉体は限界に来ていた。以前にもニトログリセリンを服用することがあったが、公表はされていなかった。大平入院により、反主流派の中川一郎は健康問題をかかえた大平では6月22日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語って暗に大平退陣を要求、反主流派の一部から大平退陣の声があがりはじめた。また6月9日には大平派の鈴木善幸が大平の後は話合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語り、大平派からも大平退陣について発言する動きがあがった。この鈴木発言を新聞でみた大平は「浅薄な腹黒者、不謹慎極まりない」と怒りをあらわにしたという。大平本人は近日中に退院してサミットに出席するつもりで、興亜院時代からの盟友で官房長官をつとめていた伊東正義ほかにもそれを明言している。一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日午前5時過ぎ容態が急変。妻志げ子以下家族、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら、5時54分死去した。70歳3か月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全と発表された。死去前夜、7時半頃桜内義雄幹事長が選挙情勢について報告に訪れ、その後伊東官房長官とも30分程話し、そして午後9時ごろ娘婿で秘書官の森田一がヴェネツィアサミットの準備に当らせるため佐藤秘書官をヴェネツィアに派遣することを報告した際に返した「そうか、わかった」が最後の言葉となった。この突然の大平の死により、官邸の方は伊東正義官房長官が総理臨時代理として内政を監督し、党の方は西村英一副総裁が総裁代行として選挙戦の采配にあたり、サミットの方は大来佐武郎外務大臣が大平の代理として首脳会議に出席するという、異例の総理総裁権限の分散によりこの危機を乗り切ることになった。48年ぶりの現職総理の死去という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった。有権者の多くも自民党候補に票を投じた。「香典票」と呼ばれた同情票も自民党有利に働いたとされることもある。結局自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した。ただ、この選挙については上記のような「同情票」といった見方が少なくないが、今日の政治学では1977年参院選から始まった自民党の党勢回復の一環であったと位置づけるものが多い。大平の選挙区だった香川2区へは娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し当選を果たした。葬儀は7月9日に内閣と自民党の合同で行われた。党内からは現職首相の死亡なので国葬という意見もあったが、控えめのほうが大平にふさわしいという伊東の主張により内閣・自民党合同葬となった。葬儀では一般市民も4000人近くが長い列を作り、香典だけでなく、家に咲いた花、自作の油絵を供えようとする者もいた。墓所は東京の多磨霊園と郷里豊浜の豊浜町墓地公園にある。豊浜の墓碑銘には正面に「大平正芳之墓」、左面に盟友の筆による「君は永遠の今に生き 現職総理として死す 理想を求めて倦まず 斃れて後已ざりき 伊東正義 謹書」、右面に戒名「興國院殿寛道浄基正芳大居士位」が刻まれている。「永遠の今」は大平が生前よく揮毫した一句である。郷里の観音寺にあった選挙事務所は没後に大平正芳記念館となったが、建物の老朽化にともない2015年(平成27年)3月末で閉館した。閉館後、文書類は国立国会図書館に寄託し、元首相の蔵書は香川県立図書館に寄贈されることになった。遺品については地元の観音寺市に寄贈される。大蔵省の出身で、蔵相時代の赤字国債発行や財政再建への強いこだわりがあり、財政家としての側面は広く知られている。大平自身は三木内閣の蔵相時代に赤字国債の大量発行に踏み切った責任を強く感じ、「子孫に赤字国債のツケを回すようなことがあってはならない」との思いから、内閣総理大臣に就任した際に税制改革を断行しようと考えて一般消費税導入を提唱した。しかし自由民主党内からの反発や野党・世論の反対を受け、また1979年衆院選での自由民主党大敗もあって挫折に追い込まれた。大平自身の取り組みで後世への遺産となったものには、むしろ外交など対外関係にまつわるものが多く、戦後日本を代表する外政家といえる。外務大臣としては、池田内閣時代における日韓交渉、田中内閣における日中国交正常化交渉で、いずれも重要な役割を果たした。総理大臣時代に提案した「環太平洋連帯構想」は今日のAPECを始めとするアジア太平洋における様々な地域協力へと受け継がれている。また、特筆すべきものとして、鄧小平との交流とその影響がある。2人は1978年以降の短期間に合計4度も会談しているが、この中で大平は、占領期の傾斜生産方式や自身が深く携わった「所得倍増計画」を始めとした戦後日本の経済発展について詳細に説明、それがGNP「四倍増計画」その他、鄧小平による改革開放の着想と策定に与えた大きな影響について、日中双方の専門家から指摘されている。なお、専任の外務大臣としての在職日数は4年に及び、これは戦後最長である。演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをすることからアーウー宰相の異名を取った。また、その風貌から讃岐の鈍牛とも呼ばれた。このため鈍重な印象が強かったが、実際は頭の回転が早く、ユーモアのセンスもあった。発言も論理的で、早口であり、「あーうー」を除けば全く乱れがなかった。自身は「大平さんはあーうーである、あーうーの大平さんということで、この頃、声帯模写でも随分有名になっておるようです」「私は長い間戦後で一番長い外務大臣をやらせて頂きました。私に質問が集中致します。その人に答えなければなりませんが、外務大臣の答弁というのは、ワシントンもすぐキャッチしております。モスコーも耳を傾けております。北京も注意しておるわけでございまするから、下手に言えないのであります。そこで、『あー』と言いながら考えて、『うー』と言いながら文章を練って、それで言う癖がついたものですから、とうとうそういうことになったのでございますが、私は悔いはございません」と発言している。この「あーうー」は当時流行語にもなり、物まねする子供も多かった。このような朴訥で謙虚な人柄だったが、「戦後政界指折りの知性派」との評が一般的で、学問や人間の知的活動への畏敬の念を、政治の場にあっても終生失わなかったという。財政問題への取り組みや、「総合安全保障」の提唱、1960年代の外相時代から、自衛隊も含めた積極的な国際貢献を唱えたことなど、その政治思想や経済観の先見性は今日顧みられることが少なくない。盟友であった鈴木善幸は、「大平君は個人の政治家としてはたいへん立派な業績を残されたけれども、大平政権としてはそういう党内抗争の渦の中に埋没してしまって、内閣としての十分な成果を修めることができなかった。ですからああいうように哲学者といわれ、思想家といわれた大平氏が残した著書、文献はですね、非常に深い思索、思想を持った政治家、宰相とみられておるんだけれども、実際にやった仕事というのは、そういう政界のドロ沼の中に埋没してしまったと、こういうことですね。」と評価している。2008年頃から評伝、回想録や研究所、大平自身の著作集などが相次いで刊行されている(2010年5月1日朝日新聞、5月2日読売新聞)。

出典:wikipedia

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